5.川辺兼翔
悠馬には断られたよと、駅の改札で待っていた弘陽が肩を竦めている。そんな彼と二人で、肩を並べて兼翔の家までの道を歩きはじめた。さすがに見ず知らずの相手の家を訪ねるのに要を誘うわけにもいかず、今日は蒼雪と弘陽の二人だけだ。
「
「そうだな……」
小学校四年生から、小学校六年生まで。正しくは三年生の二月頭から、六年生の一月末まで、蒼雪は篠目秋則のいた塾に通った。篠目秋則はその校舎に八年ほどいて、それは異動のかかる塾講師にしては珍しい長期間であったらしい。
当時国語を担当していた
「『姫烏頭はもっと、人が何を考えているか、考えてみたらどうかな』だな」
当時蒼雪が浮いた子供であったことは、今思い返せば分かることである。けれど、子供であった頃の蒼雪は、そんな自覚はなかった。ただそんな蒼雪と視線を合わせるように膝を曲げて、そんなことを言ったのは篠目秋則だけだった。
学校の教師も、他の塾の講師も、誰も蒼雪にそんなことは言わなかった。ただ腫れ物に扱うかのように蒼雪を扱って、けれど成績は優秀だから何も言えない。
「篠目先生、姫烏頭にそんなこと言ってたのか」
「ああ。
「俺は問題児じゃなかったからな……でもほら、俺さ、あの時第一志望駄目だっただろ」
受験は全員が合格するようなものではない。合格するということは難関校と呼ばれる学校ほど、偏差値が上がれば上がるほど、厳しくなっていく。合格者を選別するふるいの目は、難関校ほど荒くなる。
中学受験も、例外ではない。十二歳あるいは十一歳がふるいにかけられて、合格と不合格に仕分けがされてしまう。
「……
「うん。俺は偏差値足りなかったし、分かってたことなんだけど。でも、第二志望も駄目で、結局行ったのは第三志望だった」
それでもと、
逆転することは、確かにある。けれどそれは絶対のものではない。合格が絶対ではないのは当然として、不合格も絶対とは言えない。受験とは、そういうものだ。勉強はその絶対に自分を近付けていくための手段なのだ。
そんな言葉を蒼雪が思い出したのは、それが篠目秋則から与えられたものだったからかもしれない。
「分かってたんだよ、第一志望も第二志望も到底届かないんだって。それでも篠目先生はさ、最後まで諦めなかったら合格できるかもしれないって、俺がついてるって、ずっと応援してくれた。宗方先生も同じようなこと、六年生の最初の頃は言ってくれてたんだけどな……夏明けくらいから、俺、見離されちゃったのかも」
「第二志望は、
「そうだよ。西山寺男子中と偏差値的には変わらない。点数配分が違うだけで」
西山寺男子中は、この辺りでは最難関の男子校だ。そして禾中は、最難関の共学校。どちらも合格率八十パーセントのためには、塾の模試で六十以上の偏差値が必要だった。
ただ、西山寺男子は算数、国語、理科、社会の四科目がすべて百点なのに対し、禾中は理科と社会が五十点だ。算数と国語が得意であれば、禾中は手が届くこともある。
「禾中の結果が出た日、お母さんと塾に行った。篠目先生がすぐ出てきてくれて、先生に会ったら、なんかもう自分が情けないし悔しいしで泣けてきてさ……すっごい恥ずかしい話だけど先生の前でわんわん泣いたんだよ、俺。お母さんまで泣いてさ、そしたら篠目先生まで悔しそうな顔をして泣きそうになってた」
なんとなくそれは、想像ができる気がした。篠目秋則が言いそうなことだ。
真っ白なホワイトボードを背にして、篠目秋則は生徒に色々なことを語ったものだ。どうしてそこまで一生懸命になるのだろうと蒼雪などは冷めた目で見ていたものだが、今になって分かることはある。
彼はきっと、「いつか」のために生徒に語ったのだ。受験の合格はゴールではなく、通過点だ。生徒たちが「いつか」足を止めたときに、何かに迷ったときに、もしかしたら自分の言葉が届くかもしれないと信じて。
「で、先生言ったんだよ。ごめんな、ごめんなって。俺の力不足だったって、お母さんにも言って。でも花園がやったことは何一つとして無駄にならない。最後まで諦めずに勉強した花園は、これから先絶対誰より努力ができる人間になれるって」
「篠目先生らしいな」
「そうだな」
合格おめでとう。けれどそんな強い光によって、不合格という影ができる。
それは一生心の中に暗く落ちているものなのかもしれないし、その影に再び光を当てて前を向けるものなのかもしれない。
「悠馬は、西山寺男子と禾しか受験しなくて、両方落ちた。お父さんが確か、そこ以外受けさせないって言ったから」
「そうだったか」
「悠馬は受験が終わって、初めてお父さんに謝罪をされたってさ。勉強しろ、お前は俺と違って頭が悪い、俺と同じ西山寺男子に行けなかったらどうする、そんなことしか言わなかったお父さんが」
「僕はお父さんに受験をさせられてる、他の子は遊んでるのに、そんなことを国崎は言っていたな。ノートの隅に授業中も落書きして、篠目先生に注意されつつも、『上手いな』なんて褒められていたか」
中学受験を始めるのは、小学校四年生が多い。まだ九歳や十歳の子供が明確に未来の目標を持って勉強ができるかと言えば、そんなことはないだろう。
蒼雪とて、別にどこに行きたいとかそういうものがあったわけではない。ただ蒼雪は、公立に行くよりも私立に行く方が良いだろうと父親が判断して、塾に入れたのだ。
このまま続けていくのなら、学校を休む日も出てくる。それなら公立中学に行くよりも私立中学に行って、内申を気にせずいられる方が良いだろう。そんなことを、蒼雪は父に言われたものだ。
「俺はどうしても西山寺男子に行きたかったから、受験をさせてくれって頼んだ。でも、そういう生徒ばっかじゃないんだもんな」
「そうだな」
ようやく、兼翔の家に辿り着く。三階建ての大きな家の隣、川辺医院という看板が出ていた。今日は日曜日、病院は休診日だ。
川辺という表札のかかった家の門、そこにあったインターホンを鳴らす。聞こえてきた返事は兼翔の母のもので、それから足音が聞こえてくる。
「いらっしゃい、待ってたわよ、花園君。あら……あら? 姫烏頭君?」
「ご無沙汰しております」
「やだ、見違えたわね! 小学校ぶりじゃない? 兼翔なら部屋よ、上がって上がって」
言っていなかったのかという意味を込めて弘陽を見れば、彼は肩を竦めていた。兼翔には言ったんだという言葉に、蒼雪は小さくため息をつく。
冷蔵庫のところには、カレンダーがある。六列に分かれたカレンダーには家族それぞれの名前と全員の欄になっていて、兼翔の弟以外のところはすべて同じような文字で予定が書きこまれていた。そして冷蔵庫の上には、丸められた厚みのある紙の筒が三つ。
「兼翔、お友達! 花園君と姫烏頭君よ!」
「うるせぇな、ババア! 言われなくても分かってんだよ!」
二階へと声をかけた兼翔の母親に、帰ってきたのは罵声だった。六年以上経っても変わらないのかと思っていると、母親は気にした様子もなく笑っている。
「ごめんなさいね、昔から変わってなくて」
塾の玄関前で、兼翔と母親の言い合いを見たことは何度もある。当時から兼翔は母親にクソババアだの何だのと、そんな呼び方をしていた。
二階への階段を上がり「兼翔」というドアプレートのある扉を弘陽がノックする。入っていいぞという兼翔の声がして、その声を受けて弘陽が扉を開いた。
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