1.影を照らす光

 篠目ささめ秋則あきのりの遺書には、罪という言葉があった。それから、せつに、木瓜ぼけ。精神的に向上心のないものは馬鹿だ。最後のそれはどこかで聞いたことがあるような気がして、けれどもかなめには思い出せなかった。

 それは、どこで聞いたのだろう。国語の授業か何かだったような、そんな気がする。

 蒼雪そうせつから送られてきた遺書の画像を見てみても、要には何も分からない。

 見るべきものはすべて見た。見たいものも、見たくないものも。果たしてそれは何であったのか。

「おはよう、姉さん」

 十一月三日、文化の日である。今日は休日で、大学の講義もない。

 机の上に置かれた写真立ての中で、姉は変わることなく笑っている。けれど姉はこの世のどこにもおらず、要の中で思い出だけが色せていく。

 まだ、声を覚えている。まだ、においを覚えている。まだ何も忘れていないのに、その存在は消えてしまった。五月の青い空に細くたなびく煙突えんとつの煙が、どうしようもなく虚しくて悲しくて、けれど涙を流したかどうかも思い出せない。

 手の中にあったものは、全部なくした。両親が既にいない要にとって、姉だけが本当にすべてだった。それなのに何の予告もなく、要は独りにされた。

 要はまだ十九歳で、葬儀の手配であるとか、そういうことをすべて手配してくれたのは樹生たつきだった。彼は何かを耐えるような顔をしていて、要はそんな樹生の顔を見て、どこか似たものを感じたのだ。

 ふと、壁にかけられた時計を見る。短い針は十のところに近く、長い針は九のところを示している。つまり時刻は、九時四十五分の少し前。

「え、ね、寝坊した!」

 休日はディ・ヴィーゲの手伝いをする。開店の時間は九時半で、もうとっくに開店時間を過ぎてしまっていた。

 慌てて寝間着にしているジャージを脱いで、服を着替える。エプロンをかけて背中のところで紐を結び、店の方へと扉の音がうるさくなるのも構わずに飛び出した。

「あら、要ちゃん。今日はねぼすけさんだったの?」

「あ、はい……おはようございます、岡館おかだてさん」

 既にカウンターの席でコーヒーを飲んでいた沙世さよが、マグカップを片手で持ち上げて、おどけたような仕草で要を迎えた。樹生は要の方へと視線を投げて「おはよう」と告げる。

 沙世はいつもと同じ、樹生がいつもいるところの目の前だ。正治しょうじはまだ来ていないようだが、彼もそのうち姿を見せるだろう。

「兄さん、何で起こしてくれなかったの」

「よく眠っていたからな。疲れていたんだろう、起こすのも気が引けた」

 沙世は今日も崩れたところがひとつもない派手な化粧をしていて、けれど着ているものはスーツではなくニットとパンツだった。ゆったりとしたニットには毛玉ひとつなく、ぴったりとしたパンツも汚れひとつない。

 ここで会うようになる前も、後も、彼女はいつだってこういう姿だ。

 真っ赤なマニュキュアを塗った爪が、細い指の先にある。白いマグカップを手にした指先の赤とマグカップの白とが、目に眩しい。

「ねえ要ちゃん、一年以上経つのに、まだ樹生さんが『兄さん』なの?」

 姉が死んだのは二〇一九年四月三十日。今日は、二〇二〇年十一月三日。

「岡館さん。一年程度で要の傷が癒えると思いますか」

「……そうね、ごめんね、要ちゃん。そういう意味じゃ、なくて」

「いえ、気にしないでください」

 これを傷と呼ぶのだろうか。要の腹の底に澱み続けるものは、そこでじくじくと要を蝕むものは、傷と呼ぶようなものだろうか。

 樹生はどう思っているのだろう。樹生にとって、それは傷なのか。喫茶店の店主でありながら、愛想笑い一つできなくなった樹生が何を考えているのか、要は聞けたためしがない。聞こうと思っても、要の口は縫い付けられたように開かなくなる。

「でも要ちゃんも、再来年には就職でしょう? 樹生さんも亡くなった彼女の弟を引き取るなんて、優しいのね」

 かつこつと沙世の指先が木製のカウンターを叩いている。赤い爪が、かつりこつりと、リズミカルに音を立てる。

 それがやけに、要の耳についた。

 どうして沙世はそんなことを言うのだろう。ささくれた心を逆撫でするような言葉を口にする人ではなかったと思うのは、要の気のせいなのだろうか。

「あーあ、私の紹介ですって結婚式でスピーチするの、楽しみにしてたのに。親友とお気に入りの喫茶店の店主を結んだのは私ですって。お幸せにって、泣きたかったのに」

「岡館さん」

「だって許せないの。私まだ、許せないのよ。犯人も捕まってないし。私が先にこの喫茶店を見付けて、絶対美悠みゆうも好きな内装だからって、美悠に教えたのよ? 要ちゃんと二人でちょっとお出かけするのにどう、って。私もよく行くから、毎日だって美悠に会えちゃうかもって。それに本当に、楽しみにしてたんだから。原稿用意して、練習して、ちゃんと、できるように。あの日だって最後だから、だから、私」

 許せないという言葉は、怒りなのだろうか。要にそれが湧き上がってこないというのはおかしなことなのか。腹の底の澱によって吐きそうになることはあっても、沸々と煮えたぎるような怒りというものは、要の中のどこを探しても出てこない。

 だからきっとこの澱みは、怒りという名前ではないのだ。

 未だに何かが、要の中で呑み込めないのだろうか。それまで手の中に持っていたものをふっと取り上げられてしまって、その手の軽さに慣れられない。樹生はどうやって消化したのだろう。沙世は、どうなのだろう。

「親友、だったのよ……親友だったって、言いたかったのよ……」

 沙世は消化できていないから、変わってしまったのだろうか。けれど彼女が変わってしまったように思ったのは、明確にいつとは言えないものの、姉が死ぬよりも前のような気がした。

 かつて姉がよく沙世を家に招いていたころ、彼女はどんな風だっただろう。要ちゃんと要によく声をかけて、勉強はどうだとか学校はどうだとか、そんな風に声をかけてくれていた気がする。

 からんころんといつも通りの可愛らしい音で扉の鐘が来客を告げる。その音に弾かれるようにして入ってきた人物を見れば、最近すっかり見慣れた顔だ。

「いらっしゃい、姫烏頭ひめうず

「ああ」

「いつもの席なら、空いてるよ」

「ありがとう」

 窓際、一番奥。蒼雪のいつもの定位置は、今日も誰も座っていない。そもそも満席になることも少ない喫茶店だが、その席はいつも蒼雪がいるからか、客は避けているかのように座らない。

 いつもはひとりで来る蒼雪の後ろに、弘陽こうようと、それからもう一人いた。もう一人の青年はどこか落ち着かないようにきょろきょろと周囲を見て、それから鞄を両手で抱えて背中を丸めるようにしている。

悠馬ゆうま、そんなに落ち着かないか?」

「初めての場所って緊張するんだよ……」

 悠馬と呼ばれた青年は、髪が少し長い。前髪は目にかかって鬱陶うっとうしそうなほどで、後ろの髪も襟足に届いて先が少し跳ねていた。

 背筋をぴんと伸ばした蒼雪と並んでいると、その姿勢の悪さがより浮彫になる。彼らの身長はそれほど変わらないように思えるが、悠馬は蒼雪よりも小さく見える。

「この前もそれで俺の誘いを断ったよな」

「ご、ごめんって……姫烏頭なんて、ほら、もう五年以上会ってなかったし」

 おどおどとした様子で、悠馬はぼそぼそと言葉を紡いでいる。声はだんだんと小さくなって、そして最後には消え入りそうになって、完全に悠馬は俯いてつむじが見えていた。

 蒼雪はさして気にした様子もなく、いつもの定位置に腰を下ろす。弘陽が悠馬の背中を支えるようにして歩かせ、二人は蒼雪の向かいに座った。

「相変わらずだな、国崎くにさき

「姫烏頭もだろ……」

 悠馬は俯いて、カトラリーのところから紙ナプキンを一枚取る。悠馬はそれをくるくると巻くようにして細く折って,それを開いて、手元をせわしなく動かしていた。

「ご注文はお決まりですか」

「俺はアイスティー。花園はなぞのと国崎は、どうする」

「俺はコーヒー、ブラックで」

「ぼ、僕は……オレンジジュースで……」

 要に注文をするのも、悠馬はやっとの様子だった。注文を受けてカウンターのところへ戻れば、コーヒーを飲み終えた沙世がちょうど席を立つ。

 高いヒールの靴を履いていても、沙世の姿勢がぶれることはない。

「じゃあ樹生さん、要ちゃん、また夜に来るわ」

「そうですか」

 笑みを浮かべた沙世はコーヒー一杯の代金を置いて、足音を立てて店を出ていく、まだ朝早いこの時間帯、客はもう蒼雪たちしかいない。

「兄さん、岡館さんにあのことは、言ってないんだっけ」

「言う必要があるか? 無用の詮索は面倒だろう」

 要がどうしてディ・ヴィーゲの住居に住んでいるのか、そもそもなぜ、を名乗っているのか、そんなことは他人に説明するようなことでもない。

 そもそも沙世は確かに美悠の友人でディ・ヴィーゲの常連ではあるが、プライベートなところまでを伝える仲ではない。樹生がそう判断しているのならば、要が言うことは何もないのだ。

「アイスティーとコーヒーのブラックと、オレンジジュースだな」

「うん」

「要、コーヒー以外を頼む。ついでに要の朝ごはんも用意するから」

「ありがとう、兄さん」

 樹生に言われた通りにアイスティーとオレンジジュースを準備したところで、樹生がその隣にコーヒーのマグカップをふたつ置く。それから、ロールパンとスクランブルエッグの、いつもの組み合わせ。

 行っても良いかと問えば、樹生はひとつ首を縦に振った。

「篠目先生の、遺書……そもそも、篠目先生が、自殺……嘘だ、そんなの」

「この前自殺の話をして、これを見せようと思ったのに、お前も兼翔けんしょうも来ないからさ。この話はニュースにもなってないし、知ってる人も少ないと思う」

 先日弘陽が蒼雪と共に待ち合わせていたのは、二人。けれどその二人は来ず、弘陽は蒼雪と二人だけで話をしていた。

 要が彼らの前に飲み物を置き、自分も良いかと問えば、蒼雪が「構わない」という返答をした。弘陽も笑っていたが、悠馬だけが困ったような顔をする。

「あ、深山みやま君。彼は国崎悠馬、俺たちの塾での同級生で、今は美大生」

「どうも……」

「悠馬、彼のお姉さん、平成の透明人間の最後の被害者なんだ。一緒でも良いか?」

「別に……いい、けど」

 ちらりと悠馬が要に視線を投げて、彼はオレンジジュースのグラスを引き寄せた。ストローを包みから取り出し、口に咥える。白いストローの中を、橙色の液体が上がっていくのが見えた。

 ストローから口を離した悠馬は、今度はストローが入っていた紙の包みを折っている。

「先生にまた、絵を……見て、欲しかったのに……」

 小さく小さく、ストローの包みは折り畳まれた。

「姫烏頭、平成の透明人間について、何か分かったのか」

「今のところは、何も。一年以上集めてもこの体たらくだ、別方面から考えた方が良いのかもしれない。多分何かを見落としていて、そこが暗いままだ」

 蒼雪の隣に座るのはやはり気が引けて、要は先日と同じように彼らの座っていない一角にロールパンとスクランブルエッグとコーヒーを置き、盆を戻してから椅子を動かす。

 要が戻ってきたとき、悠馬の手元にあったストローの包みはすっかり小さく折り畳まれていた。

「篠目先生が、平成の透明人間なはず、ない……」

 悠馬はずっと俯いている。彼もまた篠目秋則が平成の透明人間だとは思っていない様子で、篠目秋則への疑いには反発を抱いているのだろう。

 ロールパンを千切り、それを口の中に放り込む。今日も良い焼き加減で、皮はぱりっとしていて、中身はふわりとしている。特にバターを塗ったりしなくても、ほのかに甘い。

「絶対にしないとは、俺は今の篠目先生を知らないし、証拠もないから断言はできない。憶測で物を言いたくはない。ただ、そうだと思いたくはない、のは嘘ではない」

 彼らが篠目秋則の授業を受けていたのは、小学生の時。入試の時が十二歳であったことを考えると、もうそれは八年以上前のことになる。

 そんな前の教師に、恩師だといっても思い入れなど持つものか。

 けれども彼らはずっと、篠目秋則のことを思っている。平成の透明人間ではないことを願いながら。

「最初に殺された染井そめいの件からずっと、情報を集めていた。けれど、何も見えてこなかったんだ。どれだけ情報を並べても、どれだけ考えても、何も見えてこない。まさに透明人間、影も形もない。影なんてものは光を当てないとできないんだと、昔、宗方むなかた先生が言っていたな。ああ、深山。宗方先生というのは、俺たちが小学五年生と六年生の時に篠目先生と同じく授業を担当していた先生で、理科の先生だ」

 要だけが知らないであろう内容に、蒼雪はわざわざ注釈を付け足した。

 光がなければ、影はできない。影というものは、直進する光が何かによって遮られたときに、その後ろにできるもの。光がなければ影はなく、その姿も浮かび上がらない。

 平成の透明人間は、透明なのだ。姿も形もないということは、それを照らす光がないということでもある。人間の目は光の反射によって形と色を捉えるのだから、光がなければ見えないのは当然だ。

「篠目先生は犯人なのか、それとも、無実なのか。犯人だとしたら、どうしてそんなことをしたのか。無実ならばどうして、先生はこんな遺書で自殺をしたのか」

 一人目の犠牲者、染井一穂かずほ

 彼は篠目秋則の教え子で、そして蒼雪たちと同じ塾の生徒で同じ授業を受けていた。彼は篠目秋則に会いに行き、その帰り道で殺されている。

「……これが多分、光なんだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る