2.嫌いではなかった
「何でそんなことが気になるんだ?」
「
「遺書?」
きい、と音を立てて、
「そんなものが、あったのか……」
「はい。送られてきまして」
「それは、
「いえ、警察に届けてあります」
宗方は「そうか」と言って、腕組みをして少しばかり黙り込む。組まれて浮いた足が、ぶらりぶらりと揺れていた。
「篠目先生は、その……プライベートなことだから詳細は省くが、ご家庭が色々あって。だから結婚もしないって言ってたよ。ほとんど、縁は切れていたみたいだけど。同期入社だし、最初の配属校舎も
「そうですか」
宗方は何歳くらいだろうか。篠目
ところで、と
「宗方先生は、
また、椅子が音を立てた。腕組みをしていた腕を解いて、少しばかりその体が傾ぐ。
「は? いや待て姫烏頭、なんで知ってるんだ」
「小学生の頃から知っていましたが。六年生の夏くらいから、だったように俺は記憶しています。その様子だと、一応まだ続いていたようですね」
「……今は、というか数年前から、一緒に住んでるよ。約束通り校舎の責任者になれたから、もうすぐ結婚するんだ」
金代先生という名前は、聞き覚えがある。確か蒼雪たちが小学校六年生のときに習っていたという国語の先生の名前だ。
「六年生の夏くらいから、先生たちはあやしいぞって噂されてましたね。それより以前はスーツもよれよれ、髪もぼさぼさ、見た目を何とかしろって教室長の先生に怒られる常習犯だった宗方先生が、急に髪もセットしてかっこつけるようになったからって」
「それは、その……金代先生が、みっともない恰好しないでって言ったから。今でも金代先生に相応しい人間でいるために必死だよ、俺は。金代先生はすごいんだ、塾の同窓会だって呼ばれてたりもするし、生徒に慕われて」
「そうですか」
小学生ならば、有り得る話だろうか。あの先生とあの先生付き合ってるらしいぞ、そんな噂はままあることだ。それに、誰かのために変わろうとすることも、珍しくはない。
姉だって、
蒼雪はまたじっと、宗方の顔を見ていた。
「篠目先生が最後に勤めていたのは、
「そうそう。生徒の多い大規模校。こことは大違いだから、きっと忙しかっただろうね」
それが
二ツ宮は、ディ・ヴィーゲからもそれほど遠くはない。要の最寄り駅からは、快速電車で一駅だ。
「金代先生には会いに行くのか?」
「ええ、この後行く予定です。夜ですけど」
「
「ええ。先生は二〇一九年の春期講習までずっと、皐ヶ丘にいらしたとか。
「そうそう、浪人が決まった頃に応募してきたんだよ。よく働いてくれて、助かったよ。今でも金代先生が助かっているんじゃないかな」
皐ヶ丘も、ディ・ヴィーゲから遠くはない。快速電車で三駅、電車を乗り換えることもなく到着できる。どうやら校舎の名前は、最寄り駅の名前からつけられているようだ。
思えば皐ヶ丘周辺は、古い大きな家が多い区画と、それから新しい高級住宅地が建っている区画とが隣接している。だから、そこに校舎があることは納得ができた。
「先生たちは、あちこちの校舎に異動しますね」
「そうだな。俺は姫烏頭たちが五年生の時に皐ヶ丘校に行って、それからずっと二〇一九年まで皐ヶ丘にいたけど、その前は
「ありがとうございます。では、俺たちはこれで」
「もういいのか?」
「あまり先生のお時間を取らせても、申し訳ありませんから」
蒼雪が椅子から立ち上がるのを追いかけるようにして、慌てて要も立ち上がる。またお手本のようなお辞儀を蒼雪がするのを見て、要もまた真似て頭を下げた。
校舎の自動扉が開いて、また音が鳴る。自動扉が閉じたところで、蒼雪が校舎を振り仰いだ。
二階の教室の、窓のところ。昨年の合格者なのか、
「……少ないな、合格者」
「そうなのか?」
「俺たちが卒業した頃は、もっと多かった。他の塾も増えてきているからな、そういうものなんだろう」
今では塾というのは、あちらこちらにある。要たちが小学生の頃はもっと塾は少なく、選択肢はそれほどなかったように思う。けれど今は、どの塾にするかの選択肢は増えていることだろう。
受験とは、競争だ。十一歳十二歳の、戦争でもある。そしてある意味では、塾同士の競争でもあるのかもしれない。
駅の改札を抜け、ホームに滑り込んできた電車に乗る。蒼雪の隣に腰かけて、沈黙もどうかと要は口を開くことにした。
「宗方先生は、どんな先生だったんだ?」
「無理に話題を探すくらいなら、喋らなくて良いんだが」
以前言われたことだが、要は肩を竦める。
気を遣って喋るくらいならば喋らなくて良い、面倒だと。けれどこれは、そういう意味の話題ではない。
「別にこれは無理に探した話題じゃない」
「そうか。そういうことにしておく」
ただ蒼雪が、宗方をどのように評しているのか、それが気になっただけなのだ。
「悪い先生ではなかった。染井なんか、可愛がられていた気がするな。あと、川辺も。川辺は、相当懐いていたように思う」
「姫烏頭は?」
「どうだろうな。可愛がられたのかもしれないとは思うし、嫌いではなかったが」
蒼雪がゆるりと目を伏せる。凪いだ表情の下で、彼は何を考えているのだろう。宗方の授業を受けていた、十二歳の頃のことを思い出しているのだろうか。
中学受験の塾とは、どんな光景なのだろうか。小学生が机を並べて授業を受けて、けれどきっと、小学校の教室とはまた違う光景が広がっているはずだ。
蒼雪たちは、机を並べて、篠目秋則や宗方、金代の授業を受けていた。合格するか、不合格になるか、それが分からない頃に。
要には彼らが何を思っていたのかは想像もつかない。要にとって中学受験など遠い世界の話であって、小学校のクラスメイトでも受験をしたという話は聞かなかった。もしかしたらいたのかもしれないが、少なくとも要は知らない。
「……篠目先生ほどでは、なかったな」
ぽつりと落ちた言葉に、どれほどの感情が込められていたのだろう。宗方の何を思い出して、篠目秋則のどのようなところと比べたのだろう。
がたんごとんと、電車が走る。
車掌の声が、まもなく乗り換えの駅に到着することを告げる。蒼雪はそれ以上、思い出を語ろうとはしなかった。
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