二 九重の花の名残を尋ねてや

0.次の花が咲くまで

 三月の頭は、まだ少し肌寒い。ひゅおうと音を立てるようにして通り過ぎていった寒風を、少しばかり首を竦めてやり過ごした。タクシーを使うでもなく、ただ足早に歩道を歩く。道行く人々は同じように首を竦めて、ただ前だけを見てすれ違う。

 人は自分が思っているほど、他人を気にかけたりしない。つい先ほどすれ違った誰かのことなど、すぐに思い出せなくなる。どんな服装だったとか、何をしていたとか、何一つとして他人の中に残すことなく過ぎ去っていくものだ。

 しばし歩いて、古びたアパートに辿り着く。かんかんとどうしたって足音がする階段を上がり、道路から丸見えになった扉の鍵を開けてがちゃりと開いた。六畳一間、トイレと風呂とキッチンだけはある。

 部屋の中央にひとり用の炬燵こたつがぽつりとあって、その向こうでぎちぎちに本が詰め込まれた本棚が佇み、そこからあふれ出た本が積み上がっている。その柱のてっぺんに持ち出していた文庫本を置けば、本の柱はぐらりと揺れた。

 ポストの中からはみ出していた封筒とチラシたちをかき集めて、どさりと炬燵こたつの上に置く。どうせほとんどいらないものばかり。大切なものなどほとんどない。廃品回収だとか、葬儀の準備だとか、どうでもいい宣伝文句ばかりが並ぶ。

 ポケットに入れていた白い封筒を、どうでもいいチラシたちの上に置いた。結局今日もまた、これを出せないまま。その封筒を封をしたまま真っ二つに裂こうとして、けれど変に引っかかった。

 ため息をついて封筒を炬燵こたつの上に戻して、チラシたちをかき集める。ぐしゃぐしゃに積み上がったまま、部屋の片隅に置いてあった籠の中につくねるようにしてそれを置いた。紐で縛って古紙回収に出すだけだというのに、それすらもしてやろうという気になれなかった。

 コートを脱いで洋服掛けからハンガーを取る。部屋の中はひやりと寒く、冷たい手が頬を撫でていくようでもあった。

 カーテンを開けることもない部屋は、薄暗くて、どこか湿っている。炬燵こたつの布団もつい先日コインランドリーへ持って行ったばかりだというのに、もうじっとりとして重かった。独りきりの部屋なんて、きっと誰しもこんなものなのだろう。

 真っ白な封筒に視線を落としながら、炬燵こたつの中に足を入れる。かちりとスイッチを入れたところで、すぐにあたたかくなったりはしない。

 この手紙を、出さなければならないだろうか。ただじっと視線を落として、それで何が変わることもない。ただその中に並んだ自分の文章は、一言一句違わずそらんじることができた。

 だから、僕は僕の人生に誰のことも巻き込まないと決めたのだ。恋なんて、愛なんて、道を踏み外すと知っていたから。母が、そうであったように。

 そう思うのならば人との関わりが最小限になるような仕事を選べば良かったのに、何とも因果な仕事を選んでしまった。それとも生徒たちの人生のある一瞬に介入して、それで何か変わるとでも思ったのだろうか。そうだとしたら、何とも浅はかではないか。

 目を閉じて、開いて、ようよう真っ白な封筒に手を伸ばした。そして開けることもなく、その手紙を封筒ごと破り捨てた。

 これはまだ、出さないでいよう。気付いてくれることを信じて、伝えた言葉が届くと信じて。

 次の花が、咲くまでは。


 どうか、あの頃の自分と違ってしまっていることに、気付いてほしい。

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