4.四月三十日の思い出
二〇一九年四月三十日。忘れられもしない、おそらくこの先も忘れることがないだろう日付けだ。別に自分にとって悲しいことがあったから誰もが悲しみに暮れてほしいなどとは言わないが、ただひっそりと静かに息を詰めていたい日になるのかもしれない。
二度目の四月三十日が、まさにそういう日だった。
雨は降っていなかった。けれど晴れた日でもなかった。なんだか少しばかりどんよりした空の下、少し早く家を出るといっていた姉を、眠気に任せて見送ることもしなかった。少し遅くなるからねと言われて、
遅くなるどころでは、なかったのだ。どうしてあの日の朝、きちんと起きて姉を見送らなかったのだろうかと思っても、姉が帰ってくるわけでもない。
いってきますと、姉は言ったのだろうか。薄暗い部屋、まだ
泣いたのかどうか、それすらも要は思い出せない。どうしてと、そう思ったことは覚えている。どうして姉は殺されなければならなかったのか、どうして死んでしまわなければならなかったのか。
考えたところで答えはない。犯人に問えば、分かるのだろうか。犯人を目の前にしたときに、要は犯人を殺したいと思うのだろうか。
憎くないと言えば、嘘になる。けれどその犯人の姿も見えず、だから恨みや憎しみよりもまずは、知りたいという感情が先に立つのかもしれない。
自分のことだというのに、それがひどく曖昧だ。
朝、目を覚ます。見上げた天井の色は、見慣れた薄汚れた白ではない。真っ白に、こげ茶色の太い木の
「姉さん……」
身元の確認をして欲しいと通された場所では、線香のにおいがしていた。細くたなびく煙を、ただぼんやりと見ていた。遺体を包んだ袋が開けられて、そこにあったのは見慣れているはずの姉の顔だったのに、まるで他人のようだった。
仕事帰りの姉の持ち物は、仕事用の鞄。その中身は荒らされていたわけではなく、けれど何も持ち去られていないのか、それとも何か持ち去られたのか、それすらも要には分からなかった。近くに落ちていたという薄汚れてひしゃげた白いケーキの箱の中には、イチゴの乗った白い生クリームのショートケーキが三切れ。
そうして要は、手の中にあったものを全部取り上げられた。要にはもう、姉以外には誰もいなかったのに。
着替えを済ませて、家を出る。喫茶店の店舗内で開店準備をしていた樹生が、顔を出した要に気付いて手を止めた。
「おはよう、要」
「おはよう兄さん」
カウンターのところに置かれたのは、艶やかな茶色い皮のロールパンに、とろりとした卵のスクランブルエッグ。ことりと置かれた白と青のチェック柄のマグカップの中で、濃い色をしたコーヒーが湯気を立てている。
「生クリームは入れてない」
「そんな毎朝言わなくて大丈夫だよ、兄さん」
カウンターにあるカトラリーの箱から、銀色のフォークを取り出した。いただきますと手を合わせて、スクランブルエッグをフォークで掬う。
とろりとした卵の中に、
「間違えたくないんだ」
口の中はからからに乾ききって、柔らかいはずのロールパンが砂を噛んでいるのかゴムを噛んでいるのか、ともかく味と食感を失った。
上目遣いに樹生を見てみれば、彼は白地に黒い猫が走るマグカップでコーヒーを飲んでいた。姉が選んだというそのマグカップは、どうにも樹生には似合わないような気がしてしまって、いつも変な気分になる。
「平成の透明人間を、
「うん、一応……」
樹生の口からその言葉が出てくるのは、珍しい。
「分かったこと、一応、兄さんにも伝えていいかを、姫烏頭に聞いてみる」
「そうか」
透明人間のことは、樹生も知りたいのだろうとは思う。表情を失った樹生が何を考えているのかは読み取れないが、忘れてしまっているはずがない。
やはり、朝食の味はしなかった。
「殺人をする人間というのは、孤独と怒りを抱えた人間なのかもしれないな。誰にも止めてもらえない、誰にも認めてもらえない。孤独で視界が曇った、今目の前にあるものしか見えなくなったチンパンジーか」
まるで独り言のように落ちていった樹生の言葉たちを、要は掴み損ねてしまった。
「要は、どう思う」
「俺、は……」
問われて要は、言葉に窮した。どんな人間が、人を殺すのか。どんな人間が、それを選ぶのか。
どれだけ探してみても、要の中に答えはない。姉を殺した人間が、平成の透明人間がどんな人間なのか、想像すらもできないまま。
「俺には、分からないよ」
「そうか」
樹生がまた、マグカップに口をつける。やけに可愛らしい黒猫は、足跡と共に白いマグカップの上を駆けていく。
姉が使っていた黒地に白い猫が駆けていくマグカップは、どこにいったのだろう。樹生と揃いのそれを、確かにここで見たはずなのに。
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