5.誕生日のチーズケーキ
ディ・ヴィーゲが休みになったのは大晦日と三が日だけで、それ以外はずっと店を開けていた。毎日のように
実家の父の容態が悪化したという知らせを受け、帰る途上の「私」のところへと届いたのは、「先生」からの分厚い手紙。それは、「先生」の遺書であった。
窓の外は、曇天だった。ここ最近は曇りがちで、太陽が見える日の方が少ない気がしている。寒さは厳しいと言うほどではないが、それならばもう少し晴れてくれても良いだろうにと思ってしまう。
私はこの怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思います。
罪という言葉は、『こころ』にもある。「先生」は二十歳になる前に両親を失い、
どちらかが生きていたのならば、鷹揚さを失わずにすんだ。その言葉を、
けれどその姉と、安穏を、要は突如として奪い取られた。そのとき要は十九歳で、大学生で、だからだろうか――だから、深山要になるように言ったのか。こんな風になったときのことを考えて。
平成の透明人間の
ディ・ヴィーゲの店内には、静かなクラシック音楽が流れている。時刻は午後四時、祝日だからか昼過ぎにやってきた沙世は、未だ
少し前に正治がやってきて、
からんころんと可愛らしい鐘の音が鳴って、扉が開くのが見えた。その向こう、見慣れた姿勢の良い姿。
「
「ああ。
店内にいるのは、正治と沙世だけだ。他の客は帰っており、店内は閑散としている。昼間は蒼雪の定位置にも座っている人がいたが、今はその定位置も空席だ。
透明人間の話だろうというのは分かっていて、要は樹生の方を見た。
「兄さん」
「構わない。だから姫烏頭君も、こんな時間に来たんだろう」
樹生には以前言った通り、蒼雪から聞いた話をすべて伝えている。蒼雪が要に用事があるということは平成の透明人間について何らかの話があるのだろうことは、樹生にも想像がついているはずだ。
「要ちゃん、すっかりその子と仲良くなったのね。良かったじゃない」
コーヒーのマグカップを置いた沙世が、要と蒼雪を見て笑みを浮かべた。今日も化粧は完璧で乱れはなく、その顔を見て金代の化粧よりも派手で濃いなと、そんなことを思う。
今日もその爪は赤いが、爪の先は光る石とか、白い線での模様とか、そういうもので綺麗に飾られている。
姉は、いつも最低限の化粧しかしていなかった。髪を染めることも、爪に色をつけることもなく、スーツも何年同じものを着ていただろうか。よく沙世には「私の使わなくなったのあげるから」とほとんど使っていないも同然の化粧品や服を押し付けられていて、けれどそれを使っていたのは樹生と出かけるときくらいだった。
いつも姉はそうして沙世から押し付けられるたびに困った顔をして、「また自分には似合わないものを買ったの?」と聞いていた気がする。
「お、要ちゃん。
正治の言葉には、苦笑いしか浮かべられなかった。べったりと言われるほどに姉や樹生に依存していたつもりはないし、しているつもりはないが、正治からはそう見えていたのかもしれない。
かすかな泥のにおいは、やはり正治のものだ。鼻についた泥のにおいは、いつものようにコーヒーのにおいにかき消されていなくなる。
「……仲良く?」
「いいから、気にしなくていいから。ほら、いつもの席あいてるし」
要と蒼雪が友達かどうかなど、今はどうだって良いことだ。仲良しこよしで平成の透明人間を探そうとか、そういうわけではない。
ただ、蒼雪が平成の透明人間について調べていると、大学の知人から聞いたから。だから要は彼に声をかけて話を聞いたのだ。
「かっこいいわね、彼。あ、でも、樹生さんの方が上だけど」
「それはどうもありがとうございます」
樹生は常と変わらない顔で、沙世に礼を述べている。本当に喜んでいるのかどうか、それは分からない。
「要、ケーキの残りは? 姫烏頭君と食べるか?」
「あ……姫烏頭、どうする。昨日兄さんがホールで買ってきたから、ふたりじゃ食べきれなくて。そうだ兄さん、正治さんと
「ケーキ?」
「昨日誕生日だったんだよ、俺。兄さんがいつも姉さんが買ってくれてたチーズケーキを買ってきてくれたんだけど」
蒼雪の問いに、肩を竦めて答えた。別に今更誕生日だケーキだプレゼントだと喜ぶような年でもないのだが、昨日の夕方、客が増えてくるより前に要に店を頼んで出かけた樹生が、白い箱に入ったチーズケーキを持って帰ってきた。
どれだけ買えば良いのか分からなかったなどと言ってホールで買ってきたが、男二人でどうやってホールケーキを片付けるつもりだったのだろう。
「いただく」
「だって。兄さん、よろしく」
蒼雪は早々にいつもの定位置へと向かっている。樹生がチーズケーキを冷蔵庫から出すのを確認して、白い丸皿を六枚並べる。
「なんだ要ちゃん、ケーキ食べれるようになったのか?」
「この店のチーズケーキは昔から食べられますよ」
「何だ、じゃあ美悠ちゃんは要ちゃんが食べれるケーキを探してたわけじゃないのか。俺はてっきり、そういうことだと思ったのに」
「何言ってるのよ。要ちゃんのお誕生日はいつも、近くの店のチーズケーキよ。生クリーム不使用だからって美悠が言ってたわ」
誕生日にはいつも、同じ店のチーズケーキだった。昔は違ったのかもしれないが、記憶にある誕生日は、いつだってチーズケーキを囲んでいた。
両親が死んだ後も、姉が同じように、同じ店のチーズケーキを誕生日だとかお祝いのたびに買ってくれていた。
「樹生さん、コーヒーもう一杯ちょうだい」
「かしこまりました」
丸い皿の上に、黄色いチーズケーキが並ぶ。蒼雪が紅茶なのは分かっていて、ホットの紅茶とコーヒーと、チーズケーキをふたつ盆の上に乗せた。
沙世や正治の前にも皿は置かれて、樹生もまた、自分に皿をひとつ取っている。けれど彼はそのチーズケーキを再び冷蔵庫に入れてしまった。
「あら、樹生さんは食べないの?」
「店が終わってから食べますよ。岡館さんと正治さんは、どうぞ食べてください」
「じゃあ遠慮なく。チーズケーキなんて久しぶり。ショートケーキの次に好きだけど、ついつい自分へのご褒美にってなると、ショートケーキになっちゃうから。デパートの地下にあるお店、美味しいのよね」
「どこの店ですか?」
「それは内緒よ、樹生さん。これは美悠にも教えなかった秘密だもの。誰にも教えないわ」
窓際の、一番奥。蒼雪は椅子に腰かけて、灰色の手帳を開いていた。その前、邪魔にはならないだろう位置にチーズケーキの皿とソーサーとティーカップを置いた。ホットの紅茶はまだ温かく、湯気を立てている。
「良い『兄さん』をやっているのね、樹生さん。赤の他人なのに、優しいわね」
彼はじっと、沙世と正治と樹生を見ているようであった。ことりと皿を置いた音で蒼雪は一度瞬きをして、要の方へと視線を向ける。
「あの人……」
「どうかしたのか?」
何かを問おうとしたのか、蒼雪がもう一度カウンターの方に視線を向けた。じっといつもの視線で彼らを見た後、ゆるりと彼は首を横に振る。
「いや」
要もまた、チーズケーキの皿とコーヒーのカップを置いて、彼の向かいの席に座る。
「調べてもらったことだが」
「どうだった?」
「……これが、君にとって喜ばしい結果かどうかは、分からないが。二人目の会社員は
「気になること?」
「……志望校の合格や当時の成績、そういうものが少し、な。その辺りについては、また考えるさ。あとは篠目先生は宗方先生のところへ行ったころ、俺たちが通っていたころの教室長の先生のところにも、顔を出している。少し調べたいことがあるからパソコンを貸して欲しいと」
篠目秋則は何を知ったか。何に気付いたか。もしも彼がこの事実に気付いたのだとしたら、彼はその後どうしたのだろうか。
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