3.だって、先生が

 川辺かわべ兼翔けんしょうという人物をかなめが見た印象は、どこか苛立っているように見える、というものだった。

 二月七日、先日ディ・ヴィーゲで弘陽こうよう悠馬ゆうまと会った日から一週間後のことである。

 ディ・ヴィーゲを貸し切りにして良いという樹生たつきの言葉に甘える形で、要と、蒼雪そうせつたちだけが喫茶店の中にいる。

 何かあったら呼んでくれと樹生も住居部分に引っ込んでしまい、クラシック音楽も消えている。静まり返った喫茶店の中で、ごくりと兼翔がアイスコーヒーをストローを無視して背の高い紙コップに口をつけて飲み込んだ音が、やけに大きく響いた。

 ガラス製のものや壊れるものはどけておいてくれと、そう蒼雪に言われていた。だから今日は飲み物を紙コップに淹れてくれるように、要から樹生に頼んでおいた。

「何だよ、お前ら揃って。蒼雪なんか、二回もうちに来やがったし」

「今日は落ち着いてるらしいな、川辺」

 他に誰もいなくとも、窓際の一番奥の席。窓際には蒼雪と弘陽が向かい合い、蒼雪の隣には悠馬が、弘陽の隣には兼翔が座る。

 要は少し離れた位置に立って、彼らを見ているだけだ。兼翔は「誰だこいつ」と言っていたが、蒼雪の「店員だ」という言葉で納得した様子だった。

「折角バイトも休みだし、ジジイもババアもクソガキもいねぇんだ。一日のんびりしようと思ったのにさ」

「それなら、断れば良かっただろ」

「弘陽がうるせぇからな」

 また、ごくりと兼翔がコーヒーを飲み込む。そして彼は睨むようにして、弘陽を見た。

「馬鹿みたいに何回も何回も連絡してきやがって。挙句家にまで押しかけんな」

「ごめんって。でもそうしないと、兼翔来てくれないだろ。前だって当日にやっぱ行かないって言ってきたし」

「で、俺に聞きたい話ってなんだよ。篠目ささめが死んだ話か?」

 どうにも、兼翔は言葉が荒い。声も大きめなせいか、兼翔が言葉を発する度に、悠馬がびくりと少しだけ肩を揺らしている。

 蒼雪はさして気にした様子も見せず、胸ポケットからいつもの手帳を取り出していた。

「二〇一八年三月二十四日」

「なんだよ」

染井そめいが、殺された日だ」

 平成の透明人間の、最初の犯行。殺されたのは染井一穂かずほ、十八歳。数日後に大学入学を控えていた、高校を卒業したばかりの青年。

「それがどうかしたのかよ。染井が死んだ日が、俺に何の関係がある?」

「俺は金代かなしろ先生に聞いた話で、気になっていた部分があった。だから、君の母親に聞いてみたんだ」

 金代は、何を言っていただろうか。要もそのときに金代が言っていた言葉を、思い出そうとしてみる。

 染井一穂について、金代は何と言っていただろう。彼が篠目秋則あきのりにあった日のことを。

「君の母親、カレンダーを過去三年分残しておくらしいな。まだ二〇一七年度のものが残っていて、助かった」

 手帳は閉じて机の上に置き、蒼雪はスマートフォンの画面を兼翔に突き付ける。その画面を見た瞬間に、兼翔が眉間に皺を寄せてひどく嫌そうな顔をした。

「これが、二〇一八年三月二十四日の、君の予定だ」

「あのクソババア、余計なこと書きやがって」

「余計なこと? 外出の予定を聞いておかないと夕飯が無駄になると仰っていたぞ」

 ひょいと、兼翔の横から弘陽が蒼雪のスマートフォンの画面を覗き込む。要の位置からは見えないそれには、一体何が表示されているのか。

「兼翔、一穂と一緒に篠目先生に会いに行ったのか?」

 少しだけ聞き辛そうにしながら、弘陽が口を挟む。そんな彼に、があっと兼翔が吠えるように言葉を返した。

「行ってねぇよ!」

 蒼雪はそれでも、ただ平淡に彼を見ている。

「ならば、この予定は何だ。午後、染井君と二ツ宮ふたつみや。君は行っているはずだ。金代先生が言っていた。その日宗方むなかた先生が二ツ宮校に代講に行っていて、川辺に会っているのだから」

 確かに金代は、宗方が川辺に会ったということを言っていた。つまりその日、兼翔は二ツ宮校の近くに行っている。

 午後、染井と二ツ宮。染井一穂はその日の午後、二ツ宮の校舎へと篠目秋則に会いにいっている。その予定からして、兼翔を誘って。

「兼翔……」

「うるっせぇな、悠馬も! おどおどと鬱陶しい! はっきり喋れよ!」

 背中を丸めたまま、けれど顔を上げて兼翔の顔を見た悠馬が、彼の名前を呼ぶ。けれど即座に兼翔に吠えられて、悠馬は怯えたような顔で肩を跳ねさせた。

「お前ら頭悪くて、西山寺せいざんじ男子にも受からなかったくせに」

「川辺」

「何だよ蒼雪。お前のそのこっちを下に見てるような面、昔から気に入らねぇんだよ」

 咎めたかったのか、どうなのか。兼翔を呼んだ蒼雪の声は平淡で、差し挟まれている感情が読み取れない。

 ただじっと、蒼雪は兼翔の顔を見ていた。

 あれは、下に見ているような顔に見えるのだろうか。むしろ、そんなことすら蒼雪は思っていないのではないかと、要は思う。見透かすような顔ではあれども、見下すような色はどこにもない。

「あのさ、姫烏頭ひめうず。兼翔、どうしちゃったんだろう。昔はこんな風じゃ、なかったよね」

「そうだな」

 悠馬に問われて、蒼雪が同意する。

 要は今日初めて兼翔に会っているが、彼らは違う。彼らは小学校六年生の頃の兼翔を知っていて、弘陽や悠馬は名前で呼ぶほどの仲でもある。

 彼らはきっと、友人だったのだろう。同じ校舎、同じクラスの。

「兼翔! お前口悪いし文句多かったけど、そんなこと言う奴じゃなかっただろ!」

「うるせぇ! 弘陽、お前は良いよなぁ! がんばってるって先生に褒められてさ!」

 弘陽が思わず声を荒げて、けれどそれ以上の荒さで兼翔が叫ぶ。

 まるでハリネズミか、ヤマアラシか。それとも、そういう犬かもしれない。そうすることで何とかして、自分の身を守ろうとするかのような。

「君、頑張ってなんていなかっただろう。それなら当然、頑張っていると褒められるわけがない。だって君、花園はなぞのの半分も勉強していなかったと思うが」

「はっ、じゃあ一生懸命勉強しても合格できなかった弘陽は、ほんっとに頭が悪くて可哀想だったってことだよな! あの頃の俺は天才だったしな!」

 ばんと机を叩いて、兼翔が立ち上がる。蒼雪はそんな彼を凪いだ表情で、けれど見透かすような視線で、ただ見ていた。

 ぜいぜいと兼翔が肩で息をする。一気に叫んだことで、酸素が足りなくなったのか。

「……ならば、、何だ」

「あ?」

「今の君は何だと、聞いている。君は今言っただろう、天才だったと。確かに小学生の頃の君は天才的だっただろうな。それでも俺や、染井には、勝てなかったわけだが。それで? 今の君は?」

 兼翔の顔が、みるみる歪んでいく。

「中学から高校に上がれず、浪人し、医学部医学科に行けなかった、君は?」

「うるせぇ!」

 蒼雪の声は、ただただ平淡だった。淡々と、ただ事実だけを突き付けるかのように、感情も何もない音を、兼翔の耳に突き刺していく。

「お、おい、姫烏頭……あんまり怒らせると……」

 座ったまま兼翔を見ている蒼雪に、弘陽が小さな声でそう告げた。けれど蒼雪は彼を手で制し、それ以上を言わせない。

「誰から聞いた! 一穂か!」

「そうだが、何か?」

 蒼雪の対応は、兼翔を煽っているようでもある。声を荒げて叫ぶ兼翔と、淡々と言葉を紡ぐ蒼雪と、まるで蒼雪がお前と同じ場所には立たないとでも告げるようだ。

「染井は君を心配して、俺に相談に来た。何とかしてやる方法はないのかと」

「あの偽善者!」

「偽善者? 染井は本気で君を心配している顔だったが」

「あいつ! 篠目にもバラしやがったんだ! その篠目に会いに行って死んだなんて、ざまあねぇな!」

 兼翔にとって、それは恥というものだったのだろうか。天才であったのに、染井一穂と蒼雪以外には、負けることもなかったのに。

 顔を赤くして、耳まで赤くなって、兼翔は叫ぶ。

「篠目だって死んだ! 自殺? お似合いだよ! あんな奴死んで当然だ! あいつは何もしてくれなかった。俺を助けてくれなかった!」

「兼翔! 何言ってるんだよ!」

 声を荒げて立ち上がったのは、弘陽だった。一人おろおろと残り三人の顔を見ているだけの悠馬は、どこか泣き出しそうな顔にも見える。

「そうだろうが! 俺がこんな風になったのは、篠目のせいだろ!」

「何でだよ!」

「小学校のときに、あいつはうるさいことばっかり言ってただろ! 他の先生は宿題とかやってなくても、お前は別に良いって特別扱いしてくれたのにさぁ!」

 むしろそれは篠目秋則だけが彼を見捨てなかったという証明ではないのだろうか。他の先生は特別扱いという彼の自尊心を満たすような言葉で諦めたものを、篠目秋則だけが諦めなかったのではないのか。

 うるさいことを言ってくれる人の方がありがたいものよと、姉が言っていた。今となってはもう、要にうるさいことを言ってくれるような人はいない。

「そうやって自分に都合のいい言葉だけを聞いた結果が、今の君だろう」

「あ?」

「君の今の状態は、すべて自分の責任だろうが」

「何だと!」

 兼翔は再び机を叩き、蒼雪の方へと身を乗り出す。近くにいたのならば襟首を掴みかねないほどの勢いで、目を見開いて、兼翔は蒼雪の前にいた。

「お、落ち着け、兼翔! 姫烏頭も、煽るなよ……」

「いや、俺は言う。君のそれは、自業自得だ。篠目先生の言葉にも耳を貸さなかったが故の、何もしなくとも成功できるという体験をしてしまったが故の、自らの怠慢が招いた結果だろうが」

 慌てたように二人を落ち着けようとする悠馬の言葉を聞き入れることはなく、蒼雪は畳みかけるように兼翔に言葉を投げつけた。

 小学校の頃の、成功。さして勉強をせずとも最難関校に合格ができた、ならば自分は努力なんてしなくても成功できるのだという、そんな思い込み。自分は天才であるというそれを捨てることもできず、そのまま成長してしまった人間の、今。

「違う! 篠目のせいだ!」

「違うだろ! 篠目先生だけが、兼翔に言ってたじゃないか! 最後まで、ずっとずっと真剣に、お前に向き合って言い続けてたじゃないか!」

 兼翔の荒さに負けじと、弘陽が声を張る。

「きちんと勉強しておかないと、いつか川辺が困ることになるぞって、ずっと!」

「うるせぇ!」

 兼翔は弘陽の方へと向き直り、隣にいた彼の襟首を掴んだ。ともすれば頭がぶつかりそうなほどに顔を近付けて、兼翔はなおも吠える。

「俺はこのままで良いんだ、俺は何も間違ってないんだ。俺は、お前らみたいに一生懸命やらなくたって、うまくいくんだ! 先生も、そう言ってた!」

「うまくいっていないくせにか」

「うるせぇ!」

 弘陽の襟首から手を離し、兼翔はまた蒼雪の方を向く。息を荒くし、がなり立て、自分の身を一生懸命に守ろうとしている。

 自分は天才である。他とは違うのである。だから、何もしなくても成功できるはず。ただそれだけが、自分の中の支えであるかのように。

「染井は、中学でも、愚直に勉強していただろう。君はそもそも頭の出来が良いのだろうから、染井を見習って少しくらい勉強したら、今のようにはならなかったのだろうに」

「何だと! あいつだけ……あいつだけ成功しやがって! それで篠目に会いに行こうなんて誘ってきやがって、何様のつもりだよ!」

「君を、会わせたかったのではないか。篠目先生なら、君に何か言葉をくれると、真摯に向き合ってくれると思って」

「余計なお世話だ!」

 染井一穂は、純粋に兼翔を心配していたのではないだろうか。小学生の頃に友人で、そして中学の終わり、絶望に落とされた彼を一番近くで見ていたからこそ。

 そうでなければ高校の三年間会わなかったであろう彼と共に、篠目秋則のところへ行こうとするだろうか。嘲笑おうとか、そんなことを思ってそんな行動を取るだろうか。

 要は染井一穂のことは知らないし、生涯彼と直接話す機会は失われている。それでも彼らの言葉からして、分かることがある。

「腹立たしいからな、校舎の近くでやっぱやめたって行くのやめてやったんだよ! 結局一穂は一人で会いに行ったんだよなぁ! それで戻ってきてお前も行けば良かったのにとか言うから、腹立たしくて、思い知らせてやろうと思って近くにあったブロックで頭殴ってやったんだ! ちょっと怪我でもすれば良いって!」

 兼翔の叫びに、弘陽と悠馬が、凍り付くように止まる。

「は?」

「え?」

 兼翔の顔が、見る間に青褪めた。人間の顔は真っ赤から真っ青に一瞬で変わるものなのだなと、そんなことを要が思ってしまったのは、おそらく現実逃避だ。

「あ……ちが、違う……違う!」

 蒼雪は、たたじっと、兼翔を見ている。

「違う! そもそもあんな頭殴ったくらいで、死ぬなんて思わなかったんだ! 一穂が倒れたから怖くなって逃げて、救急車呼ぼうと思ったけど、俺のせいだっていうのが怖くてできなくて! その夜に一穂が死んだって聞いて、それで! しかも篠目が疑われて、意味わかんないだろ!」

 言い訳をしようとして、誤魔化そうとして、兼翔は更に墓穴を掘っていく。

「他の奴らだって、殴ったくらいで死ぬわけがないんだ!」

「……殴って、死んだ?」

「あ、ち、違う! だって、先生が、だって! 自分も共犯になってやるから、同じことをしろって!」

 平成の透明人間の殺し方は、どうだったか。

 一人目から七人目まで、その致命傷はすべて同じ。致命傷となったのは、殴られた傷ではない。そして、蒼雪はこうも言っていた。

 公表されているのは、刺されたということだけ。殴られたことは、犯人と関係者しか知り得ない。

「平成の透明人間の被害者は、その致命傷は……やはり、そうか。だから先生は、死んだのか。自ら。

 灰色の手帳を開いて、蒼雪はその中に視線を滑らせる。青褪めた顔をして、崩れるように椅子に座り込んだ兼翔は、手で顔を覆った。

「全部、だって、先生が……」

「そうか」

 蒼雪が、ぽつりと静かに言葉を落とす。そうして彼は顔を上げ、弘陽の方を見る。慌てて「何?」と聞いた弘陽に「あと一回頼まれてくれ」と告げた蒼雪に、彼は訝しげな顔をしつつも、分かったと頷いた。

 警察を呼ばなくていいのだろうかと、そう思いつつ蒼雪を見る。蒼雪は要の考えを見透かすかのように「全部終わってからだ」と告げた。

「川辺は――からな」

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