2.光と影

「さあ、どうかな」

 蒼雪そうせつはアイスティーのグラスを、ストローでくるりと掻き混ぜた。透明な水の層と、紅のアイスティーの層と、混ざり合って、境目が分からなくなる。

 弘陽こうようは目を見開き、信じられないものを見るような顔で蒼雪を見ていた。

「でもそれだと、兼翔けんしょうが、一穂かずほを殺したことになるし、他の人も」

「人を殺したいほど憎むのは、何も珍しいことじゃない。些細なことで、殺したくなることだってある。違うのはただ、本当に殺すか、殺さないか。そのを越えるかどうかだ」

 かなめは平成の透明人間を前にしたとき、姉を殺した相手を目の前にしたとき、その相手を殺したいほど憎むのだろうか。蒼雪の言うその最後の一線というものを踏み越えて、本当に相手を殺すのか。

「俺なら、越えない。自ら誰かを殺すような愚は犯さない。やるならもっとうまくやる――うまく、やった」

 蒼雪の言葉は、少しだけ引っかかる。けれどその引っかかりを、要はあえて踏みつぶして、なかったことにした。今はそんなものに引っかかっている場合ではない。重要なことは、そこではない。

姫烏頭ひめうずが、兼翔に疑いを持ったのは、どうして?」

「これを、見てくれ」

 悠馬ゆうまの問いに、蒼雪は椅子の横に置いていたリュックサックから四つ折りの紙を取り出し、机の上に広げた。大きめの紙には、西暦と、日付、それから曜日が書かれている。

「何だこれ。日付?」

「二〇一八年四月から二〇一九年四月にかけての、川辺の質問対応とテスト監督のアルバイトの日付」

「こんなもの、どこから」

 弘陽は大きめの紙をじっと覗き込んで、目を動かして日付を追いかけている。

「もう一度川辺の家に行ったと言っただろう。川辺の雑な性格を考えれば、バイトのシフトも忘れかねない。当然それを心配した母親が、川辺の家の冷蔵庫にあったカレンダーに記入していると思って聞いてみた。前に行ったときに、冷蔵庫の上に古いカレンダーらしき紙が丸まってるのは見ていたし」

「姫烏頭、よくそんなところまで見てたな。俺は気付かなかった……」

「気になるだろう、そういうのは」

 要も弘陽に同意する。他人の家でそこまで細かいところを気にするのは、失礼なのではないだろうか。目ざといと言うべきなのか、細かいと言うべきなのか、ともかくどちらと言えばいいのか要には分からない。

「そして、これが平成の透明人間の犯行があった日。二人目は二〇一八年四月十六日月曜日。三人目は七月十三日金曜日。四人目は十月九日火曜日。五人目は二〇一九年二月五日火曜日。六人目は四月五日金曜日」

 紙の隣に蒼雪が並べたのは、手帳だった。七つ並んだ日付のうち、赤い線が引かれているのは、二つ目から六つ目まで。

 日付を蒼雪の人差し指が辿っていく。そして六つ目まで辿った指先で、蒼雪は大きな紙をとんと叩いた。

「全部平日で、そして……川辺のバイトが、休みの日だ」

 確かに蒼雪の言う通り、その赤い線が引かれている日付は大きな紙の上にはない。

「でも、それだけで?」

「それだけなら、俺も偶然を疑う。ただこの、四人目と五人目、間があるだろ。ここだけが四ヶ月の間がある」

 他は三ヶ月か、二ヶ月か。

「この期間が、川辺が腕を骨折していた時期と、重なっているんだ。十一月の末に川辺は事故で腕を複雑骨折していて、全治六週間だったと聞いた。つまり完治したのは一月の半ば、だから五人目の犯行は二月五日になった」

 兼翔が犯人であるのならば、腕を骨折している間の犯行は不可能だ。

「腕が治った後の一月では、条件に一致する日がなかったからな……だから、二月五日になったんだ」

 蒼雪の言う条件とは、何だろうか。平日、兼翔のアルバイトのない日、それ以外の条件が何かあるのか。

 手帳に書かれた日付を見てみても、要には何も浮かんでこない。日付は違う、奇数や偶数で揃っているわけでもない、曜日も異なる。

「なあ、本当に? 姫烏頭は本気で、兼翔が平成の透明人間だと思ってるのか?」

 机の上にある弘陽の両方の手は、白くなるほどに握られている。その拳が少しだけ揺れていて、そして弘陽はその手を開いて机を叩いた。

 一体何の音かと、正治しょうじ沙世さよが要たちの方を見る。何でもないと要は首を横に振ったものの、けたたましい音を立てて弘陽が立ち上がったせいで、彼らの視線は逸れることがなかった。

「だってあいつ、中学は第一志望に合格してるだろ! バイトだってしてるだろ! 塾を恨んだりなんて、そんなのは……」

「げにや世の中乃。ウツユメこそマコトなれ。保元ホオゲンの春乃花壽永ジュエイの秋の紅葉モミヂとて。散々チリヂリになりかむ――一度栄華を知る方が、没落する絶望は大きいと思わないか」

 合格したとて、そこはゴールではない。むしろそこはスタート地点でしかなく、そこから先の道を自分の足で進んでいかなければならない。

 合格を栄華とするのならば、高校に上がれなかったというのは没落か。

篠目ささめ先生があの言葉を、『こころ』のKへの言葉を告げたかった相手は、きっと道を踏み外した人間だ。先生は塾の中にいて生徒のことをよく覚えている人だ、聞き覚えのある名前があれば、順位表で見た名前があれば、塾に関わりがあると疑ってもおかしくはない。そして気付いたはずだ、皐ヶ丘さつきがおか校から駅までの間に、犯行現場があることに」

 外の人間は、塾に通っている生徒を調べることはできないだろう。今回蒼雪は調べてもらったようではあるが、警察とて事件性がなければそんなことは調べられない。

 けれど、中にいたことがあるのならば、調べることはできるだろう。どのようにして生徒を管理しているのかは分からないが、過去の生徒も現在の生徒も、名簿がないとは思えない。篠目秋則は塾を辞めてはいたものの、教室長であった教師の校舎を訪ねてパソコンを借りている。

「でも先生は、その秘密を抱えて沈んだ。遺書という光だけを遺して、沈んだ。それなら遺書を受け取った俺たちは、その平成の透明人間が誰であろうとも、沈んだものを浮かべなければならない」

 同じ年、同じ校舎、同じクラスにいたからこそ。

「先生は去年の十二月、急に宗方むなかた先生と連絡を取っているんだ。そこで宗方先生に、川辺のバイトのことを尋ねている。それから、同じころに先生は、川辺の家も訪ねている。先生は多分、平成の透明人間の正体に辿り着いたんだ」

 だからこそ、篠目秋則あきのりは、弘陽を選んだ。他の誰に送るのでもなく、弘陽を。

 もしかすると彼は、弘陽の姿に希望を見たのかもしれない。中学受験では第一志望に合格することができずに泣き、けれど大学受験では第一志望合格を掴み取った彼に。

「俺は川辺が関わっていることをほぼ確信している。そして考えるほどに、納得している。そしてそうであるのならば、最初が染井であることも、篠目先生が自殺を選んだことも、納得できる」

 平成の透明人間が殺した、一人目。篠目秋則の教え子であり、川辺兼翔の同級生で、そして同じ学校に通った一人の生徒。

保元ほうげんの春、壽永じゅえいの秋。自分は秋の紅葉のように散り散りになるというのに、染井は、春のソメイヨシノの如く咲き誇っている。躓くこともなく、中学と高校でも成績優秀で、大学も医学部医学科に合格」

 二〇一八年の三月。かつての師に大学合格を報告しに行き、そして、殺された。

「……一番近くで、同じクラスで、強い光と、濃い影に、なったんだろう」

 うらやましいと兼翔が思ったとして、何もおかしなことはない。どうしてあいつは順風満帆なのに自分はと、そんなことを思ったとしても、おかしくはない。

 それを恨みに思ったとしても、何も。

 要は彼らを知らない。だからそんなことを考えてしまうのかもしれないが、そう思ってしまうのだ。

「分かった」

「弘陽?」

 悠馬が困惑したような顔で、弘陽を見ている。

「それが本当かどうか、兼翔に聞くのが、一番早いだろ。聞こう、兼翔に」

 本人を問い質すのが一番早いことは、確かだ。蒼雪の性格であれば本人に一番最初に聞きに行ってもおかしくはないように思うのだが、どうしてだか彼はそれをしていない。

 蒼雪も、迷ったのだろうか。だからこそこうして弘陽と悠馬を呼んで集めた情報を見せて、彼らの意見を聞きたかったのかもしれない。

 弘陽と悠馬は蒼雪の予定を聞き、今日は帰ると告げて立ち上がる。財布を出して代金を置こうとした彼らを、蒼雪が「必要ない」と制していた。日付が決まったら連絡するという言葉を残して、二人は店から去っていく。

 からんころんと、鐘が鳴る。気付けばもう沙世と正治もいなくなっていた。

「二〇一九年四月三十日は、火曜日。ただこの日は……川辺は、出勤している」

 平成の透明人間、七人目の殺人。

 姉だけが、違っている。姉一人だけが、他の六人とは違っている。

 それはつまり要の姉の事件だけは、模倣犯によるものだということなのか。それとも本当に平成の透明人間が、姉だけは無差別に殺したのだろうか。

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