4.好きではなかった

 成績というものは、確かにある。順位をつけてしまえば、一位と最下位が生まれる。それは何もおかしなことではない。

姫烏頭ひめうず君は、全然手がかからなかったよね。放っておいても大丈夫だったし」

 水を向けられた蒼雪そうせつを見ても、彼は特に表情を変えなかった。手のかからない子供、蒼雪を見ているとそれは納得ができる。

「そうでしたか」

「だって姫烏頭君、授業中静かだし、成績も良かったから。染井そめい君もそうだったかな、他の先生の授業では喋ってたみたいだけど、国語は苦手だったのかも。あと川辺かわべ君も放っておいても合格できると思ってた。でも篠目ささめ先生は君たちにもなんだかんだ声かけてたか。懐かしいな。宗方むなかた先生もそうだよね、川辺君なんて宗方先生にべったりだったし。川辺君といえば……彼はもったいないことしたのよね、折角合格させてあげたのに」

 放っておいても合格できる子は、放っておいても良いのだろうか。塾講師という仕事がどんなものなのか分からない要が言えることなど何もないのかもしれないが、どうにもよく分からない。

 蒼雪ならば声をかけられる方が迷惑だとでも言ったのだろうか。そうだとすれば、かわいげなんてものは一切ない子供だ。

「染井君はたしか、わざわざ二ツ宮ふたつみやまで篠目先生に会いに行った帰りだったんだよね、死んじゃったの。篠目先生だけずるいな、会いに来てもらって。それに、もう少し待ってれば死ななかったかもしれないし、宗方先生にも会えただろうに……」

「宗方先生に?」

 そんなことを宗方は言っていなかった。会えなかったのだから特に口にするようなことでもなかったのだろう。

「そうだよ。その日確か、宗方先生、代講で二ツ宮に来てたから。駅降りたら警察がいてすごかったって。あとその日は、川辺君に会ったって言ってたような気がする」

「先生は、帰りに警察を見たりはしなかったんですか? 家が近いと、先ほど」

「え? うん、そうだけど。でもその日は用事があって、仕事をお休みしたのよ。その後ホームセンターで色々買って、その後家に帰ってから外には出なかったし。塾講師ってそういう休みでもないと、あれこれ買い物もできないから」

 そこで、来客を告げる音が響いた。入口のところを見れば自動扉が開いていて、そこに生徒の親らしき人が立っていた。金代が「ごめんね」と言うのに頭を下げて、蒼雪と共に椅子から立ち上がる。

 事務所を出る金代に続いて事務所を出れば、金代が「いらっしゃいませ」とその保護者を出迎えた。

 ふと、出入口近くの壁を見る。テストの結果なのか、百位までの生徒の名前と点数が、ずらりと並ぶ。

「こんなものまで、あるんだ。名前、公表されてるのか」

「ああ、順位表。昔からそういう風だ。いつも載っている生徒は自然と覚えるから、染井なんかは勝手に勝った負けたと一人で喜んだり落ち込んだりしていたな」

 もう一度金代に頭を下げて、蒼雪と共に校舎を出る。

 夜の空を見上げても地上が明るいからか、星はほとんど見えなかった。明るい星だけがほんの少しだけ、光っている。

「……ずいぶんとこう、お喋りな先生だったね」

「昔からだ。授業中にぽろっと、多分言ってはいけないようなことも言う先生だった。あの通り明るくて毒気がないだろ。だから生徒も別にそれに対してとかく言うようなこともない、人気もあったし。私は塾で一番の先生なのよって、冗談みたいに言っていたな」

 きっと今枝いまえだ君江きみえの子供のことなど、べらべらと人に喋るようなことでもない。それから、生徒の指導のことについても。蒼雪が教え子だから口が軽くなったという可能性も考えられるが、金代がお喋りな性質たちであるというのは、きっと間違っていない。

「でも、良い先生だったな。子供にも取り囲まれてたし」

「……君がそう思うなら、そうなんだろうな」

 彼女もまた、小学生の頃の蒼雪が授業を受けていた講師だ。その時蒼雪は、金代をどんな目で見ていたのだろう。

「姫烏頭は?」

 だから、聞いてみた。蒼雪は足を止めることはなく、けれども少し考えるような仕草をする。

「どうでもいいと思ってた、が、正しいか。の、かもしれない」

「何でだ?」

「成績の悪い生徒には冷たいからな、あの人。あと、自分を嫌いな生徒にも。表面上はそう見えなくても。俺に対しては優しい顔を向けてくるから、気持ち悪かった。でもなんで、あんな顔……」

 先ほどの対応だけでは、そんなところは見えなかった。けれどそうであるのなら、一瞬電話で声が冷たくなったのは聞き間違いではなかったのかもしれない。

 金代は、裏表があるということなのか。そうであるのならば、かなめもそういう先生は好きになれそうにはない。ただこれは蒼雪が言っているからというだけで、実際子供のころに対面して気付けるものかは分からない。

「多くは、気付いていないんだ。俺は篠目先生に人が何を考えてるのか考えてみろって言われたから、気付いただけだ。確か染井も気付いていて、好きではないと言っていた」

 冷たくされていることに気付かなければ、誰も気にしない。表面上明るくて元気で、そして友好的であれば、人気も出そうだ。

 けれどそれは、ひどく寂しいことではないのだろうか。表面上だけで慕われて、本当のところは誰も知らない。それを人は、と呼ぶのではないのだろうか。

「学校の先生になれなくて塾の先生になったと、そんな話を昔聞いたな」

「塾の先生って、教員免許いらないんだっけ」

「いらない」

 同じように先生と呼ばれていても、違いはある。とはいえ習い事でも「先生」であるので、そんなものかもしれない。

 免許が必要なのは、公教育の現場だけ。小学校、中学校、高校と、その十二年間の教育の場だけ。

「ところで深山みやま、君が聞いた話だが」

「何だ?」

「今枝君江」

「……三人目の、被害者、だよな」

 平成の透明人間の三人目の被害者、専業主婦の女性。その女性の娘が、この塾の皐ヶ丘さつきがおか校に通っている。姉も校舎は違えど、この塾に。

「篠目先生と関わりはなかったとしても、今枝君江はこの塾と関わりがある。染井もこの塾、あるいは、この校舎と関わりのある人間であることには間違いない」

 染井一穂かずほは、皐ヶ丘校にかつて通っていた。今枝君江の娘は、皐ヶ丘校に通っている。

 篠目秋則あきのりは他の被害者が殺されたときに、既に塾を退職していた。けれど五人目と六人目の被害者が出たときに、その付近で何かを探している彼の映像が残されている。

「もしも平成の透明人間が、この塾を恨んでいるとしたら? もしかするとこの校舎、かもしれないが。そうなるとあの犯行は、無差別殺人ではなくなる」

「塾や、校舎を?」

「そうだ、塾そのもの、あるいは校舎そのものを」

 そうなれば完全に無差別な殺人ではなく、ある程度範囲を絞って無作為に選んだ殺人ということになるのだろうか。

「そして篠目先生が、その犯人を知ったとしたら? 教え子の中に犯人がいたら? あるいは篠目先生自身が、この塾を恨んでいるとしたら?」

 ただその蒼雪の話は、どうしても通じないものがある。

 要は、要の姉は、この塾に関わっていない。姉は私立中学受験をしていない、要も同じだ。そもそも私立というものに縁がないし、ここのみならず、塾というものに通ったことがない。

「でもその理屈を通すためには、他の被害者が全員、この塾に関わってないと通らないだろ。姉さんは少なくとも、関わりはない」

「それでも、二人目と四人目から六人目を調べてもらう価値はあると思わないか」

「調べてもらう?」

「例の、同級生の父親にな。この情報を渡せば、調べてくれるだろう。子供を通わせている、自分が通っていた、そういう繋がりがあれば、もしかすると……そうなると君の姉についても、一つの結論が出せるんだ」

 要の姉だけは除外するとしても、そのうちの何名かに繋がりがあれば、塾との関連性があるかもしれない、平成の透明人間がこの塾から繋がるかもしれない。

 あの遺書はやはり、光なのか。

 篠目秋則の遺書から動き、そして今枝君江の娘に辿り着いた。ならば篠目秋則の書いた罪とは何か。それから、誰にあの言葉を告げたかったのか。

「篠目先生が抱えて沈んだ秘密はつまり、教え子のことかもしれない。ヨロイリョウカブトフタはね。なもその身を重くなさんと。遥かなる沖乃。イカリ大綱オオツナえいやえいやと。引きげて」

 もしも教え子が、平成の透明人間であったのならば。

 篠目秋則という人物が、教え子に真剣に向き合う人間だということが、決して間違いではないのならば。

 それはつまり平成の透明人間の疑いをかけられた篠目秋則は、無実であったということになる。

「その身を重くして、そして、落ちた。廃ビルの上から、彼岸花の、中へ」

 篠目秋則はその遺書を、花園はなぞの弘陽こうようのところへ送った。どうして弘陽のところへ送ったのか、その理由は分からない。けれど弘陽もまた、塾と関わる人間である。

「本当の平成の透明人間を見付けることだけが……唯一、篠目先生の身の潔白を証明できる方法だ。そして、どうして先生が死ななければならなかったのか、も」

 平知盛たいらのとももりは見るべきものをすべて見て、そしてその身を重くして、碇をその頭上に掲げて海に沈んだ。

 篠目秋則は何によってその身を重くして、腕に何を抱えて、ビルから落ちていったのだろう。

「……精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」

 高校の現代文の教科書に掲載されていた『こころ』は、「先生」の遺書にあたる部分だ。かつて犯したという「先生」の罪の、その告白にあたる部分だ。

 Kが「先生」に告げ、そして「先生」がKに告げ、Kの死の引き金を引いた言葉。

「透明人間の候補は、絞れた。篠目先生は、平成の透明人間ではない」

 駅のホームに、列車の到着を告げるベルが鳴る。まもなく電車が参ります、黄色い線の内側までお下がりください。あれは聞き慣れたアナウンス。

 そのアナウンスにかき消されなかった蒼雪の言葉に、要は思わず彼の顔を見た。

「は?」

「分からないか? まだ憶測の段階ではあるが。調べてもらう予定のことが分かれば、ほぼ絞れるが。後は……いや、どうかな」

 駅のホームに電車がやってくる。ごうと風が吹くような心地がして、速度を落とした電車が入ってくる。

 電車の扉が開いて人を吐き出し、そしてまた人を呑み込む。その人の流れに乗るようにして、要は蒼雪と共に電車の中に呑み込まれた。

 座席はどこも、空いていない。

「『数式とは、きちんと答えの定まったものは、美しいだろう。解を導くというのは、その美しさを知ることだ。だから、君たちは解を得るんだ』」

「何だそれ」

「かつて篠目先生が、俺たちに算数の授業で言ったことだ」

 篠目秋則という人を、要は知らない。

 けれど彼らの言葉の中で、篠目秋則を知ることはある。

「……俺は、解を得たいんだ。沈んだものを沈んだままにせず、浮かべ、解を得る」

 がたんごとんと音を立てて揺れて、電車は走る。揺れるつり革を掴んで、立ったまま、人に押しつぶされそうになりながら。

「どうして、自殺を選んでしまったんだろうな」

 蒼雪がスマートフォンを取り出して、遺書の画像を見る。彼の表情は凪いでいて、何を考えているのかは相変わらず要には分からない。

 それでも篠目秋則という人については、蒼雪とて何かを思うのだろう。

 そんな気が、した。

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