1.宗方克郎

 篠目ささめ先生の勤めていた塾に行くが、君も行くか。そんなことを蒼雪そうせつが言い出したのは、十二月も半ばを過ぎてからのことだった。今年は例年と比べて暖冬ですというニュースが流れ、それでも寒いものは寒い。

 十二月二十七日、吐く息は白くなる。日曜日ということもあって本当は樹生たつきの手伝いをすべき日ではあったが、樹生に聞いたところ「別にいい」とあっさりと許可をされた。

「なんで、今日なんだ?」

「今日は冬期講習の初日で、六年生は最後の模試の日だ。だから授業が少なくて、先生から話を聞きやすい」

「先生?」

「俺たちが教えてもらっていた、理科の宗方むなかた先生。篠目先生と同期で、篠目先生のことをよく知ってるから」

 宗方という先生がいる校舎は、電車を二つ乗り継いでいった先にあった。電車に揺られること二十五分、路線の終点の駅で改札を抜けて階段を上がれば、まぶしさに慣れない目が少しだけくらむ。

 県庁のある市の北、校舎があるのは駅から更に十五分ほど歩いたところ。壁の模様は細かなレンガのようになっていて、ぱっと見ただけではあまり塾らしくもない。

 腕時計で確認した時刻は、午後二時四十分。約束の時間は四十五分だと言うので、ちょうど良い時間帯だろう。

 校舎の自動ドアが開くと同時に、来客を告げる音が鳴った。それと同時にチャイムが鳴って、テキストのようなものを抱えて階段を駆け下りてきた人物がいる。生徒たちは慌ただしく動いていて、その人物に「もう授業が始まるぞ」と言われて駆けていった。

 そのうちの一人が、その人にぶつかって尻餅をつく。その人はわざわざ膝を曲げて視線の高さを合わせてから、生徒に手を差し伸べていた。手を差し伸べられた生徒はその手を取って、立ち上がり、駆けていく。

 それからようやくその人が、蒼雪たちの前に来た。

「お待たせしました、いらっしゃいませ……姫烏頭ひめうず君か! 待ってたぞ!」

「ご無沙汰しております、宗方先生。突然申し訳ございません。お時間をいただいてありがとうございます」

 蒼雪がお手本のようなお辞儀をしているのを見て、かなめも慌ててそれを真似るようにして頭を下げる。

「別に構わないよ。そっちの子は?」

「彼は大学の同級生です。この後彼と用事がありまして、すみませんが同席させてください。構いませんか?」

 頭を上げた蒼雪をまた真似て、要も頭を上げる。宗方は要の顔を見て、それからまた蒼雪の顔を見た。

「良いよ、姫烏頭君の知り合いなら」

「ありがとうございます」

 宗方が「事務所で話そうか」と背を向ける。学校の職員室のような部屋には受付のような窓があり、そこから室内がよく見える。

 事務所の中には、机が五つ。スチールのデスクとキャスターつきの椅子は、会社や学校の職員室によくあるものだろう。それから室内にはスチール製の本棚が並んでおり、ぎっしりとテキストや教科書が詰め込まれている。

「電話が鳴ったら出るから、悪いがそれは許してくれよ」

「構いません」

 どうぞと宗方がキャスター付きの椅子を二つ引く。宗方も椅子をもう一つ引っ張ってきて、それに腰かけた。

 宗方はそこで、足を組む。蒼雪に促されて要が身を縮めるように座れば、キャスターと床が擦れるような音がした。隣の椅子に蒼雪が腰かけるが、彼の方はそんな音がしない。

「それで? 篠目先生のことだよな?」

「はい」

「と、言ってもな……染井そめい君が殺された後、警察が篠目先生を疑ったんだ。その時私は別の校舎にいたから詳しい経緯は分からないんだが、その日染井君は篠目先生に会いに行っていたんだろう? それで篠目先生は塾に迷惑をかけられないと辞めてしまったし」

 これまでに聞いてきた話と、特に違いがあるようにも思えない。染井一穂かずほは篠目秋則あきのりに会いに行き、そしてその帰りに殺されている。

 だから、篠目秋則が疑われた。結局そのような証拠がなかったのか逮捕には到っていないが、それでも人の噂は回っていく。勤めている講師が教え子を殺したかもしれないなどと噂になれば、きっと塾の評判にも響くだろう。

「上も決定が早くてね。春期講習の後そのまま校舎に残るはずだったのに辞めることになって、人員配置がなかなか大変だったようだよ。ほら、うちは一教科一人だろう、大きな校舎でもない限り」

 つまりそれは、穴ができると必ず補填しなければならないとうことでもある。塾というものの仕組みがどうなっているのかは想像しかできないが、学校と同様に同じ時間に様々な授業が行われている。

 一人が抜けてしまえば、その授業ができなくなる。ただその補填と評判とを天秤にかけて、篠目秋則の退職は認められたのだろうか。

「染井は篠目先生に大学合格の報告に行ったと、聞いています」

「医学部医学科だろう? さすがだよな、染井君。小学生の頃から彼は優秀だったから。でも頑張ったんだろうなあ、彼は理系より文系の方が得意だったから」

 宗方はどこか誇らしげに言う。蒼雪はただじっと、宗方の顔を見ているようだった。

「いつも君と校舎内の一位争いをしていただろう」

「そうですね」

「三位はいつも川辺かわべ君か女の子だったね。あと同じクラスにいたのは……」

 誰だったかなと、宗方は考え込むような仕草をする。

 彼らが小学生であったのは、もう八年以上前のことだ。それまでに何人の生徒を受け持ったのかは分からないが、忘れていてもおかしくはない。

国崎くにさきと、花園はなぞのですよ」

「ああ、そうそう。その二人だ。国崎君はあれだ、どこにも受からなかった。合格できるよう後押ししてあげられなかったのは、本当に申し訳なかったと思っているよ。五年生の頃から他のところも受けさせてあげて欲しいって、篠目先生と一緒になってお父さんに言っていたんだけど……なかなか、ね。子供と親は同じではないのに、伝わらなくて」

 思い出したよと宗方が手を打ち、蒼雪は「そうですね」と答えている。

 十二歳、あるいは十一歳の子供たち。中学受験というふるい。要が会った悠馬ゆうまは終始おどおどとしていて他人の目を気にしていたが、あれは昔からなのだろうか。

「時間が経つと目立っていた子以外は忘れてしまって、いけないね。花園君も、あんなにがんばっていた子なのに。篠目先生なんて、生徒のことをよく覚えてたんだけど。いつも名前を出しただけで、ぱっといつ通ってたとか、どんな子だったとか、そういうことが出てきてたから。申し訳ない」

「いえ」

 蒼雪が答えると同時に、電話の音が鳴り響いた。宗方がそれに反応して、即座に立ち上がる。

「すまない、ちょっと」

 近くにあった電話の受話器を、宗方が取った。宗方は蒼雪と要に背中を向けて、白い受話器を耳に当てる。

 よくよく宗方の姿を見てみれば、皺のないダークグレーのスーツに、磨き上げられた革靴、きっちりと結ばれた濃紺のストライプのネクタイ。塾講師だと言われなければ、どこかの営業マンのようにも見える。

「はい、お世話になっております。理科の宗方です」

 電話の向こうの声は聞こえてこない。

 またじっと、蒼雪は宗方の顔を見ている。何かを見透かそうとするかのような、読み取ろうとするかのような、そんな視線で。けれどもその表情は、やはり凪いでいる。

「え? そうですか……やはり、受けないと。残念です、分かりました、それでは。もし気が変わったら教えてください。え? いえそのようなことは、申し訳ないとか良いんですよ。こういうのは本人の気持ちが一番ですし、ご家庭で決めていただけば構いませんので。どうしても話をして欲しいということであれば、私からも話はしますが。私としてはもったいないなというのが本音ですが」

 電話は、短く終わった。受話器を置いた宗方は、少し肩を落とすようにしてため息をついていた。

 受話器を置いて、宗方が戻ってくる。宗方はまた椅子に腰かけて、足を組む。

「いや、最近は偏差値が高くても行きたい学校じゃないからと、西山寺せいざんじ男子やのぎ、あと北川きたがわを受けてくれなくて困るね。何としても数字は出さないといけないし、そのためには届かないラインの子を諦めるのも、仕方ないか。上位の子を大事にしないとね」

 宗方は困っているかのように眉根を下げて、目を伏せる。

 聞き覚えがあるような、ないような、そんな学校の名前に、要は少し眉を寄せる。そして隣にいる蒼雪に、そっと問うことにした。

「西山寺男子とか、禾、北川って?」

「この辺りで最難関の三校だ。男子校、共学校、女子校」

 ぼそぼそと喋ったつもりだったが、どうやら宗方には聞こえたらしい。宗方の視線が、要に向いた。

「おや、君は中学受験は?」

「いえ俺は……していませんので」

 私立中学に通うという選択肢は、要にはなかった。学校の選択肢は国公立しかなく、ただ姉に負担をかけないように必死で勉強をした。

 塾にも、行かなかった。行けなかったということが、正しいのかもしれない。

「宗方先生、それで、篠目先生なのですが」

「ああ、何だい?」

 話題を変えるかのように、蒼雪が篠目秋則の名前を口にする。もっともそれは最初から聞く予定のものであったので、こちらが本題と言うべきだろうか。

「篠目先生ですが、夏目漱石なつめそうせきなんかはお好きでしたか」

「え? ああ、そうだね。好きだったよ。というか本が好きでね、住んでた部屋なんか本棚にずらっと本があったし、そこに入りきらないからって前に本が積んであった。狭いアパートがだいぶ本で埋まってて、給料もだいぶ本につぎ込んでたんじゃないか? 給料日近くになると好物のハンバーグが食べられないとか、ぼやいてたし」

「そうですか」

 本棚に詰め込まれた本、積み上げられた本。それはいったいどれほどのものになるのだろう。アパートの部屋というのは狭いものだが、それが埋まるほどとなるとやはり相当のものだ。

 だからこそ篠目秋則は、遺書に算数教師らしからぬ『平家物語』や『こころ』、それに木瓜ぼけせつについてを書いたのだろう。日頃から本を読んでいないのに、遺書にいきなりその内容が書けるとは思えない。

「篠目先生は塾を辞めた後に、宗方先生に会いに来たりは……」

「うーん。あ、一回だけ連絡があったな。あれは、十二月だったか。川辺君はどうしているかと聞かれたから、塾でバイトをしてくれていると。ちょうどその頃は彼が腕を怪我していてね、その話をしたら心配していた」

「そうでしたか」

「あとは……そうだな。前後三ヶ月の満月の日と新月の日を教えて欲しいとか」

 満月と、新月。月は毎日姿を変える。気付けば形は変わっていて、要はそれを気にしたことはない。ふと見上げたときに見えたものが三日月であれば、ああ三日月かと、そんなことを思うくらいで。

「宗方先生は理科の先生ですから、ご存知だと思ったんでしょうか」

「どうかな。授業のネタにはなるし、家のカレンダーは満月と新月が書いてあるものにしているから伝えはしたけど」

 理科という科目は、幅が広い。高校になれば四つの科目に分かれるものが、小学校と中学校では理科とひとまとめだ。

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