3.沈むハ浮かむ縁ならめ

 明治末期、鎌倉にある由比ヶ浜ゆいがはま。海水浴に来ていた「私」が、同じく来ていた「先生」と出会う。東京に帰った後も「先生」と交流を続けていた「私」は、「先生」が奥さんと静かに暮らしているということ、そして「先生」が雑司ヶ谷ぞうしがやにある友達の墓に毎月墓参りをしていることを知る。

 ぱらりと、本のページを捲る。本屋で買い求めた夏目漱石なつめそうせきの『こころ』をきちんと読むのは、かなめは初めてのことだった。

「早速買ったのか、素直だな」

姫烏頭ひめうず

 後ろから声をかけられて、振り返る。リュックサックを背負った蒼雪そうせつが立っていて、彼はそこから要の手にしている本の内容を確認した様子だった。

 三限目が始まった時間帯の食堂は、もう人もまばらになっていた。ほとんど人のいない食堂の中、蒼雪が要の向かいの椅子を引く音だけがやけに大きく聞こえた。

「姫烏頭は、読んだことは?」

「ある。高校の図書室で借りて読んだ」

 読んだことがありそうだと思っていたが、やはり要の予想通りだった。

「他の夏目漱石の作品は?」

「『吾輩は猫である』、『坊ちゃん』、『彼岸過迄ひがんすぎまで』、『行人こうじん』、こんなところか」

 聞いたことのあるタイトルは、ふたつある。けれど残りのふたつは聞いたことがない。

「前ふたつは知ってる」

「俺はどちらかというと、後期三部作を気に入っている」

「後期三部作?」

「一九一五年に亡くなる前、一九一二年に『彼岸過迄』と『行人』、一九一四年の『こころ』の三部作だ。これが人間かと、そんなことを思った」

「そうか。俺あんまり本読まないからな……」

 夏目漱石の『こころ』も、高校の授業でやったきりだ。タイトルを知っていた『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』も知っているというだけで、中身までは知らない。

「姫烏頭は、本をよく読むのか」

「そうだな……それなりに」

 蒼雪の答えは何も不思議なところはない。むしろ、彼の言う「それなり」が、要からすれば「かなり」なのかもしれないとすら思う。

 ぱたりと本を閉じて、机の上に置いた。何度も文庫本として出版されているこの作品を知っている人は、きっとかなり多いだろう。その中に篠目ささめ秋則あきのりがいたとしても、何もおかしなことはない。

「篠目先生については、何か分かったのか?」

「前にも言った通り、篠目先生は染井そめいの事件で疑いをかけられて以降、塾を辞めてしまっている。四月の頭、春期講習が終わったところで、急遽きゅうきょ。塾の評判が落ちることを避けたかったのだろうとは思うが。その後先生がどこで何をしていたのかは、今のところ分からない。五人目と六人目が殺された日に周辺の防犯カメラに映ってはいたものの、その後の足取りは死ぬまで不明だった。警察も塾の本部に聞いたりはしたようだが、塾も当然辞めた人間の行方を知るはずもないし。そもそも本部の人間に聞いても、分からないものらしい。たとえどこかの校舎を篠目先生が訪ねてきていたとしても、報告が上がらなければ本部は把握できないから」

 塾というのは、学校ではない。運営する会社があって、そして校舎がある。要は塾に通ったことがないが、先生と呼ばれていても教員免許があるわけではないという話を聞いたことはある。

 篠目秋則は、塾を辞めている。三月二十四日の染井一穂かずほの事件の後に疑いをかけられ、そしてその疑いによって塾に迷惑がかかることを避けたというのは、前に蒼雪が言っていたことだ。

「篠目先生に話を聞けたら、分かるんだろうけどな」

 絶対にできることのない方法を、つい口にした。幽霊なんてものは、この世にいないのに。

 けれどもし、彼に話を聞けるのだとしたら。彼が本当に平成の透明人間なのか、そうではないのか。遺書の意図は何であったのか。それの答えが得られるだろうに。

「……この世に幽霊はいない。ただの人間が、幽霊を視ることはできない。ただの人間が幽霊を視たいのならば、を通すしかない」

「ワキの目……」

「能楽を、深山みやまは知っているか」

 聞き慣れない言葉に聞き返せば、少し耳にしたことのあるものが返ってきた。けれど名称だけは知っていても、その中身までは分からない。

「え、いや……全然」

「そうだろうな。そういうものだろう、今時は」

「あ、でも、お面被るやつっていうのは知ってる」

「そういう認識で構わない」

 蒼雪は気にした様子もなく、肩を竦めている。能楽とか、歌舞伎かぶきとか、前も蒼雪は口にしていた。そして篠目秋則の遺書について、平家物語と照らし合わせている。

 机の上には本がある。夏目漱石が『こころ』を書いたのは大正時代。能楽はそれよりも前の時代のものだ。それくらいのことは、要とて知っている。

「能楽の主役を、シテという。シテは幽霊であることが多く、普通ならば視ることのできない存在だ。けれどそのシテを能舞台の上で観客から視えるようにするために、ワキという存在がある。これは脇役というわけではなく、非常に重要な存在なんだ。ワキは生きた人間で、僧侶や山伏といったある種の人間である」

 幽霊とは、目に見えないものである。要も幽霊を視たことはない。

 そんな見えないものを、信じることはできない。けれどもしも幽霊がいるのならば、どうか死んだ人に会わせて欲しいと願うこともある。

「彼らの目を通して、観客はシテを視る。ワキがいるから、幽霊は生前のことを語ることができる。けれど現実に、幽霊を見せられるようなワキはいない」

 誰かの目を通したところで、幽霊は見えない。だから、篠目秋則に話を聞くことはできない。現実として僧侶はいるものの、かといって幽霊と対話をして、他人に幽霊を見せられるとも思えない。

「ならば死んだ人間が、生きている間に集めたものを、あちらこちらに植えて遺したものを、拾い集めて知るしかない」

 死んだ人間は、何を遺した。生きている間にその人が遺した痕跡こんせきは、間違いなくどこかに消えないままで揺蕩たゆたっている。

 生きている人間にできることは、何か。死んだ人間に話を聞くことができないのなら、その人がかつて集めたものを、もう一度拾い集めて繋ぎ合わせるしかない。

「それが、篠目先生の、遺書だ。これが先生が生きている間に、集めたものだ。そして先生は何かを伝えたいから、わざわざこれを花園はなぞのに送った。もしかすると、絶対に花園には読んで欲しかったのかもしれないな」

 篠目秋則は、遺書を送る相手に弘陽こうようを選んだ。手に持ったまま、ポケットに入れたまま自殺することもできたのに、そうしなかった。手に持って死んだとしても、死体と共に遺書は発見されただろうに。

 どうして、篠目秋則は彼を選んだのだろう。今の教え子ではなく、弘陽を。何となくで遺書なんてものを送る先を決めるとは思えない。

「先生は真実を抱え、けれど沈んだ。本来ならば浮かぶはずだった真実は、先生の自殺によって沈められてしまった。先生がもしも平成の透明人間ならば、いや平成の透明人間でないとしても、先生こそが平成の透明人間のなのかもしれない」

 篠目秋則は、自分で自分を葬った。

 あの遺書の中に平成の透明人間の真実があるのならば、篠目秋則は塾を辞めてから何かを調べていたことになる。遺書に明記はされずとも、『平家物語』や『こころ』に託したものが何かある。

 それとも篠目秋則が平成の透明人間で、その罪の告白をしたかったのか。教え子を殺して、それから何人も殺して、そうだとしたらそれは何のためなのか。

 無差別殺人として扱うには、この遺書はどうにも奇妙な気がした。何も関りがないのだとすればまた平成の透明人間は姿を消してしまうが、これが光であるのならば、透明人間の輪郭は浮かび上がる。

かむべき。便タヨリナギサ浅緑アサミドリ三角柏ミヅノカシワにあらばこそシヅむハかむエンならめ――沈むことは浮かぶことに繋がるわけではない。けれど俺は、沈んだものを沈んだままにしておくことがどうしても我慢ならないんだ」

「どうして、そこまで? そんなに篠目先生っていうのは、姫烏頭にとって大事な先生なのか?」

「さあ? どうだろうな。でも人間は、そういうものじゃないのか。殺したものを殺したままに放り出せば、いつか人間はたたるだろう? だから人間は、能舞台の上で、人を殺し続けるじゃないか」

「はあ?」

 そうだと返事をするだけで終わるはずの話なのに、蒼雪は真顔で意味の分からない答えを口にした。まるでそう勉強したから、その通りに行動している。そんな風に言っているかのようだ。

 幽霊はいないと言ったその口で、蒼雪は『祟り』というものを口にする。それもまた目に見えない、それこそ荒唐無稽こうとうむけいとしか言いようがないものなのに。

「お前やっぱり、変だよな?」

「だから何度も言わなくて良い。よく言われることだ」

 水を貰ってくると蒼雪が立ち上がり、要は手持ち無沙汰になって再び机の上の本を手に取った。明治天皇の崩御によって、衰弱した「私」の父。明治という時代の終わり、大正へと時代は流れていく。

 まるで、平成から令和のようだ。とはいえ、平成から令和に移行したのは、決して天皇の崩御によるものではないけれど。

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