6.言葉を持たない

 部屋の中は、雑多としか言い様がなかった。ベッドの布団は抜け出したまま、その布団の上には脱ぎっぱなしの服がつくねられている。机の上は漫画がいくつも積み上がり、床には菓子を食べた空き袋がいくつも。

弘陽こうよう。悪かったな、この前も行けなくて」

 座ってくれと、兼翔けんしょうは床の上に散らばったものを適当に動かして、二人くらいは座れそうなスペースを作る。

 あまり座りたい床ではないが、弘陽が座ったのを見て蒼雪そうせつもその隣に腰を下ろした。

「別に気にしてない。急なバイトだったんだろ」

「そうそう。人が足りないからって、宗方むなかた先生に頼まれたんだ。メールが着てさ。他の連絡方法あるのに宗方先生いっつもメール送ってくるんだ」

「宗方先生?」

「塾でバイトしてんだよ。試験監督と質問対応、皐ヶ丘さつきがおかで。宗方先生は俺らが卒業してからも、ずっといたらしくて。今は金代かなしろが戻ってきてるよ。そもそも金代は、宗方先生が皐ヶ丘にいたときも、毎日のように迎えに来て一緒に帰ってたけどな。金代が前にいた校舎、夜の授業なくて終わりが早い校舎だったし」

 塾講師は校舎間での異動がある。兼翔が今バイトしているのは、かつて彼らが通った校舎なのだろう。つまり金代は、以前勤めていた校舎に戻ってきたということだ。

「兼翔が質問対応?」

「似合わねぇって言いたいのか? 自分でも分かってんだよ」

 からりと笑って、兼翔が手近にあった菓子の袋を掴む。机の上にあったものを手でどけて、どさりと机の上から物が落ちるのも気にせずに、兼翔はスペースを作った。ばりりと開いた菓子の袋から、むんずと兼翔は中身を掴んで口いっぱいに入れる。

 ばりぼりと音を立てて菓子を食べた兼翔が、ちらりと蒼雪の方へ視線を投げた。

「蒼雪は久しぶりだな。中学ぶりか?」

「ああ、久しぶり」

 また菓子の袋に兼翔が腕を突っ込む。お前らも食べるかと問われて、蒼雪は「いい」と断り、そして弘陽は首を横に振った。

「で? 篠目ささめのことが聞きたいって?」

「そう。篠目先生、自殺したから」

「……は?」

 ぴたりと、兼翔の手が止まる。

 ざっとその顔から、血の気が引くのが見えた。唇がふるえるようにわななき、目は見開かれていく。

 その表情を、蒼雪はただじっと見た。その顔の上に乗った感情は、一体何か。かつて篠目秋則あきのりに言われたように、他人が何を考えているのか、その顔から考える。

「だから、自殺したんだ。それで遺書が俺の家に届いたから、兼翔と悠馬にも伝えようと思って、あの日お前らを呼んだんだよ」

 弘陽は兼翔の様子には気付かず、スマートフォンを取り出そうとしている。兼翔の顔色は変わらず、けれど何か言葉を紡ごうとしているのか、唇を噛んだり舌で舐めたりして、湿らせようとしていた。

 兼翔からの返答がないことに気付いた弘陽が、ようやく顔を上げて兼翔を見る。

「兼翔?」

 手が、震えている。手どころか、肩までも揺れている。

 とうとう兼翔は耐えきれなくなったかのように、ばんと大きな音を立てて机を叩いて、立ち上がった。

「帰れ!」

「え、おい……」

「帰れよ、話すことなんて何もねぇよ!」

 早くしろとばかりに足を踏み鳴らし、兼翔は唾が飛ぶほどの勢いで叫んでいる。ドアを指差して、顔色は悪いまま。

「あいつが悪いんだ! あいつが……あいつは死んで当然なんだ! 俺じゃねぇ! みんなみんなみんな、晴翔はるとと比べやがって! 出来の悪い兄で悪かったな!」

「え、おい、兼翔!」

「あいつが悪い! 全部あいつが悪いんだ! 俺の味方は先生しかいなかった! あいつだって俺に小言ばっかりだったんだ! あいつが悪い! 全部、全部、あいつのせいなんだ! 死んで当然だ! 先生だってそう言ってた!」

 弘陽は困惑して、兼翔と蒼雪とを見ている。蒼雪は立ち上がり、弘陽にも立つように促した。

 このままここにいても、何も得られるものはない。ただ兼翔の顔の中にあるものだけは何となく読み取ることはできた。

 疑問、困惑、それからあれは恐怖だろう。何かに怯えるようにして叫んでいる兼翔は、一体何に怯えているのか。

花園はなぞの、いい、帰るぞ」

「でも姫烏頭ひめうず

「いい」

 行くぞと声をかければ、弘陽がのろのろと立ち上がる。兼翔は頭を抱えるようにしていて、蒼雪が弘陽と共に部屋の外へ出たときには何かを蹴り飛ばすような音が聞こえた。

「あら? 来たばかりなのに、もう帰るの?」

「はい。どうも怒らせてしまったようで」

「そうなの……高校に上がれなかったくらいから、癇癪かんしゃくが酷いのよね。晴翔と同じように育てたはずなのに、どうしてかしら。去年の秋も家を飛び出して事故で腕を骨折したり。その頃に一回篠目先生が会いに来てくださったんだけれど、兼翔ったら、会いもしなかったのよ」

 困ったような様子は見せつつも、母の顔にあったのは諦めだ。兼翔はもうどうしようもないと、家を継ぐのは弟の方に期待しようと、そういうことになったのだろう。

「そうですか。篠目先生は、どうして」

「さあ……もしかすると、あの日、一穂かずほ君と何かあって、先生にまで腹を立てたのかもしれないわね。兼翔は『殺人犯になんて会えるか!』なんて言ってたのよ。確かに篠目先生が疑われたって噂を晴翔が学校で聞いてきたけれど、そんなはずないのに」

「晴翔君は今年、高校一年生でしたか」

「そうよ。晴翔は兼翔と違って、高校に上がれないなんてことはなかったから」

 兼翔が高校に上がれなかったことは、蒼雪も知っている。その時に兼翔がどのような様子であったのかは、直接会うこともなかったので知る由もない。

 お邪魔しましたと告げて、兼翔の家を出た。空気はあまり、冷たくない。

「高校に、上がれなかった?」

川辺かわべは中学から高校に上がる段階で点数が足りなくて、中学は卒業できても高校には上がれなかった」

 私立高校に附属している私立中学は、中学から高校に上がる段階でハードルがある。中学までは義務教育で学年が上がるのはそれほど難しいことではないが、高校は義務教育ではない。

 高校に附属している私立は高校受験がない。けれど、一定の学習段階に満たないのであれば、高校には上がれない。何も自動的に中学から高校に上がれるわけではないのだ。

 毎年そういった生徒は、何人が出てくる。いくら小学校六年生でふるいにかけたとは言えど、中学校三年生になるときに誰も彼もが同じ習熟度とは限らない。

 中学の三年間で勉強をしたかしていないか。高校に上がる段階で、そこまで甘かった学校が厳しくなる瞬間がやってくる。それまでは追試でなんとかなっていたものが、もうどうしようもならなくなる。

 最後のテストでこれだけの点数を取れ。そうでなければ高校には上がれない。そういうものが、突き付けられる瞬間がやってくる。

「あ、そうか。姫烏頭は同じ学校だったから」

「俺は染井そめいに聞いただけだけどな」

 蒼雪は兼翔と同じクラスではなかった。染井一穂は兼翔と同じクラスで、だからこそどのような状況に兼翔があるかを知っていた。

「兼翔、あんなに頭良かったのに」

「……勉強しなくても、な」

 だからこそ篠目秋則は、兼翔を気にかけていた。勉強をしなくても模試で点が取れることは、確かにすごいことだろう。けれどそれは、いつか限界がやってくる。

 天才と子供の頃にもてはやされたとしても、二十歳に近付けば普通の人間になる。ずっと天才のままではいられない。単純に子供の頃に賢かったとしても、他の子供たちが成長していくにつれて知識を身に付けていけば、そこに近付いてくる。

「それで塾でバイト、できてるのかな」

「小学生のレベルなら、川辺は困らないだろう」

 かつてできていたことが、できなくなったわけではない。ただ、そこより上のところで兼翔は躓いただけだ。

 兼翔はどうしちゃったのかなと、弘陽が隣で独り言ちている。

「……篠目先生が、死んで当然。それに、殺人犯という言葉」

 彼の言ったそれが、どうにも気にかかる。

 蒼雪にとって「死んで当然」というものは何だろうかと考えてみても、そこに篠目秋則が含まれるとは思えない。けれど「殺人犯」であるのならば。

 もっと罪を犯しただとか、誰かに何か恨まれるようなことをしたとか、死んで当然というのはそういうものではないのだろうか。ならば兼翔は篠目秋則を恨んでいたり、あるいはその罪を知っていることになる。

 

 その等式が成立するのであれば、兼翔の言っていることもつじつまはあう。人間を狩るようにして無差別に殺した平成の透明人間ともなれば、その罪は重いだろう。影も形も見えないその存在の死を、遺族は願っているかもしれない。

 けれどその等式が成立するのかどうか、蒼雪はまだ判断ができない。

「篠目先生が死んで当然なわけないだろ! それに、殺人犯なわけがない!」

「……そうか」

「俺は篠目先生のおかげでここまできた! 大学入試を頑張れたのも、第一志望の教育学部に今度は合格できたのも、篠目先生の言葉があったからだ!」

 蒼雪とて、未だ篠目秋則の言葉を胸のうちに残している。人間の顔をじっと見て、そして観察して、何を考えているのか考える。

 それはひとえに、かつて篠目秋則に言われた言葉があるからだ。

「篠目先生が透明人間のはずがない! そうだろ!」

 弘陽が、肩を掴んで蒼雪を揺さぶる。

 それでも蒼雪は、彼に同意する言葉は紡げなかった。答えを出すことはできなかった。お前がそう思っているのならばそうだろう、その言葉だけは喉の部分から出かかって、口を閉ざすことで封じ込めた。

 どうしてだろう。普段ならば口にしただろうに、ふっと篠目秋則の顔が過ぎったのだ。いつも穏やかな顔で笑って、けれど怒らせると怖くて、授業中なのに全然違う話をして。

 君たちは、どんなおとなになるのかな。

 おとなとは、いつなるのだろう。二十歳になったら、成人を迎えたら、おとなになるのだろうか。ただそれは、年数を重ねただけなのに。

 どんなおとなになるのかな。そう言った人は、もういない。二十歳がおとなだとして、二十歳の蒼雪は篠目秋則と会うことがないままに、篠目秋則を失った。

「なあ、姫烏頭……なんとか、言ってくれよ……」

 目の前で弘陽が唇を引き結んで、ぶるぶると震えている。

 何も、言えることはない。まだ何も明確なことはなく、憶測でものを言うような、無責任なことはできない。

「俺は、真犯人なんて分からなくてもいい。平成の透明人間が誰かなんてどうでもいいんだ。ただ俺は……篠目先生が平成の透明人間じゃないって、その答えが欲しいんだ……」

 木瓜ぼけの花。

 せつ

 夏目漱石なつめそうせき

 平知盛たいらのとももり

 見るべきものはすべて見た。見たいものも、見たくないものも。

 精神的に向上心のないものは、馬鹿だ。

 あの遺書に、篠目秋則は何を込めたのだろう。どうしてそれを、弘陽の家に送ったりしたのだろう。

 結局蒼雪は、弘陽に告げる言葉を持たなかった。

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