4.人を殺す人間とは
戻ってきた
文庫本の端から、橙色の紐が覗いていた。銀色の、透かし彫りも。いつか姉がくれたしおりは、今になってようやくその役目を果たしている。
「
「ああ、調べた。
「また?」
「夏目漱石は、
明治の文豪が好んだ、
「
「夏目漱石が生き方の基本として好んだ言葉だそうだ。目先の利益に囚われることなく、愚直に生きる。ただ、真っ直ぐに。
「読んだのか?」
「該当部分だけな。そのうち全部読もうとは思っているが」
読んだと言っても、普通そんな風に丸暗記ができるようなものではない。一体蒼雪の記憶力はどうなっているのかと彼の顔を見てみても、読み取れるものは何もなかった。
「つまり
遺書の中にちりばめられたのは、『こころ』の一節。そして、夏目漱石が好んだという
けれど、どうしてそんなものを篠目
「算数の先生が?」
「そう、算数の先生が。けれど、算数の先生が本を読んではいけないわけではないだろう。読書家というのはどこにでもいる」
考えても考えても、分からないことは増えていく。篠目秋則は算数教師で、けれど遺書の内容ではまるで国語の教師のようである。
平成の透明人間ではないかと疑われた篠目秋則の遺書は、罪についても書いている。その罪の内容は分からないが、彼がそれを悔いたことだけは伝わってきた。
平成の透明人間は、無差別に人間を狩る。本当に、そうなのか。
「なんかこう、考えれば考えるほど……篠目先生は平成の透明人間から遠ざかるな」
「どうしてそう思う?」
「なんとなく、だ」
「そうか」
明確に理由を口にすることは難しい。本当に「なんとなく」としか答えられないが、どうにも要の中にある漠然とした平成の透明人間という存在と、篠目秋則という存在がどうしても繋がらない。
姿の見えない連続殺人犯と疑われた人間が、夏目漱石について語る。人間とは一面だけで語ることはできないが、平成の透明人間は果たして罪を悔いて自害するような人間なのか。
「
蒼雪はじっと、要の顔を見る。その探るような、見透かすような視線を受けて、けれど目を逸らすことなく蒼雪の顔を要も見た。
「……俺はこういうものについて、個人の感覚を差し挟みたくはない」
机の上には『こころ』の書籍。今から百年以上前に書かれた、その時代に生きた人が、時代を切り取り
こうして遺るということは、そこに何かがあるからだ。百年以上遺るものが少ない中にあって、夏目漱石の作品はいくつも遺されている。
「ただこの
無差別殺人にはきっと、殺す人間に理由がない。もしかしたらあるのかもしれないが、無差別というからには、誰もがその条件に当てはまるのかもしれない。
けれど、七人が殺された。その七人には何も、共通の部分がない。
「でもそうなら、平成の透明人間には理由があることになる」
「そうだ。だからそれを、考えている」
そこに理由など、あるのだろうか。姿も形も見えない透明人間は、一体どのような理由を抱えて殺人なんてものに手を染めたのだろう。
もしくはやはり、篠目秋則は何も関係がないのだろうか。ただ
「防犯カメラの死角になる場所で殺すことは、理解できる」
「見付からないため、だよな」
「そうだ。殺し方は、まず頭を殴り、それから背中から心臓を刺す。明確に殺すという意思がなければ、そんなことはしないだろう。けれど、殺すだけならば頭を殴る必要はない。つまりここでひとつ疑問が生じる……なぜ、頭を殴ったのか。なぜ、二段階なのか」
「転倒させたかったから、とか」
被害者は最初に頭を殴られて頭部に傷を負っているという。蒼雪は胸ポケットから灰色の手帳を取り出して、それを開いた。
「もちろん転倒させた方が、意識が朦朧としている方が、刺すのに手間はない。あとは血で汚れることを嫌がったからとか、そういうことかもしれないが」
人を刺せば、血が流れる。刃物を引き抜かなければ血が噴き出すということもないが、かといって立っている人間を刺せば流れた血で手は汚れるだろう。
鈍器と、刃物。その二つを必要とする殺害方法を透明人間が選んだのは、どうしてなのだろう。
「背中、から」
「君の姉だけは確か、違ったな。正面から刺されている。他の被害者は皆うつ伏せに倒れていたが、君の姉の
姉一人だけが、違っている。
そこに理由はあるのか、ないのか。ふとみた文庫本から見えたしおりにその名残を探して、そしてじくりと腹の底にまた澱みが溜まる。
「それから、どうして平成の透明人間は、令和になってぱたりと犯行を止めたのか。あとは……どうかな」
最後の犯行は、二〇一九年四月三十日。翌日の二〇一九年五月一日には、元号は令和に切り替わった。平成が遠ざかると共に平成の透明人間は姿を消し、一年半以上が過ぎても再び姿を見せることはない。
平成の透明人間は、どこに消えてしまったのか。篠目秋則が透明人間だとしても、どうして自殺までそれだけ間が空いているのだろう。
ぱらぱらと手帳を捲りながら、蒼雪は何かを考え込んでいる。
「六人目と七人目だけ、間が、短い。四人目と五人目の間も、少し開いてはいるが、半年も開いたわけではないし」
「六人目と、姉さんだけ?」
「染井と二人目も一応間は短いが……犯行が行われた月が違う。けれど六人目と七人目だけは、二〇一九年四月と、同じ月だ」
二〇一九年四月だけが二件発生し、そして平成の透明人間は姿を消した。翌日は令和になってしまうから、そんな理由が通るとも思えない。
「いや、まさかな……」
「どうかしたのか」
「憶測で、物を言いたくない。言いたくは、ないが」
蒼雪はどこか難しい顔をして、珍しく眉間に皺を寄せていた。いつもほとんど表情を変えることなく淡々と喋るというのに、珍しいこともあるものだ。
「どうしてだろうな。一人目の染井と、七人目の君の姉。そこにだけ妙な違和感がある気がする。時間帯のずれのせいなのか、殺し方のずれのせいなのか」
「ただ少し違うだけじゃないのか?」
「だが、二人目から六人目は、きっちり同じだ。月もなくて、暗く……月?」
蒼雪はまた、何かを考え込んでいる。
月がなければ夜は暗くなる。場所によっては、真っ暗闇になることもあるだろう。満月であれば月明りが照らしてくれることがあっても、月がなければそうはいかない。
「どうかしたのか」
「月が出ていないとすれば、新月か、あるいは……時間帯は夜。
蒼雪の知識はどうなっているのだろう。月の形と昇ったり沈んだりする時間など、要はさっぱり覚えていない。
ただ月が出ていなかったから、暗かったから、犯行に及んだ。そういう理屈では、通らないのだろうか。
「それから、心臓の位置……
「場所を知ってれば、刺せるんじゃないか?」
「そうだな。俺も刺そうと思えば刺せるからな……月についても、俺は知っている」
また蒼雪は黙り込んでしまう。手帳の中身をただじっと見て、それからスマートフォンで何かを調べ始めた蒼雪を横目に、要は机の上の本を手に取った。
大正の時代に、夏目漱石は何を思ったのだろう。文豪は、何を思って『こころ』を書いたのだろう。
頼まれても「先生」は、「私」を墓参りには連れて行かない。妻も連れて行ったことがないと言い、共に墓参りに行こうとした「私」に断りを入れるのだ。「先生」は「私」に話すことができないある理由によって、他人と一緒に墓参りに行かないと説明する。
いわく、「先生」も「私」も淋しい人間なのだという。「先生」の語る淋しいとは、一体どのようなことを指しているのか。「先生」の妻も、「先生」に酒を勧めながら、酒を召し上がった方が淋しくなくて好いと言っている。
どこか冷たく淋しいものが、そこには漂っている気がした。未だ「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」という言葉は本の中に現れていない。けれどそこまで飛ばしてしまうような気に要はなれなくて、ただ愚直に前から順番に、『こころ』を読んでいく。
篠目秋則は、ここに何を見たのだろう。彼もまた「先生」と呼ばれる立場にあって、弘陽のことを考えれば生徒には慕われていたはずだ。それでも何か、ここにあるような淋しさが、彼にもあったのだろうか。
「中学受験の、理科。月と星の動き、人体……俺たちにとっては当たり前に、勉強した内容。けれど普通の小学生は、勉強しない内容」
蒼雪はまだ難しい顔をして、手帳の中身に視線を落としている。ほとんど人の声もない食堂の中、要は読書をして、蒼雪は手帳を見ている。どうにも奇妙な状況がどれほど続いたのだろうか、少なくとも三十分以上は続いていたように思う。
「なあ、姫烏頭」
「何だ」
思い出したことがあって、要は蒼雪に声をかけた。蒼雪は無視はしなかったものの、手帳から視線を外すことなく返答をする。
「人を殺すのって、罪を犯すのって、どんな人間だと思う?」
樹生はそれを、「孤独で怒りを抱えた人間」と称した。要はその答えを持たなかった。ならば蒼雪は、そこにどのような答えを出すのだろう。
手帳から顔を上げた蒼雪が、じっと要の顔を見ていた。
「……孤独な人間。そうする以外にはもう、生きる術がない人間。
「そう、か」
また蒼雪の視線が、手帳へと落ちる。要もそれ以上何も言葉を紡げずに、また本の内容を追い始める。
じくじくと腹の底で、澱みが蠢いている気がした。吐きそうで、叫びそうで、けれどそれが何であるのか、要は名前を付けられない。ただ姉からもらったしおりを手に本を読んでいるだけだというのに、自分の手から取り上げられたものを考えて、澱んでいく。
やがて、三限目終わりのチャイムが鳴った。その音に蒼雪が顔を上げて、ぱたりと灰色の手帳を閉じた。
要も四限目には講義がある。読みかけのページにまた銀色のしおりを挟んで本を閉じ、隣の椅子に置いていたリュックサックに本をしまった。
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