三 主もなきむなしき舟は

0.花は咲くのか

 喫茶店の窓からタクシーが走っていくのを見送って、手元の文庫本に視線を落とした。

 世間にはせつを守るという人がいる。そういう人が来世に生まれ変わると、きっと木瓜ぼけになる。ならば自分は木瓜ぼけにはなれないなと、そんなことをふと考えてしまった。

 目先の利に囚われることなく、ただ愚直に。目を閉じて眼裏に浮かんだのは、教え子からの手紙だった。

 桜が咲かないことはある。そこまでしてきた努力というものは、必ずしも報われるというものではない。まして合格実績というものを作れと、その言葉は残酷だ。

 義務教育と、受験指導は、まるで違う。そも、塾というものは学校ではなく、会社である。会社である以上、利益というものは生まねばならない。

木瓜ぼけ咲くや。漱石そうせきせつを守るべく」

 いつも指標としている夏目漱石なつめそうせきの短歌を、口の中で飴のように転がした。

 教室に座る生徒には、どうしたって序列がある。飛びぬけて賢い子ども、天才と呼ばれる子ども、ひたすらに努力を重ねている子ども。ただ小学生という年代はどうしたって残酷で、ただ愚直に勉強をしたところで結果がそれに報いてくれるとは限らない。

 彼らは未熟だ。熟しきらない精神を、小さな体の中に詰め込んでいる。

 結果のために誰に手をかけるべきなのか、合格の可能性が高いのは誰なのか。そんな物差しで子どもを測るしかないのは、言いようのない息苦しさを覚える。けれど会社である以上、合格の実績を増やさねばならない以上、その順番は定まってしまう。

 誰もに平等になんて、理想論だ。

せつ

 窓の外、木瓜ぼけの花。

 桜は咲かずとも、他の花が咲くかもしれない。たとえば桜に先んじて春を告げる木瓜ぼけのように、あるいは雪の中にぽつりと咲く梅のように、雨に打たれて咲く紫陽花あじさいのように、太陽に向かって顔を上げる向日葵ひまわりのように。

 本当はそれぞれを咲かせてやる助けをするのが、本来の教師の仕事なのだろう。けれどそうしてやる時間も何もかもが、きっと足りない。

 だから、結局目の前のものしか見られない。視界は狭くなり、順番をつけ、それがどれほどに愚かなことかを知りながら。

「夏目先生」

 手元の本の、表紙。そこに書かれた名前。

「僕には、できませんよ」

 もうずっとずっと昔に世を去った人だ。けれどこうして、その軌跡だけは遺されている。いつか読んだ高校の現代文の教科書にも、その足跡は遺された。

 教育者である。それは同じ。けれど決して、同じものになれはしない。

 君たちに春が来るようにと祈りながら、春を告げることはできない。桜が咲くように祈りながら、桜の花を咲かせてやることができない。

 割り切れない自分は、きっと向いていないのだ。上から下まで順序をつけて、それが悪いことだとは思わない。どう足掻いてもこの競争社会の中、誰とも比べることなく競うことなくは生きられない。

 木瓜ぼけが咲いている。桜よりも先に春を告げる淡紅の花が。

 二月の半ばには、すべての決着がつく。ついてしまう。まだ十二年しか生きていない子どもたちの、ともすれば十二年も生きていない子どもたちの、あるひとつの道を決めてしまう。セイコウとかシッパイとかショウシャとかハイシャとか、本当はそうでないはずなのにレッテルを貼り付けられてしまう。

 という呼び方が嫌いだ。

 勝ち取るという言葉は構わない、けれど勝者という言葉に括ってしまうのは嫌いだ。

 ならば念願を叶えられなかった子はどうしたらいい。努力が報われなかった子はどうしたらいい。その子は敗者なのだと黙したままに突き付けて、やわらかで未熟な心に傷を付けるのか。

 そう思いながらも、何ができるわけでもない。ただ目の前のことをひとつずつ片付けていくしか、自分にはできることがない。

 ぬるくなった珈琲を飲み干して、席を立つ。もうここに、用はない。


 彼が気付いてくれることだけを期待して、早何ヶ月が過ぎただろうか。季節がすぎて木瓜ぼけが咲いても、彼からは音沙汰がない。

 やはりもう他に、道はないのか。もう半年だけ、待ってみようか。彼岸花が咲くころになってもまだ、音沙汰がないのならば。

 目を閉じて思い出すのは、かつての日々。ただ前だけを見ていた頃。

 どうしようもなくなった時はあの子に――あの手紙の、あの子に。会いにきてくれた、あの子に。


 そうすれば、きっと。

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