1.道異なる彼ら

 ディ・ヴィーゲに弘陽こうよう悠馬ゆうまと共に姿を見せたのは、一月三十一日、一月最後の日曜日のことだった。悠馬はいつでも良いと言っていたのだが、かなめ蒼雪そうせつの通う大学とは別の大学に通う弘陽は、アルバイトのこともあり、都合がつくのが一月三十一日しかなかった。

 弘陽と悠馬は「いらっしゃいませ」と声をかけた要に笑顔を見せたあと、定位置に座っている蒼雪のところへ向かう。要もまた樹生たつきが「いい」と言うので、彼らの注文した飲み物だけを持って蒼雪のいる机へと向かった。

 蒼雪のところには、すでにアイスティーが置かれている。弘陽はコーヒー、悠馬はオレンジジュース、以前と同じだ。要も樹生が淹れてくれたホットコーヒーを他の二人の分と共に盆へと乗せて、少し迷ったものの要は蒼雪の隣に腰かけた。

「俺たちが小学校六年生のとき、上位クラスにいたのは染井そめい一穂かずほ川辺かわべ兼翔けんしょう国崎くにさき悠馬、花園はなぞの弘陽、それから俺と、女子が三人。たしか女子は全員、北川きたがわ中に合格して、そちらへ進学したはずだ。けれど俺たち五人はそれぞれ、大学生になるまでに歩んだ道が違う」

「道が違う?」

「ああ」

 同じように塾に通った彼らは、けれどそこから別々の道を歩んでいる。重なったところがありつつも、すべてが同じになるはずもない。

 合格した、しなかった。進学した中学はそれで変わる。

「ところで花園。君は篠目先生に会ったとき、どんな話をした?」

「……二ツ宮ふたつみや校に行ったら、篠目ささめ先生は外で草取りをしてた。俺のことを覚えてますかって、花園ですって。先生は『覚えているよ、大きくなったな』って言ってた」

 マグカップに口をつけて、要はコーヒーを一口飲み込んだ。

 弘陽が篠目秋則あきのりに会いに行った理由が、今ならば要も分かるような気がした。蒼雪ですら何度となく口にするその名前、きっと彼らにとっては誰よりも忘れられないだったのだろう。

「俺は、小学校六年生のとき、第一志望に受からなかった。第二志望も駄目で、合格発表の日に先生の目の前で泣きに泣いた。だから、先生の言葉のおかげで、大学は第一志望の教育学部に合格できましたって。で、まだ持ってたテスト直しノートを見せて、俺の宝物ですって、一生大事にしますからって、伝えたんだ。先生は『そうか。そうか』って」

 篠目秋則は、どんな気持ちでそれを聞いたのだろうか。

 マグカップの中の黒い液体に、ちらちらと白い光が反射する。ゆらりと揺れたコーヒーの表面に、答えが浮かんでくるはずもない。

「そんなところ、だけど」

 話し終えた弘陽が、自分の前にあったカップに口をつける。その隣で悠馬も、オレンジジュースをストローで吸い込んでいた。

 蒼雪もアイスティーをストローで吸い込んで、そのグラスを両手で包むようにしていた。グラスの表面は結露していて、蒼雪の手を濡らしている。

「『君たちは、どんなおとなになるのかな』」

「それ……篠目先生がよく言ってた」

「そうだ」

 おとなとは、何だろう。ここにいる四人は誰もが成人している。けれど成人するということが、おとなになることとイコールだとは限らない。

 要から見て、樹生はおとなだった。姉もまた、おとなだった。けれどそれは要を庇護してくれていたから、そう見えただけなのかもしれない。正治しょうじ沙世さよもおとなだと思っているけれども、それはどうしてなのだろう。

「染井は順調に中学、高校と進み、大学は医学部医学科に進んだ。それが第一志望の大学だったかどうかは知らないが、それでもずっと努力を続けて掴んだ結果だろう」

 聞いた限りではあるが、染井一穂は随分と優秀だったらしい。宗方も、金代も、そんなことを言っていた。

「俺は中学に入学し、けれど高校で編入試験を受けた」

姫烏頭ひめうずって、高校はどこだったんだ?」

月波見つきはみ学園」

 どうでもいいことのように蒼雪が口にした学校の名前は、全寮制の学校だった。弘陽と悠馬もそれは知らなかったようで、彼らは二人、顔を見合わせている。

「それは良いんだ。俺もある意味で、順調に進んだ人間の部類だろうな」

 特に挫折することもなく、落ちることもなく。というのは要がただ思うだけのことで、実際には蒼雪にも、それから染井一穂にも、苦しいことや辛いことはあったのかもしれないけれど――蒼雪ならば以前言っていた、親のこととか。

 つまずくことを知らない人間など、きっといない。ただそこで転んで、そして立ち上がる方法を知っているのか、知らないのか、それで人は大きく変わるのかもしれない。

「花園は、第一志望と第二志望に落ちて、第三志望の学校へ。でも、君は腐ることなく愚直に中学と高校で勉強を続け、大学は第一志望に合格した」

 弘陽は中学受験での不合格で折れてしまうようなことをせず、きっと奮起したのだろう。その奮起の源となったのはきっと、篠目秋則の言葉だったのだ。

 だからこそ、それを篠目秋則に報告に行った。

「そして国崎は、西山寺せいざんじ男子とのぎしか受けず、どちらにも落ちて公立へ」

「うん……そして僕は、公立の呉邨くれむら高校美術科へ進学。美大に、受かった」

 呉邨高校というと、この辺りでは唯一美術家と音楽科のある高校だ。どちらも普通科とは異なり一クラスしかなく、合格は狭き門だと聞いたこともある。

「絵が、好きだったんだ。小学校のとき、お母さんが、習い事で、行かせてくれた、油絵。それに篠目先生が、褒めてくれた、授業中の、落書き。授業中は描くなよって、注意されたけど、でも先生、上手いなって言って、くれたから」

 彼もまた、篠目秋則の言葉を覚えている。

「高校の時の文化祭、篠目先生、来てくれたんだよ。やっぱり上手いなって、先生、笑ってた。『この中で国崎の絵が、僕は一番好きだ』って」

 篠目秋則は、悠馬のことを気にしていたのだろうか。だからこそわざわざ呉邨高校の文化祭に出かけていって、その絵を見て、悠馬に声をかけたのだろうか。

 塾の先生とは、そこまでするものなのだろうか。まして、卒業した生徒に対して。

「最後に、川辺」

 川辺兼翔にだけは、要は会っていない。弘陽と最初に会ったときに弘陽が電話をしていた相手、あの日、来なかった相手。

「川辺は西山寺男子に行って……勉強せず、落ちこぼれた」

「俺、川辺が落ちこぼれるって、想像つかないんだけど」

「他の学校に行っていれば、落ちこぼれなかったかもしれない。だが、西山寺男子だ。いくら川辺が天才的でも、ふるいにかけられた同級生が集まっている。そんな中で勉強せずにいれば、川辺とて落ちこぼれる。篠目先生はそれを危惧して、ずっと川辺に忠告をしていたはずだ。その忠告を、川辺はうるさいという顔をして聞き流していたが」

 天才も二十歳を過ぎればただの人、という言葉がある。天才だなんだともてはやされた人が、生涯ずっと天才である可能性はどれほどあるのだろうか。つい隣にいる蒼雪の顔を見てみたが、やはり彼は何を考えているのか分からない。

 小学校の同級生に、天才的な子供がやはりいた。けれどその子が今どうしているのか、要は知らない。

「結果川辺は中学から高校に上がれず、他の学校の編入試験も受けずに退学。そして通信制の高校に入学した。そこから癇癪かんしゃくが酷くなったと母親が言っていた」

 今更公立には行けなかっただろう。もしかしたら小学校のときの同級生がいるかもしれない。兼翔を知る人がいるかもしれない。西山寺男子という最難関の中学校に行ったはずなのに、公立の高校にいれば、当然ながら好奇の目に晒される。

 私立も、同じだ。小学校の頃に合格した西山寺男子よりもレベルを下げる、それが川辺兼翔という人間にできたのだろうか。

「大学受験は、したはずだ。けれど浪人をして、皐ヶ丘さつきがおか校でテスト監督と質問対応のアルバイトになって、一年後に私大に合格しているが……医学部医学科ではない」

 悠馬のグラスの中にあったオレンジジュースがなくなって、からんと氷が音を立てた。蒼雪のグラスに入っている氷は、グラスを包んでいる手の熱で溶けたのか、紅色の上に透明な水の層ができている。

「兼翔の、家ってさ……」

「川辺の家は医者一族だ。家は川辺医院で、父が院長。母親も病院勤務。今は弟が西山寺男子にいて医学部医学科志望なんだと、この前川辺の家にもう一度行ったときに聞いた」

 けれど、兼翔は、医者にはなれない。

 医学部医学科に行かなければ、医者になることはできないのだ。医者というものになるための道は、それしかない。

「多分これが、篠目先生の見るべきものだったのだろうと、思っている。俺たちが、生徒たちが、どんなおとなになるのか」

 見るべきものは、すべて見た。

 篠目秋則は遺書にそんなことを書き、もっと何かできなかったのかと悔いる。それは一体誰に向けて、どんな後悔によって書かれた言葉だったのだろう。

「篠目先生の、遺書の?」

「見たいものと、見たくないもの。絶望した姿をきっと、先生は見たくなかった」

 弘陽の問いへの蒼雪の答えは、どこか歯切れが悪かった。その答えを受け取った弘陽は俯いて、マグカップの中を見つめている。

 見たいもの、見たくないもの。教え子が苦しんでいるような、そんな姿は、きっと見たくないものだったのだろう。けれど、それを見るしかない。もう先生と生徒ではなくなった以上、先生だった人間にできることは何もないのかもしれない。

 何もしてやれなかった。

 すべきことを怠った。

 ならばあの「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」という言葉は、一体誰に伝えなければならなかったのだろう。

 怠惰とは罪であると、『こころ』にもあった。これまで聞いてきた篠目秋則と怠惰という言葉はやはり繋がらずに、ただ違和感だけが要の中に降り積もる。

「ねえ、姫烏頭……もしかして、だけど」

 悠馬が背中を丸めたままに顔を上げて、上目遣いで蒼雪の顔を見ている。背筋を伸ばしている蒼雪と背中を丸めている悠馬とでは、座っていると差が大きい。

「何だ」

「兼翔が平成の透明人間だと、思ってる?」

 見るべきもののうち、きっと、見たくなかったもの。何とかして、引き上げてやりたかったもの。

 つっかえながら紡がれた悠馬の言葉は、絞り出したかのような悠馬の言葉は、きっと彼自身は言葉にしたくなかったはずだ。

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