4.これが解だ

 夏目漱石なつめそうせきの『こころ』を読み終わり、読書というのも良いものなのかもしれない、などと思った。次に読む本を考えて、かなめは結局『草枕くさまくら』しか思い浮かばず、大学の帰りに真っ直ぐディ・ヴィーゲには帰らず本屋へと向かった。

 棚から夏目漱石の『草枕』を選び、カウンターへと向かう。そこで隣のレジをふと見れば、蒼雪そうせつが財布を取り出して代金を支払っているところだった。

姫烏頭ひめうず

「ああ、何だ。君か」

 偶然というものは、あるらしい。

 代金を支払えば一応待っていたらしい蒼雪が、本屋の出口のところで立っていた。彼の手にも、薄い紙袋がひとつ。

「何買ったんだ?」

一色いっしき栄永さかえの『怪異異聞録かいいいぶんろく』だ。この人の作品は、集めているから」

「聞いたことないな……」

 有名な作品ならばタイトルくらいは聞いたことがありそうなものだが、その作品のタイトルに聞き覚えはない。

 本屋の自動扉が開いたところで、これまた見知った顔とすれ違う。

「あれ……今の」

「ディ・ヴィーゲの常連の、女性の方だろう」

「そう、だよね」

 間違いなく沙世さよであるとは思ったのだが、沙世は要に気付いた様子もなく、つかつかと店内へと入っていく。

 化粧が、いつもより薄くて崩れている気がした。スーツも、皺がある気がした。いつも完璧な身支度をしている印象があるから、一瞬彼女であることが分からなかったというのは、要の言い訳だろうか。

「君は、『こころ』は読み終わったのか」

「読み終わったよ。だから次は、『草枕』を読んでみようと思って。木瓜ぼけが出てくるのが確か、これだったよな」

「そうだな」

「何か、俺は別に篠目ささめ先生の教え子じゃないんだけどさ。影響受けてるみたいな、そんな変な感じだ」

 篠目秋則あきのりという人物と、顔を合わせたことがあるはずもない。けれど蒼雪の、それから弘陽こうよう悠馬ゆうまの、兼翔の中にもその人はいて、そこから篠目秋則という人物像を要は掬い上げている。

 彼の遺書がなければ、夏目漱石を読もうなどとは思わなかった。久しぶりに読書をしようと、そんなことを思わなかった。

「……そうか」

 自転車置き場のところで、自転車の鍵を開ける。蒼雪は徒歩のようで、要は自転車を引きながら、彼の隣に並んで歩いた。

 読み終えた『こころ』の中で、Kは遺書を書いていた。「先生」もまた、分厚い遺書を書いて「私」に送った。

「Kはさ、何で死んじゃったんだろ」

「さあ、どうだろうな。その辺りは色々と取沙汰されることだが」

「単純にお嬢さんを先生に取られたから?」

「そういう解釈も、できる。ただ、前にも言った通り、俺はそれには懐疑的だ。それならば、ひとつ違和感が生じる部分があるからな」

 あの中で「先生」はKに先んじてお嬢さんに結婚の申し込みをし、承諾された。Kがお嬢さんに惹かれているのを知りながら、Kを裏切った。

 Kの自殺は、その裏切りから数日後のこと。

「違和感?」

「『精神的に向上心のないものは、馬鹿だ』と先生に言われたKは、覚悟という言葉を口にする。悲痛な様子で覚悟を口にした夜、Kは先生の部屋を訪ね、寝たのかと聞くわけだ」

 上野でのやり取りの後に、確かにそんな場面があった。あの『精神的に向上心のないものは、馬鹿だ』という言葉を、「先生」がKに告げた後だ。

 Kの自殺の引き金は、その言葉なのだろう。けれどそうであるのならば、お嬢さんへの恋が破れたことだけが原因とは言えない。

「なぜ、Kはそんなことを聞いたのか。先生が寝ていたのなら、Kは何をするつもりだったのか」

 寝ていれば、見られない。

 Kは「私」が眠っていて見られない状態であったのならば、そこで何をしようと考えていたのだろうか。

「Kはそこで、自殺をしようとした?」

「そう考えれば、先生がKを裏切るより前に、Kは自殺しようとしていたことになる」

 精神的に向上心のないものは、馬鹿だ。

 Kは恋を、苦しいものとしていた。恋を成就させることはそれまでのKの生き方に反してしまう、けれど恋を諦めることもできない。それがKにとっては『ただ、苦しい』と、その一言だった。

 苦しみの中にあるKに「先生」が告げたその言葉は、Kの信念の言葉だった。

「そうか……Kはきっと、道を踏み外した自分に、絶望したんだな。お嬢さんへの恋心によって、他人の批評を求め、自分の弱さを知ってしまったから。先生の言葉で、道を踏み外した自分に気付いてしまったから」

 信じて進んでいた道を踏み外した自分に、「先生」の言葉で気付いてしまった。自分が馬鹿であるということを認めるのは、Kにとっては果てしない絶望であったのだろう。それこそ、自分で自分の命を絶つほどには。

「恋愛とは、嫉妬で人を殺したり、戻らない人を待ち焦がれたり、寂しさのあまりに気が狂ったり、するらしいからな」

「らしいって姫烏頭」

「俺には、よく分からない。知識として、知っているだけだ」

 恋や愛というものについて、蒼雪はまるで他人事のように口にする。

 要も別に、そういうものを理解しているとは言えない。けれど、幼い頃に抱いたほのかな想いであるとか、思春期に味わったどきどきするような気持ちは、おそらく恋と呼んで差支えないものだろう。

「別に困らないから良いだろう。だいたいそうやって恋だなんだで、あっさり家族を捨てたりするんだ。そしてその恋とかいうものに裏切られて、自分は悪くない騙されたとか叫ぶような人間もいる」

「何か、やけに具体的だな?」

 吐き捨てるように言われた言葉が、気にかかった。

「この目で見たからな。母親がそうだった」

 以前両親が健在なのかを聞いてしまったときのような、ばつの悪い気持ちになる。蒼雪はさらりと答えているものの、聞いていいものであったとは到底思えない。

 黙り込んでしまった要の顔を、蒼雪がじっと見ていた。見られていることは分かっていたが、要はそちらを向くことはできなかった。

「だから、君。言わない方が良かったと後悔した顔をするくらいなら、最初から口を閉じておけば良いだろうに」

 言葉はすでに口から滑り落ちていて、再び呑み込むことはできない。発した言葉は、なかったことにはならない。

 たとえそれが、誰かを傷付けてしまったとしても。

「戀よ戀。我が中空ナカゾラになすな戀。戀にハ人の。死なぬも乃かハ。無慙ムザンの者乃心やな」

 蒼雪が不思議と腹に響くような音で謡う。

「今度は、何だ」

「『恋重荷こいのおもに』だ。ある老人が若い女御にょうごに恋をして、けれどその恋をもてあそばれた挙句に死ぬ」

「それは、また……」

「恋とはそういうものらしいな」

「そう括るのもなかなか横暴な気がするけど」

 弄ぶというのは、なんとも穏やかではない。一体どのような話かと想像してみても、その題名と蒼雪の謡だけでは、うまく想像ができなかった。

 恋で人は、死ぬものか。恋で人を、殺せるものか。

「でも、そうか。これ、もしもお嬢さんが悪女だったら、先生もKも翻弄されて、大変なことになったのかも。実際は、そんなことないんだけど」

「どういう意味だ?」

「え、そのままだけど。だってほら、Kってお嬢さんに惚れ込んでるから。お嬢さんがもしも『私のことが好きならこうして』みたいに言ったら、その通りにしたのかもって思ってさ」

 好きな人のためには何でもしてやりたい。

 その言葉だけならば、まるで美談だ。けれどそこに他人への悪意が挟まったり、他人を意のままに操ろうとしたりする意志が挟まれば、それは途端に凶器になる。

 例えば好きな人の嫌いな相手を、排除しようとする。それを行った人間は、そのことを恋した人のためであると、誇るのだろうか。

「……なるほど」

「ちょっと思っただけだから、そんな真顔で納得されても困るんだけど」

 蒼雪は顎のところに軽く握った拳を当てて、少し考えている様子だった。こんなものは本当にただの思い付きで、実際にそんなことはない。

「いや、俺にはない発想だから」

「あ、そう……」

 確かに蒼雪が誰かに恋焦がれるというのは、まったく想像がつかない。

「でも、そうか。だから、か。先生はそれを気付かせたかったけれど、気付いて貰えなかった。『精神的に向上心のないものは馬鹿だ』、と、その通りなんだ」

 何がそういうことなのかは分からないが、とにかく蒼雪は一人で、何かに納得したように「そういうことか」と繰り返す。

 彼の中で、何が繋がったのだろうか。何かの解が、導き出せるようなヒントがあったのだろうか。

深山みやま、俺は、宗方むなかた先生は

「前も言ってたな、そんなこと。篠目先生ほどじゃないけどって」

「そうだ」

 前に宗方に会いに行ったとき、要が尋ねたことだ。宗方をどう思っていたのかという問いに対して、蒼雪は確かに「嫌いではなかった」という答えを返している。

 篠目秋則ほどではない。けれど、嫌いではない。

「でも、金代かなしろ先生は、んだ」

「それも、言ってたな」

 金代は「どうでも良かった」と、そう言って。けれど今考えれば「好きではなかった」と評し、それはつまり嫌いだったということなのではないかと、要は思っている。とは言え彼が金代を「嫌い」と言ったわけではない。

「俺は――今の宗方先生は、。つまり、そういうことなんだ。篠目先生にとってのKは」

 篠目秋則の遺書には、「先生」がKに告げた言葉がある。恋をして、道を踏み外したことを、Kに自覚させた言葉が。

「なら、透明人間は? 川辺かわべ兼翔けんしょうは、どうして……」

 蒼雪は、兼翔は平成の透明人間ではないと言っていた。そのことばを考えるのならば、本当の平成の透明人間が別にいることになる。

「川辺だけでは、不可能なんだ。川辺にできることは、防犯カメラの位置の把握……ただそれも、八年前の記憶だが。それから、待ち伏せをして被害者を殴ること。殴って、逃げることだけだ。それ以上のことは、川辺にはできない。あいつはプライドが高いのに自分の足で立つこともできない、小心者だからな。あいつに人は、殺せない」

 蒼雪の言う兼翔の人物像は、的を射ているような気がした。かつて天才であった自分を捨てることができず、認めない周囲に当たり散らし、けれど自分のしたことを指摘されると途端に狼狽する。自分が優位に立てなくなれば怒鳴り、そして襤褸ぼろを出す。

 兼翔は確かに染井そめい一穂かずほの頭を殴ったということを口走った。そして、他の奴らも殴っただけで死ぬわけがないとも。

 平成の透明人間がどのように人を殺したのか、殴ったという話は公表されてない。それを知っているのは警察と、そこから情報を得ている蒼雪と、蒼雪から話を聞かされた要たちと、それから、実際に頭を殴った犯人だけ。

「どのようにして、川辺は、卒塾生や卒塾生の保護者、通塾生の保護者について、情報を得た? ましてこの近くに住んでいるなんて、どうやって知る?」

「あ。確かに、それはそう、かも」

「それに、いくら塾の関係者だからって、いきなり兼翔が声をかけたところで、路地裏にまで来てもらえたとは思えない」

 いくらアルバイトであっても、個人情報を見られるとは思えない。まして他の校舎に通っていた生徒や、生徒の保護者が、今皐ヶ丘さつきがおか校の周辺で働いているとか、あるいは住んでいるとか、そんな情報が得られたはずがない。

「じゃあ、誰かが、教えた?」

 考えられることとしては、それだけだ。その情報を得ることができる誰かが、兼翔にそれを伝えた。けれどそうだとしたら、兼翔はその人物に使われたことになる。

 誰かが裏で糸を引いている。自分は裏で兼翔を操って、まんまと殺した。

「だから、篠目先生の遺書にKへの言葉があったんだ。あの遺書に書かれていたことは、確かに川辺についてのことなのかもしれない。けれどKとは、川辺のことではない。なぜなら先生は、本当はKに自分で気付いて欲しかったからだ。あの言葉を言わずとも、道を踏み外していると、いうことに」

 篠目秋則が罪と称したものは、何なのか。これは自分の罪であると書いた彼の悔いは、一体何であったのか。

 遺書に記された言葉は、Kを殺すもの。篠目秋則はKを殺したかったのだろうか。Kが平成の透明人間であるのならば、Kを殺せば殺人は止まる。

「これで本当に、解けた。これが、解だ。だから先生は、自殺を選んだ」

 例年よりは、暖かな冬である。けれどそれは、寒くなくも、過ごしやすくもない。吹き付けてくる風は冷たくて、要は思わず亀の子のように首を竦めたのだった。

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