5.何かを腹に入れるのならハンバーグ
講義の終わり、ざわつく講義室の中で蒼雪だけは口を引き結んで前を見ている。彼は一度ゆっくりと目を閉じてから開き、そして横を向いた。
「また何か聞きたいことでもあるのか、
要が横から見ていたことに、いつ気が付いたのだろう。
じくりと腹の底が、また澱む。平成の透明人間、その名前だけは一人歩きしているというのに、誰もその実態を知ることがない。
「知りたいと思っては、駄目か」
「いや。俺はそれを否定はしない。目を閉じて見ないことにするのは、考えないことにするのは簡単だ。目を開いてきちんと見届けることは、難しい」
どうしてという疑問は、ぐるぐると要の体の中を駆け巡っている。
「見るべきものは、すべて見つ――さて、どんな気持ちで
篠目
見るべきものとは、何だろう。人間が生きて、死んで、その中で見るべきものなど何があるのか。
「篠目秋則という人は、
「そうだな」
小学校の時の塾の先生。要の知っている篠目秋則という人物の情報は、昨日聞いた範囲のことしかない。算数の先生、
弘陽の言葉からは、篠目秋則という塾講師と、無差別殺人犯である平成の透明人間が、どうにも繋がらない。
蒼雪はただじっと見透かすような視線で、けれども凪いだ表情で要を見ている。やはり落ち着かなくて、ちょうど腹に当てた手の下でぐうと音が鳴ったのを良いことに、要は彼を昼食に誘うことにした。
「なあ、姫烏頭。腹減らないか」
要に言われ、蒼雪が少し首を傾げて腕時計を見た。
二限目の時間は十時五十分から十二時二十分。学生たちは揃って食堂や外へ昼食のために移動していく。
「そうか、もうそんな時間か……君が昼食を食べるというのならば、付き合おう」
「は?」
「食べるというのは、人間にとって必要なものだろう。別に空腹ではないが、食べねば頭も働かないからな」
蒼雪は立ち上がり、隣の席に置いていたリュックサックの中に筆箱やノートをひとつずつ入れていく。そして彼は手にしたリュックサックの肩紐をきちんと両肩にかけた。
やはり背筋は伸びていて、姿勢が良い。それこそ、良すぎるほどに。
「なあ、やっぱり姫烏頭、変って言われるだろ」
「昨日も言ったが、よく言われる。それがどうかしたか」
何も気にした様子はなく蒼雪は言い放ち、要より先に歩き出す。向かう先が食堂だろうというのは分かっていて、要はその背中を追いかける。
どこか擦るように足を進めるのは、蒼雪の歩き方の癖だろうか。なんとも靴底がすり減りそうな歩き方である。
「なあ」
「何だ」
階段の途中で呼び止めれば、蒼雪は返答はしたものの途中で足を止めることはなく下まで降りる。それから彼は振り返り、要を見上げた。
「三限は?」
「ない」
「あのさ、それなら……うちで……あ、いや、ディ・ヴィーゲで食べないか、昼ご飯」
今の時間、食堂は学生で混雑している。三限があるのならば行って戻るのはぎりぎりの時間だが、三限がないのならば問題はない。
蒼雪は少し考えるような素振りを見せてから、スマートフォンを取り出して何かを確認している。そしてスマートフォンをポケットに戻した蒼雪が、再び要を振り仰ぐ。
「構わない」
要も階段を降りて、蒼雪の隣に並ぶ。
「あ、姫烏頭。移動は?」
「ディ・ヴィーゲなら徒歩で十分だろう。車はあるが」
「分かった。俺、自転車だから。少し待っててくれるか」
「なら、バス停のところで待っている」
蒼雪は気にした様子もなく、要に背を向けて歩いていく。要もまた彼と別れて、自転車置き場の方へと足を向けた。
彼らは最初の被害者である
無差別に人を殺した犯人に理由を問うことは、間違いなのだろうか。理由なんてないと言われてしまえば、それまでかもしれない。
自転車置き場には数人がいて、それぞれ自転車に乗って、あるいは自転車を押して去っていく。要もまたポケットから自転車の鍵を取り出して、自転車の鍵を開けた。そのまま自転車を引いてバス停の方へと向かう。
「平成の透明人間……」
口にすれば、腹の底がまた澱む。これが恨みなのか、憎しみなのか、それすら要自身も分からない。ただこのどろりとした澱が、何ともいえない気持ちにさせる。
バス停のところに行けば、蒼雪はそこであの灰色の手帳を見ていた。近くまで行ったところで自転車を止めれば、きいとブレーキが音を立てる。
「行くか」
「うん」
自転車を引きながら、蒼雪と並んで歩いていく。大学からディ・ヴィーゲまでは徒歩で二十分ほどだ。
何も話をしないというのも気が引けて口を開こうとしたところで、蒼雪の声が先に聞こえた。
「沈黙なら気にしない。無理に話さなくて良いぞ、面倒だ」
「面倒ってお前……」
「気を遣われるのって面倒だろう」
そう言い放たれて、要はそこで口を噤む。けれどその通りにするのもどこか腹立たしいような気がして、要は再び口を開いた。
「兄さんに、姫烏頭から聞いた内容を伝えても、良いか」
「構わない」
「あと、篠目先生っていうのは……あ、これは別に気遣いとかじゃないからな。俺が聞きたいから聞くために話をするんだ」
気遣いではない。これはただ、要がそうしたいからするだけだ。まるで言い訳のようなことを口にして、けれど蒼雪が要の顔を見ることはなかった。
歩道を区切るブロックのすぐ横を、白い車が音を立てて通り過ぎていく。冷たくなった風が吹きつけてきて、要は思わず首を竦めた。
「中学受験塾の、算数教師だ。俺や
「中学受験塾……」
「馴染みがないか? 住んでた場所によっては、そうかもな」
蒼雪の言う通り、中学受験と言われても、要には馴染みがない。小学校の時にした友人がいたかと考えてみても、やはり思い当たらなかった。
小学生が受験をする。要がした受験は高校受験と大学受験で、それを小学生に当てはめてみても、やはり想像できない部分がある。小学校六年生といえば十二歳で、そんな子供たちが受験をする。
「俺たちは同じクラスだった。他に女子があと三人いたし、花園はひとつ下のクラスと行ったり来たりしてたが。俺は扱いにくい子供だっただろうし、川辺はよく授業中に騒いでいた。染井は真面目で誰も答えられないような問題にも挑戦していたかな。国崎はおとなしかったけれど、おとなしいというか……ノートの隅に落書きをして、篠目先生に注意されたりしてた。花園は努力はしていたが、どうにも伸び悩んで、小五の夏くらいから成績が落ちていっていたと記憶している」
「よくそんなこと、覚えてるな。仲が良かったのか?」
「いや、特には。川辺は染井との方が仲が良かったし、国崎は一人でいて、花園は幅広くという感じだったか。俺は別に、休み時間も
覚えていることと、忘れていないことと、そこに違いはあるのだろうか。
「その篠目先生に、わざわざ大学の合格を報告しに行ったのか」
「染井は行くだろうな、花園も。俺たちが小学生の時にも、大学に合格したって報告に来ている人はいた。何せ彼らにとっては、中学受験の次が大学受験だ、何も不思議なことではない」
「……彼ら?」
まるで自分は違うとでも言うような蒼雪の言葉に引っかかり、要は思わず聞き返す。
「俺は高校で編入試験を受けている」
また、車が通り過ぎる。風は冷たさを増していて、ひたひたと冬の気配が静かに忍び寄ってきているのが感じ取れた。
「そんなに勉強したのか」
「さあ、どうだろう」
大学内と変わらず、蒼雪は少し足裏を引きずるような歩き方をしていた。背筋は伸びていて、一本針金でも通したように真っ直ぐだ。
蒼雪の顔には、特に表情はなかった。その顔だけで判断するようなものではないが、勉強ができそうと評されそうなものではある。
「染井が死んだとき、篠目先生が疑われた。二〇一八年三月二十四日、その翌日に先生が警察へ連れて行かれたのだと聞いたんだ。そして先生はその疑いによって塾に迷惑をかけるのを避けるためか、塾を辞めてしまった」
「それも例の、同級生の父親から?」
「いや。これは違う。先生が疑われたというのは噂で聞いただけで、それを確認するために四月になってから先生がいるはずの校舎を訪ねて行った時、辞めたことを知った」
それ以上は特に何も聞くことが思い浮かばなくて、要は口を閉ざした。以降はずっと二人とも黙り込んで、ただ道を歩いていく。
ようやく三角屋根に蔦が絡んだディ・ヴィーゲの建物が見えてくる。駐車場には赤い車と青い車の二台が停まっていた。
からんころんとかわいらしい鐘の音が鳴る。
「いらっしゃい……要、早いな」
「五限まで講義ないから、姫烏頭と昼ご飯でも食べようと思って」
要の隣にいる蒼雪を見ても、
「そうか。姫烏頭君、いつものところ空いてるよ」
「ありがとうございます。ホットの紅茶、お願いします」
窓際の、一番奥の席。一番外がよく見えるこの席に、蒼雪はいつも陣取っている。荷物を置いてくるからと蒼雪に断れば、彼は「先に行っている」とだけ告げてその席に歩いていった。
要は住居の方へと足を向けて、カウンターの横を通り抜ける。樹生がよくいる場所の目の前には女性がひとり、そして一番隅の席には昨日も見た顔がある。
女性は派手めな濃い化粧をしている。その化粧はひとつの崩れもなく、薄紅色に塗られた爪の先まで綺麗に整えられている。着ているものは、皺ひとつないグレーのスーツ。
それから今日もやはり、かすかな泥のにおいだ。
「おかえり、要ちゃん」
「
常連の彼らに挨拶をして、住居へと足を踏み入れる。蒼雪を待たせるつもりもなく、ただ鞄を置いただけで早々に部屋を出た。
「ねえ、聞いてよ樹生さん! また彼氏に振られちゃったのよ。『君は俺を見ていない気がする』だなんて言われて!」
「それはまた。岡館さんの魅力が分からない男だったとは、残念でしたね」
「なんだ
「うるさいわよ! 六十過ぎて独身の正治さんには男女のことなんて分かんないんだから。それに正治さんの好みなんて聞いてないのよ! 何よ、いっつも軍手してるくせに!」
「俺のあれは仕事用だ! 庭師を舐めるな! それに、外歩いてるときだけだ!」
彼らの会話は、何も珍しいことではない。岡館沙世は彼氏に振られたと度々樹生に愚痴をこぼしているし、正治も常連なのだからそこに居合わせることは少なくない。要もこれを聞くのは何度目になるだろうか。
沙世が彼氏に振られたという愚痴をこぼしていたのは、何も正治にだけではない。そもそもこの喫茶店の常連になる前は、彼女はよく要の姉にその愚痴をこぼして慰められていた。姉は「沙世のいいところは私が知っているわよ」なんて言って。
沙世の少し高い声でまくし立てられて、正治も負けじと大きな声で言い返している。
「その仕事で手を怪我したとか言って、大袈裟な包帯巻いてたのはいつだっけ? 令和になったばっかりの頃?」
「うるせぇよ! そんな余計なことばっか覚えてるから、男が嫌がるんだ!」
「何ですって! デパートの近くにあるお屋敷で大変だったとか、それを任せられる自分はすごいんだとか、そんなことを聞いてもいないのに喋ってたのはそっちじゃないの!」
平成が終わる日の前までは、そこに姉もいた。いつも沙世の隣に座って、樹生の目の前で、一緒に彼らの話を聞いていたのに。
そんな思い出を振り払うように、自然と要の歩調は速くなる。要がカウンターの横を通り過ぎて蒼雪のいるテーブルへ行こうとしたところで、ことりとカウンターのところにホットの紅茶が置かれた。
「要、姫烏頭君の分だ。お前はコーヒーだろう」
「ありがとう、兄さん」
「食べるものが決まったら、教えてくれ」
ガラスのティーカップには、鮮やかな紅色が揺れている。その隣に置かれたのは、青と白のチェック柄のマグカップ。
盆にのせることなくそれぞれを持って、蒼雪のいるテーブルへと向かう。ティーカップを彼の前に置き、そしてコーヒーはその向かい側へ。
「何食べる?」
「ハンバーグとライス」
「昨日もそれ食べてなかったか? というか、いつもそれだな」
昨日の蒼雪の注文は、ハンバーグとライスと、それからアイスティー。紅茶がホットかアイスかの違いだけで、注文はほぼ同じだ。
ディ・ヴィーゲのメニューには、ハンバーグ以外にも色々とある。けれど要が覚えている限りでは、蒼雪はいつもハンバーグを注文していた。
「何か腹に入れるのならハンバーグがいいと、言われたからな。それに、ここのハンバーグの味は嫌いじゃない」
「それはどうも。兄さんも喜ぶよ」
自分はサンドイッチにしようと決めて、一度席を立って樹生に伝えに行く。できたら持って行くという樹生の返答を貰って、要はまた窓際一番奥のテーブルへと戻る。
ティーカップの取っ手を持ち、蒼雪が紅茶を一口飲み込む。要もそれに倣うようにしてコーヒーのマグカップを両手で持ち、一口啜った。
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