3.金代美乃梨

 皐ヶ丘さつきがおかの駅は利用者も多いからか、駅前はにぎわっている。じきに夜八時になろうという時間帯でも、駅前はたくさんの明かりでとても明るい。スーツ姿の人が多いのは、会社から帰る人が多いからだろう。

 ただこれも、駅から離れていけば、閑散としていく。

「この辺り、詳しいか?」

「いや、別に。昔住んでたのはこの辺りだが、さして何も」

 皐ヶ丘の校舎は、かつて蒼雪そうせつが通っていた校舎だという。つまり蒼雪はこの付近に住んでいたということだろう。もしかすると、今も住んでいるのかもしれない。そう思ってかなめは聞いてみたのだが、蒼雪からはどうでもよさそうな答えしか返ってこなかった。

「なら、懐かしい、か」

「そうでもないな」

 要はあちこち行ったことはないが、それでもディ・ヴィーゲの住居からかつて姉と住んでいた部屋に戻った時、懐かしさが込み上げてきて泣きそうになった覚えはある。

 ただそれは、もうそこに姉がいないということを突き付けられて、そのせいなのかもしれない。

姫烏頭ひめうず、昔住んでたんだろ?」

「そうだな。今はもう、家もないが」

 蒼雪はあっさりと言うが、要はどうにも聞いてはいけないことを聞いてしまったような気持ちになった。家がないというのはどういうことか、考えられる可能性はそんなに良いものではない。

 特に気にした様子もなく淀みなく歩き続ける蒼雪に対して、要は徐々に歩みが遅くなり、そしてとうとう足が止まってしまう。

「ごめん」

 謝罪の言葉を口にしたところで、蒼雪も足を止めて振り返った。

「何がだ?」

「いや、その……」

 要が何も言えないままに言葉を探しているのを、蒼雪の目はじっと見ていた。

 もしかすると親に不幸があったのかもしれないし、何か事情があって家を引き払わなければならなかったのかもしれない。

「親に不幸があったのかと、そういうことを気にしているのか。そういう顔だ」

「顔、って……」

 ぺたりと顔に手を当ててみる。そんなに分かりやすく顔に出ているものだろうかと考えてみたが、特に何があるわけでもない。

「生きてる、父親は。ずっと病院に入院してるだけだ」

「父親は、って……」

「母親は事故で死んでる」

「そう、か」

 やはり何も気にした様子はなく、あっさりと蒼雪はそれを口にした。同じだな、なんてことは言えなくて、要は結局黙り込んでしまった。

 要には、両親がいない。そして、姉も手の中から消えてしまった。蒼雪と似たところがあったとして、それでもきっと彼と『同じ』ではない。

「おかげで俺は、舞台に立てなくなった」

「舞台?」

「能舞台」

 行くぞと蒼雪が言って歩き出す背中に従って、要もまた歩き出した。ただ元気よく歩くことはできなくて、どうしても背中が丸まってしまう。

「……そういえば」

 少し歩いたところで、蒼雪が足を止める。

「どうかしたか?」

「ここ、二人目の犯行現場の近くだな、と。もう少し行くと、五人目と六人目の犯行現場もある」

「そうなのか」

「ああ」

 皐ヶ丘校は、駅から少し距離があった。とはいえ、歩いて行けないというほどの距離ではなく、子供の足でも歩けるくらいだろう。大きな通りを歩いているものの、校舎に近付くほどに、車通りも人通りも減っていた。

 校舎の外観は、昼間に訪ねた宗方むなかたのいる校舎と同じようなものだった。同じ塾であるということが分かるように、同じような形になっているのかもしれない。思えばあちらこちらにある個別指導塾も、集団指導塾も、同じ系列であれば似たような外観をしている。

 やはり、塾にしてはしゃれた建物のような気がした。個別指導の塾はどこかコンビニの建物にも似ているが、ここはそういった雰囲気はない。

 昼と同じように校舎の自動扉の前に立てば、同じ音が来客を伝えた。入って正面にある事務所から女性が出てきて、自動扉の横にあるスイッチを切る。それと同時に、来客を告げる音が止まった。

「あ、いらっしゃい! 待ってたよ、姫烏頭君!」

 蒼雪と要が自動扉から離れたところで、スイッチがまた入れられる。

「ご無沙汰しております、金代かなしろ先生」

「宗方先生から聞いてるよ。昼間は宗方先生のところに行ったんだって? この校舎、懐かしいでしょ?」

「はい」

「私も懐かしいけど、二ツ宮ふたつみやの方が良かったのよね。家から近いし。あと赤根あかねの方が早く帰れたから、ちょっとね。皐ヶ丘は授業が十時まであるじゃない?」

 肩より少し上までの長さがある髪は、茶色っぽい色をしていた。女性にしては背が高い金代は、ライトグレーのパンツスーツを着こなしている。

 シャツはフリルのある紺色のもので、やはり先生と言うよりは、どこかの営業か、あるいはホテルのフロントにいる人のように見えた。

「金代先生! 聞いてよ!」

「あっ、先生、ねえねえ」

 ちょうど授業の合間なのか、教室から子供たちが出てきて、金代を取り囲む。金代は少しだけ困ったようにはしつつも、明るい笑顔でその相手をしていた。きゃあきゃあと子供たちの弾むような声が響いている。

「こらお前ら! あんまり金代先生困らせるなよ!」

 近くの教室にいた年配の男性教師が顔を出し、笑いながら一言告げて、また顔を引っ込めた。子供たちは「はぁい」などという返事をしながらも、めいっぱい顔を上に向けて、金代と話をしている。

 次々と子供が寄ってきては話をして、けれど全員というわけではない。一人、二人は、そんな様子を遠巻きに眺めて、ふっと視線を逸らして去っていった。

 ようやく静かになったのはチャイムが鳴り、子供たちに金代が「ほら、授業だよ!」と言ってから。金代は「ごめんね」と笑っていて、蒼雪は「いいえ」と首を横に振る。

 昼間と同じように事務所に案内され、キャスター付きの椅子を勧められる。事務所の中は、やはり昼間の校舎とほぼ同じだった。

篠目ささめ先生の話だよね」

 金代は椅子に座らず、立ったままだった。蒼雪と同じように椅子に腰かけ金代を見上げれば、薄化粧の顔が見えた。

 年齢は、三十代くらいだろうか。三十代後半には見えないが、姉曰く「女性の年齢なんて分からなくて良いのよ」ということなので、正しいかどうかは分からない。

「うーん、篠目先生か。事務所でも生徒の話ばっかりして、自分のこととか、休日何するとか、そういうことはあんまり。休みの日は本読んで過ごしてるって言ってたかなあ。だから私が『どういう本を読むんですか』って聞いたら、『色々ですが、作家は夏目漱石なつめそうせきが好きです』って言ってたよ」

「夏目漱石ですか」

「そうそう。『草枕くさまくら』が好きなんだって」

 遺書に書かれた木瓜ぼけせつ。それから『こころ』にあった言葉。宗方も部屋が本で埋まっていたと言っていたが、やはり本から遺書に引用したらしい。

 だからといってあの遺書の内容がすべて理解できるわけではないし、疑っていたわけでもないが、あれは篠目秋則あきのり本人が書いたということで間違いはないだろう。

「そうでしたか……だから、篠目先生は遺書に夏目漱石の作品を引用したんですね」

「遺書? え、待って! 篠目先生、どうしたの!」

 明らかに驚いた顔をして、金代の声が高くなる。彼女に詰め寄られても、蒼雪は表情ひとつ変えることなく彼女の顔を見ていた。

「亡くなりました。自殺です」

「そんな! 嘘でしょ?」

 金代は蒼雪から離れ、手で口を覆っている。「そんな」とか「どうして」とかそんな言葉を零した彼女はスチールのデスクに手を付いて、肩を震わせていた。そんな彼女の手のすぐそばで、電話が鳴る。

「あ、ああ……ごめんね。ちょっと待ってね」

 白い電話も、昼間の校舎とまったく同じだ。その受話器を手に持って、金代が耳に当てた。蒼雪はまたじっと、彼女の顔を観察するように見る。

「はい、皐ヶ丘校、金代です。あっ、お世話になっております、今枝いまえださん!」

 金代が口にした名前は、聞き覚えがあった。けれど一体どこで聞いたのだろうかと要が考えているうちに、会話は進んでいっている。

 電話の向こうの声は聞こえない。けれど、金代の声は聞こえる。

「え? いえいえ、大丈夫ですよ。母親みたいなものだと思っていただいたら……というと不謹慎になっちゃいますけど。異動先が今枝さんのお引越し先に近かったのも何かの御縁ですから。頑張ってますね、お姉ちゃんと同じ学校に行くんだーって。でもやっぱり、北川きたがわは受けないんですか?」

 昼間も、聞いたような会話である。

「そう……勿体ないですね」

 一瞬、金代の声がひどく冷えたような気がした。けれどそれは一瞬のことで、要が彼女の顔を見たときには、先ほどと変わらない笑顔が浮かんでいる。

「いえいえ、お父様からも挑戦してみようって言ってあげてください。あと、明日の授業後に、また私もお話しをさせていただきますね。それでは。はい、失礼いたします」

 声も明るいもので、冷えて聞こえたのは要の気のせいだったのかもしれない。

 それよりも、今枝という名前が気にかかった。それは、どこで聞いた名前だっただろうか。友人であるとか、よく関わりのある相手だとか、そういうわけではない。けれど確かに、どこかで聞いた覚えはあるのだ。

「ごめんね。お姉ちゃんと同じところに行きたいから北川は受けない! って言う子がいて、私は挑戦して欲しいんだけど。合格したら行く気になるかもしれないし。合格者は増やしたいし。最後はやっぱり私が後押ししないといけないかな。でもおかげで、ちょっと落ち着いたよ」

 はあ、と金代は胸に左手を当てて息を吐き出している。その左手の薬指に、銀色の細い指輪があるのが見えた。

 金代は何かを堪えるような顔をしている。そして何度か口を開こうとして、閉じて、ようやく震えるような声を絞り出した。

「篠目先生、塾辞めたと思ってたけど、そんなことに……」

「はい。今年の九月に、亡くなったということです」

「そう……篠目先生が……」

 金代は何度となく深呼吸を繰り返して、自分を落ち着けようとしているようだった。おそらく彼女は篠目秋則の自殺どころか、彼が死んだことすら知らなかっただろう。

「宗方先生は篠目先生と同期だったようですけど、仲は良かったんですか」

「どうだろう……最初は一緒の校舎だったみたいだけどね」

「先生はそういう同期、いないんですか?」

「いないんだよね。最初に配属になった新野頼しんのよりはベテランばっかりだったし。活躍するぞって意気込んでたのに、全然活躍できなかったな」

 ベテランばかりの中に新人が配属されれば、そういうことにもなるだろうか。

 それにしても、やはり思い出せない。引っかかっているものはあるのに、今枝という名前が思い出せなくて、喉に魚の小骨でも刺さったかのような落ち着かなさがある。

「金代先生、宗方先生と結婚されるんですか」

「え?」

「指輪をしてみえるので。昔は、してませんでしたよね」

 蒼雪は宗方に聞いて知っているのに、まるで知らないかのように金代に問う。

「もう、目ざといなあ。そうだよ、結婚するの。といっても何年か一緒に住んでるし今更なんだけど。結婚するなら教室長にはなってからって約束してたの。で、晴れて教室長になったから、結婚するのよ」

「宗方先生が急にスーツとか髪型を変えたのは、やはり金代先生の影響でしたか」

「それはそうだよ。私と一緒にいたいなら、恥ずかしくない恰好でいてもらわないと。私に恥をかかせるつもり? ってお願いしてたの。相応しくいてよって」

 金代は幸せそうに笑っている。姉もそんな顔で笑っていたなと、それは今となっては遠くて虚しい記憶だ。

「金代先生が、お願していたんですか」

「そうよ? だって一緒にいて恥ずかしいじゃない。それに私、一番がいいの。一番なら恥ずかしくないから。だから一番恰好良くいてもらわないと嫌なの」

 金代を見ながら、要の頭は引き続き今枝という名前について考える。

 母親みたいなもの、不謹慎になってしまう、そういう金代の言葉も反芻して、どこで聞いたのか記憶の引き出しを開けては閉めてを繰り返し。

「今枝って……平成の透明人間の」

 そしてようやく、辿り着いた。

 今枝君江きみえ、平成の透明人間の三人目の被害者だ。三人目の専業主婦、その名前を蒼雪が口にしていた。

「あっ、それ、他の生徒に聞こえるとあんまり良くないから……知ってる子は、知ってるけど」

「すみません」

 口にした言葉を金代に注意されて、要は思わず手で口を覆う。きょろきょろと周囲を見てみても、授業中なのか事務所の外に生徒の姿はない。

「ここの生徒だったんですか、娘さん」

「そうだよ。お姉ちゃんの受験がちょうど終わった次の年で、今年は妹が受験生。お姉ちゃんも偏差値六十五とかあったのに、北川受けてくれなくて……困っちゃった。お母さんがこの子に任せていますからって、頑として聞いてくれなかったし」

「困る、ですか」

「そうだよ? 最難関校の合格者は多い方が良いから、合格できそうな子は受けて欲しいんだよね。行かないなら、辞退すればいいし。そうしたら他の子に追加合格が出たりするだけだもの。日向西ひゅうがにしでもお父さんが『息子は行きたいところに行かせます』って言って、そこひとつしか受けてくれないとかもあって。まあでも、偏差値六十五でも落ちちゃう子はいるけど。前の赤根あかねのときの子は、お父さんが当日体調を崩しててそれが気になって試験に身が入らなかったとかあったなあ。小学生は、難しいよね。ほら、姫烏頭君と同じ年の、国崎くにさき君。彼も偏差値的には良かったのに、落ちちゃって。合格させてあげるのが仕事なのに、よね」

 昼間の校舎でも、外から見える位置に最難関校の合格者の数が掲示されていた。合格を目指す生徒、あるいはその親にとって、合格者の数というのは塾を選ぶ重要な指針なのだろうか。

 高校でも大学の合格実績をホームページで公開していることが多いのだから、塾がそれをしていてもおかしくはない。むしろ、塾の方がそういうものは率先して公開するように思う。

「優秀な子に時間を使えればもっと合格者増やせると思うんだけど、そういうことしてるとそうじゃない子の家からクレームになるから。だから一応やってますよーっていうのは必要なの。でも本当、優秀な子はいっぱい手をかけて、私が合格させてあげましたってしたいんだよね。あ、これ、内緒ね?」

 金代が口の前で人差し指を立てていた。

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