四 見るべきほどのことは見つ

0.君が、希望だ

 希望を見出した日のことを、今でも思い出す。見たかったものを見た日を、思い出す。それと同時に、見たくなかったものを見ることになったはじまりも、その日のすぐ近くにはあったけれども。

 中学受験塾というのは、二月から新年度が始まっている。まだ小学三年生も終わらない子どもたちを小学四年生として扱って、彼らはその差異に呑まれないように、溺れないように、水面で足掻いている。

 三月の頭、ようやく一カ月。たったそれだけの日数で彼らが差異を埋められるかと言えば、その答えは否だろう。

 大学入試も佳境だなと、校舎の正面、タイル張りのその隙間から力強く根を張ろうとしている雑草を毟りながら考えてしまう。今まで見送ってきた彼らは、塾を巣立って行っても決してそこがゴールではない。入試というのは数ある山の中のひとつでしかなく、それを乗り越えた先にあるのは新しいスタートラインだ。

 胸ポケットに突っ込んでいたネクタイの先が逃げ出して、目の前にだらりとぶら下がる。手に持っていた雑草をコンビニのビニール袋に押し込んで、ネクタイを再び捕らえようとして、けれど手についた砂に気が付いた。軽く手を叩いて振りはらい、ようやくネクタイを捕まえる。

 アスファルトだろうがタイルの隙間だろうが、根を張り咲こうとする花はある。

 ぽつぽつと近くの桜は咲きはじめようとしていた。地球温暖化の影響なのかどうか、今では入学式に桜が散っていることの方が多い気がする。

 しゃがみこんで再び雑草を引き抜こうとしたところで、上からふっと影が差した。

「先生」

 かけられた声は低く、聞き覚えがない。けれど秋則あきのりをそう呼ぶからには、生徒か、あるいは保護者か。

 振り仰いだ先の顔は逆光で、影に覆われて、よく見えなかった。

「俺です、花園はなぞのです、先生。お久しぶりです」

 合格発表の日。

 ひとりの生徒が塾の玄関先までやってきて、号泣した。きっとそこまでは堪えていたのだろうものが、ひとことふたこと言葉を零しただけで決壊して、後はもう言葉にならなかった。

 母親も泣いていた。彼も泣いていた。難しいことは分かっていて、それでも必死で手を伸ばして、けれど彼の努力は報われなかった。

 努力は必ず報われるだなんて、きれいごとだ。それは運よく報われた人たちが言うだけの、どうしようもなく押しつけがましい言葉のように思えてならない。

 そうだとするのなら、報われなかった人間はどうすればいい。報われた人間は報われなかった人間を見て、お前の努力が足りなかったなどとしたり顔で言うのだろうか。

「花園?」

「はい。もしかして、覚えていませんか」

「いや……覚えているよ。ずいぶんと、大きくなって」

 あの時、彼は十二歳だった。

 彼が目指した学校は、最難関校だった。けれど成績はそこには足らず、塾としての、会社としての合格実績を考えるのならば、彼という生徒の優先順位というものは、きっと高くはなかった。

 まだたったの十二年しか生きていない子どもに、順番をつける。一対一で生徒と向き合い、全員の志望校合格を願いながら、それでも経営だとかそういうものとの折り合いをつけなければならない。

 一日というのは二十四時間で、人間は食事も睡眠も必要な生き物だ。彼らが塾にいる時間というのも限られていて、無限に時間が使えるわけではない。有限の時間の中で、教師は取捨選択を迫られる。

 それでもただ、目の前の生徒を、捨ててしまいたくはなかった。

「もう六年経つんですよ、当たり前じゃないですか。俺もう、四月から大学生です」

 十二の子どもは、十八になった。彼らは子どもから、だんだんとおとなになっていく。

「先生、聞いてください。俺、大学は第一志望に合格したんです。教育学部です。俺、先生みたいになりたいから」

 君たちはどんなおとなになるだろうね。

 授業中に、そんなことを零したことがある。勉強に疲れた顔をした子ども、新しいことを知ることに目を輝かせた子ども、どうして自分だけがと不貞腐れたような顔をした子ども。どの生徒も変わらず、愛おしくて大切な生徒だった。

 先生そんなの、まだ分からないよ。そう言って笑ったのは、目の前の彼だった。

「先生のおかげです。だって先生、俺に教えてくれたじゃないですか」

 彼からの手紙を、今でもまだ大切に持っている。

 小学校四年生からの三年間、きっと折れた時もあっただろう。志望校に届かないと、判定がいつまでも上がらないと、そうして腐ったときもあっただろう。

「最後まで諦めるなって。僕がついてるぞって。だから俺、頑張れたんですよ。これ、見てください」

 それでも最後の最後まで彼は塾に来て、小学校にも行って、決してあきらめなかった。

 彼が背負っていたリュックから、一冊のノートを取り出す。へたくそな文字で『算数直しノート』と彼の名前が書かれたノートは、嫌と言うほどに見たものだった。

 ぱらりと彼がノートを開く。小学生の男子の文字なんて、お世辞にも上手だと言える方が少ない。並んだ数式にマルとバツ。それから、となりのページに青いペンでびっしりと書かれた見慣れた自分の文字。

「テスト直しノート、まだ持ってたのか」

「当たり前じゃないですか」

 そうして、誇らしげに彼は笑った。閉じたノートを、胸に抱いて。

「これは俺の宝物です。一生、大事にしますから」

 ああそうか、花が咲いたのか。あの時咲かなかった桜は、どんな花になっただろう。目の前で咲き誇る彼の笑顔を、何の花と形容しよう。


 そうか。

 そうか。


 君にとってあの三年間は、何一つとして無駄ではなかったのか。傷付いたやわらかな十二歳の心は、報われずに泣いたあの日は、その花を咲かせる糧になったのか。

 空を見上げれば、ただ青い。

「先生?」

「ああ、何でもないよ」


 そうか。

 そうか。


 君が、希望だ。

 君が、木瓜ぼけの花。

 だから君に、これを託そう。

︎ ︎︎彼を、守るために。死なせないために。


 ︎︎そして、僕は――。

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