2.『こころ』
アイスティーを一口飲み込んで、
これはすべて、僕の不徳の致すところなのでしょう。
「先生の、遺書が……」
「
机の上に開いて置かれた遺書は、
スクランブルエッグを一口食べれば、今日も
「……分からない。どこかで見たことがあるような、気がする、けど」
悠馬がゆるく首を横に振った。弘陽も「俺も」と同意する。
この遺書から読み取れることは、要にもない。篠目秋則の罪が何であるのかが分からない限り、遺書からは何も分からないままになるのだろう。
「
蒼雪が遺書を眺めながら、低く紡いだ。それはまるで歌うようであり、けれど音程が歌とはまた違う。
「何だそれ」
「『
この遺書は、弘陽の家に送られた。教え子というのならば、篠目秋則には他にもいただろう。けれどその中から、弘陽を選んだ。
弘陽が会いにいってすぐというわけでもない。弘陽が篠目秋則に会いにいったのは、大学合格の時。つまり染井一穂が殺されるよりも前だ。
「
蒼雪の言葉は遺書のところにあるようで、そこから遠く離れていくようでもある。彼はずっと遺書に記された「見るべきものはすべて見た」を気にかけているようだが、果たしてそこにどれだけの意味が詰まっているのか。
壇ノ浦の戦いにおいて、平家は滅んだ。それは歴史の教科書にも載っていることで、歴史の上にあった事実である。
「なあ、その……
悠馬の問いはもっともである。
「どうだろうな。けれど人という種が同じである以上、そこから紐解けることは多々あるはずだ。そもそも透明人間の情報と睨み合っていても現状は何も見えない。ならばこの遺書、平成の透明人間の疑いをかけられていた篠目先生の遺書から見れば、何か見えてくるものがあるかもしれないだろう」
蒼雪は一度目を閉じて、また開く。
人間は、ヒト科のヒト属ヒトは、その種を変えてはいない。生命の進化というのは時間のかかるもので、せいぜい発生して二十万年のヒトが、大きく姿を変える進化をするはずもない。
「僕……別に、平成の透明人間のことは、分からなくても、良いかも……あ、いや、変な意味じゃない、けど」
悠馬が俯いて、ぼそぼそと言葉を紡いでいる。
「篠目先生が本当に平成の透明人間なのか、どうか……僕にとって一番重要なのは、そこだから……」
ロールパンの最後のひとかけらを口の中に放り込む。今日はきちんと味がしていて、やはり甘い。それからスクランブルエッグをかきこみ、コーヒーを一口。
腹の底で、澱みが蠢いた気がした。
「
要と同じ疑問を、弘陽も抱いたらしい。悠馬はまた手元をせわしなく動かしており、時折その手を止めてはオレンジジュースを飲んでいる。
「
蒼雪は何でもないことのようにそう告げて、また遺書に視線を落としている。
そう言われて、ようやく思い出す。確かにそれは高校の現代文の授業で習っている。先生と、それからその遺書。そこにあったのは先生という人物の過去。
内容をはっきりと覚えているわけではないが、それでも「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」という文章は頭の中にこびりつくように残ったのだ。
「夏目漱石の『こころ』か!」
「そうだ。その言葉によって、Kという人物が死ぬ。いや、Kの死がその言葉だけによるものとは言わないが、その言葉が引き金であったことは否定できない。元はといえばこの言葉は、先生がKに言われたものでもある」
「Kは……お嬢さんを、先生に奪われて、先生に裏切られて……死んだんじゃ、ないのか」
「どうだろうな。俺はその見解には懐疑的だが」
詳しい内容を思い出せと言われても、要は思い出せない。現代文はそこまで得意ではなく、結局センター試験で解いたっきりだ。
それでも、覚えていることはある。その言葉がこびりついたのは、結果的に先生のその言葉がKを死に追いやったからか。
「
「
ず、と音を立てて、悠馬の目の前にあるグラスからオレンジジュースがなくなった。からんと氷がグラスの底に落ちていく。
「篠目先生って、夏目漱石、好きだったのかな」
「さあ……思えば俺たち、篠目先生のこと、詳しく知ってるわけでもないし。算数の先生だし、国語の
悠馬と弘陽が顔を見合わせて、首を傾げている。
国語の先生が小説の内容に詳しいのは納得ができる。けれど篠目秋則は算数教師で、どうにも夏目漱石の作品と篠目秋則が繋がらない。
「……やはりこの遺書、考えてみるか」
じっと遺書を見ていた蒼雪が、ぽつりと落とした。
この遺書に書かれた内容で、おそらく読み解けるのは木瓜と拙。それが何を意味しているのか、書いた人に聞ければ一番早いのだろうが、その人はもうこの世にいない。
「それなら、
「宗方先生? ああ、確かに」
からんころんと鐘が鳴る。来客を告げる鐘と共に店の扉が開き、入ってきた年嵩の女性がきょろりと店内を見回している。
要の前にある皿は、もう空っぽだ。蒼雪たち三人の前にある飲み物も、それぞれ残りが少なくなっている。
話はそこで終わりになって、会話が消えた。蒼雪だけがただじっと、何かを探そうとするかのように、いつもの視線で篠目秋則の遺書を見ていた。
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