3.篠目秋則

 ディ・ヴィーゲの閉店時間は二十一時半だが、二十時を過ぎるともうあまり人は入らない。正治しょうじが出ていったのを最後に、鐘が鳴る様子はなかった。

 蒼雪そうせつ弘陽こうようがいるのは四人掛けの四角いテーブル席で、けれどもどちらの隣に座るかを悩み、結局かなめは椅子を彼らがいるのとは別の位置に移動させて腰を下ろした。

「世の中はいまはかうこうと見えてそうろう。見るべきほどのものは見つ、いまは自害せん」

 ハンバーグと白飯とを食べ終えた蒼雪が、アイスティーを一口飲み込んでカップを置いてから、口を開いた。

平知盛たいらのとももりとは、平清盛たいらのきよもりの最愛の息子とも言われ、以仁王もちひとおうの乱や近江おうみ美濃みの源氏げんじの反乱において戦績を残している。ただ、寿永じゅえい二年の平家都落ちから、元暦げんりゃく一年の一の谷の戦いにおいては息子の知章ともあきらを失い、そして文治ぶんじ一年三月、壇ノ浦だんのうらの戦いにおいて敗北。ついには入水して自害した。この自害の際によろいを二領をつけたとか、いかりをかついだとか、そういった逸話が残る」

 ハンバーグの鉄板と白飯の皿とをテーブルの奥へと寄せた蒼雪が、弘陽から一枚の紙を受け取る。先ほども彼らがテーブルの上に広げていたもので、それが篠目ささめ先生という人物の遺書なのだろう。

 平家物語や平家という名前だけは、要とて知っている。けれど内容を詳しく知っているかと言われれば、教科書以上のことは知らない。平家の中で名前を知っている人物といえば、平清盛と、それから国語の教科書にその最期が載っていた平敦盛たいらのあつもりくらいのものだ。

「能楽においては『船辨慶ふなべんけい』や『碇潜いかりかづき』にて、それから碇知盛いかりもりと名高い浄瑠璃じょうるり歌舞伎かぶきの『義経よしつね千本せんぼんざくら』にも登場する人物だ。能楽では息子の知章もその名前のまま『知章』という演目になっている。演目になっているということはすなわち……いや、これはいいか」

 蒼雪はそこで言葉を切り、手にした紙をじっと見る。そして、開いたままそれをテーブルの上に置いた。

 おそらくそれは直筆だろう、細い、けれど整った文字が並んでいる。

篠目ささめ先生は、どうしてこれを書いたんだか。そもそも、どうして自殺を……いや、そこはさておき。あの人、国語でも社会でもないだろ。算数教師だったはずだが、俺の記憶違いか?」

「いや、姫烏頭ひめうずの記憶は正しいよ。俺まだ篠目先生の書いてくれたテスト直しノート、宝物だし……先生に会いに行ったときも、持って行って、見せて、それで」

 算数の先生と『平家物語』というのが、どうにも繋がらない。

 遺書の内容も決して具体的なものではなく、木瓜ぼけであるとか精神的向上心であるとか、そんな言葉が並んでいる。

 けれどそこには確かに罪の告白があり、僕の罪であると認めていた。彼が平成の透明人間であるというのなら、彼の罪というのは人を殺したことなのか。

深山みやま君、篠目先生っていうのは、俺たちの通ってた塾の先生。篠目秋則あきのり先生。俺みたいな落ちこぼれにも向き合って、最後の最後まで応援してくれた先生で、俺にとっては恩師なんだ。姫烏頭も篠目先生の授業を一緒に受けたし、透明人間の最初の被害者って言われてる染井そめい一穂かずほも俺たちの同級生」

「その人が、透明人間だと?」

「疑いをかけられた、だけだよ。とはいえ、誰もそれを否定できなかった。悪魔の証明というやつで、ないものを証明することは難しい。俺たちが見ていた顔が表の顔で、裏では無差別殺人犯だという可能性だって捨てることはできない。でも俺は、篠目先生が透明人間だとは思っていない。先生が透明人間のはずがないんだ! 俺は俺が見てきた先生を信じたいんだ!」

「花園、落ち着け」

 あったことの証明は、証拠を出せばいい。けれどなかったことの証明は、証拠がそもそも存在しない。

 否定するものに立証責任はないというものの、証明ができなければ疑いはいつまでも付いて回る。

「教師ってさ……大変な仕事なんだって、俺は今実感してるんだ。生徒の前に立って教えていたら、自分の方が上だと思うかもしれない。教師は支配者になってはならない、教えてやっているのだと、そんな風に傲慢ごうまんになってはならない。同じ目線に立ち、彼らを一人の人間として認め、その上で導かなければならない」

 弘陽が首を横に振る。

 小学生や中学生のとき、先生というのがなのだと思ったことがある。今考えてみればそれは要の思い違いだったのだけれども、学校という狭い世界の中で、まるで王様のように見えたのだ。

「篠目先生は、一穂が死ぬ直前に会ってるんだ。一穂も俺と同じように、大学の合格を篠目先生に報告しに行って、そしてその帰りに殺された。でもそんなの、塾の他の先生だって当て嵌まるだろ? 何で篠目先生だけが疑われなきゃいけない? あの人が教え子を殺すはずがないのに、あれだけ教え子と向き合った人なのに、どうして疑われなきゃいけないんだ! あの人に助けられたのは俺だけじゃない、姫烏頭だって分かるだろ!」

 小学生の頃に通った塾の先生に大学の合格を報告しに行く。

「俺まで、俺たちまで、先生を疑ったら……誰が、先生を信じるんだ……」

 そもそも小学生が塾に通うというのも要にはピンとこないものがあるのだが、その時の先生に報告しに行くというのも尚のこと分からない。小学校六年生の頃に通っていたのだとすれば、十二歳。高校の卒業は十八歳だ。

 六年も前の、しかも塾の先生に、大学の合格を報告しに行くようなものなのか。

「俺は、俺の曖昧あいまいな感覚だけで、違うとは言えない。根拠がないまま、言いたくない」

「姫烏頭、でも!」

「……だから俺は、平成の透明人間について調べている。先生が平成の透明人間ではないということを、確かめるために」

 蒼雪が再び灰色の手帳を開き、ぱらぱらとページを捲っていく。そしてある場所で、彼は手を止めた。

「染井一穂、当時は十八歳。医学部医学科に合格したものの、入学直前の二〇一八年三月二十四日に平成の透明人間に殺害される。最後にあった連絡は母親へ『先生に挨拶できたから、これから帰る』というもので、これが午後三時。それから三時間過ぎた午後六時になっても帰らず、母親が篠目先生の当時いた校舎へと連絡。けれどそこで、三時前に帰ったと言われた」

 三時間の空白。

 どこかで遊んでいるのだろうと考えたかもしれないが、染井一穂は電話で「これから帰る」と母親に告げているのだ。塾と家とがどれほどの距離にあったのかは分からないが、三時間もかかるような距離ではないだろう。

「そして、午後七時。その校舎近くの路地裏で、頭と胸から血を流し、うつ伏せに倒れているのが発見された。既に染井一穂は死亡しており、死亡推定時刻は午後三時半から七時の間。抵抗したような様子もなく、頭を殴るのにつかわれたと思しき鈍器は見付かっていないが、胸には包丁が刺さったままだった。ただその包丁も近くのホームセンターで買ったばかりの新品で、量産品でしかなく、指紋も出なかった。頭部の傷と出血から、おそらくは後ろから殴られて地面に転倒、その後に胸を刺されたと考えられる」

 死亡推定時刻だとか、凶器が見付かっていないだとか。まるで刑事ドラマか何かのような情報に、要は思わず蒼雪の顔を見てしまった。

 おそらく彼は手帳に書かれている内容を読み上げたのだろうが、それにしても一介の大学生が集められる情報の域は越えている。そんな要の疑問と同じことを弘陽も思ったようで、「ちょっと待て」と彼が声を上げた。

「姫烏頭、そんなのどこから聞いたんだ」

「高校の同級生に、警察官の息子がいる。そこの父親から聞いた」

「いや、だからって普通教えてもらえないだろ?」

「前に事件解決に協力したことがあるからな。今回も何か分かったら伝えるという条件で情報を貰っている……とりあえず、、だな」

 蒼雪は何かおかしなことでもあるかとでも言いたげに弘陽と要の顔を見て、それからまた手帳に視線を落としてページを捲る。

「殺害方法は、すべて同じだ。防犯カメラの死角になる場所で、頭部と胸部から出血。頭部の傷は同じではないが、胸部については常に背中側。心臓を狙った傷であり、いずれも致命傷となったのは胸部の刺し傷。ただ、染井以外は凶器が現場に残っていなかった」

「あれ、でも……刺されたとしか、ニュースとかでは」

「犯人しか知らない情報として、頭部の殴打おうだは公表されていない」

 殴られてうつ伏せに転倒、その背中に刃物を突き立てる。

 絶対に殺してやろうという考えが、見える気がした。倒れるほどの頭部への衝撃というのもかなりのものだろうし、そこでもう意識が混濁していてもおかしくはない。

「それにしてもこの傷の形状は、妙だな。凶器はすべて包丁だと考えられる、が」

「妙?」

「包丁で刺した傷なら、普通刃はどちらを向く?」

 蒼雪に問われて、要は少し考える。包丁を手に持てば、普通は刃が下を向く。手で実際にやってみても、やはりそうとしか考えられない。

「下?」

「そうだな。でも、この傷……刃が足の方ではなく、頭の方を向いている。単なる立ち位置の問題かどうか……ああでも、一人だけは下向きか。染井も、上向き。特に意味はないのか、あるいは何かがあるのか。染井のときが包丁だったからすべて包丁だと考えるのも短絡的か。あとは背中側から刺している以上、明確に殺意を持って力いっぱい刺さなければ心臓までは刺さらない。だから刃を上に向けて持ったというのも考えられるか」

 無差別に、人間を狩る。そういう相手が刺し方を何か考えるとも思えない。要は特に意味は見いだせないが、蒼雪は考え込むように手帳を見ていた。

「正面から刺した場合だけは、下向き。となるとやはり力の入れ具合の問題か。とりあえずそれは置くとして……一人目の染井一穂のみ、犯行時刻が前述の通り昼から夕方だ。二人目から七人目はいずれも午後八時以降、十時頃までの、夜だ」

 染井一穂だけは、早い時間。けれどそれ以外はすべて、夜。

 要のところにかかってきた電話も、午後十時だった。雨は降っていなかった日、姉が帰ってくることが二度となくなった日。

「七人目についてだけは、一応詳しく見ておくか。深山の姉だからな。中原なかはら美悠みゆう、これが透明人間の最後の被害者。犯行時刻は午後九時頃で、やはり防犯カメラの死角になっている場所。これまで通り周辺の防犯カメラにも中原美悠だけは映っているものの、他に怪しい人物はなし」

 一人目から七人目まで、もしも付近の防犯カメラに怪しい人物が映っていたのなら。そうであるのならば、その人物が犯人の最有力となったのだろう。けれど、そんなこともない。ならば犯人は一体どこから現れて、どこへ消えたのか。

「と、こんなところだな」

 ゆえに、透明人間なのか。姿の見えない、無差別殺人鬼。防犯カメラに映らない、どこにもいない誰か。

「篠目先生が疑われたのは、一穂の時だけだよな?」

「いや、それが……五人目と六人目のとき、犯行現場付近の防犯カメラに、何かを探している篠目先生の姿が映っていた。だからもう一度疑われたようだが、結局決定的な証拠はなく、逮捕には至っていない」

 目の前には、罪の告白を記した遺書がある。

 なんとなく要は、ひとり取り残されているような気がしてしまった。果たして自分は彼らほどの熱量で、平成の透明人間の真実について知りたいと思っているのか。それが自分のことなのに、要はちっとも分からない。

 机の上に画面を下にして置かれていた弘陽のスマートフォンが震えて、音を立てる。手に取った弘陽が「あ」と声を漏らした。

「ごめん、そろそろ帰らないと。姫烏頭、またここに集まっても良いか。兼翔けんしょう悠馬ゆうまにも篠目先生が亡くなったことは、伝えたいし」

「そうか。俺は構わない」

「じゃあまた、全員の都合がつくときに」

 かたんと音を立てて、弘陽が席を立った。財布を取りだそうとした彼を蒼雪が片手で制し、「俺が払うからいい」と机の上の伝票を自分のところへ引き寄せる。

花園はなぞの、その遺書。写真に撮って俺に送っておいてくれ」

「分かった。なあ姫烏頭、頼むよ。お願いだから、先生が本当に平成の透明人間じゃないって、証明してくれ……お前なら、できるだろ。そういうの……」

 今日はここまでにしようという彼らに従って、要も席を立つ。椅子を戻そうかと考えたが、彼らが帰って片付けをするときで何も問題はない。

 出入口の扉の前にあるレジで、会計を済ませる。からんころんというひどく可愛らしい鐘の音は、彼らの背中には似合わなかった。

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