2.喫茶店『ディ・ヴィーゲ』
二〇一九年四月三十日は、火曜日だった。大学からの帰り、姉と二人暮らしのアパートに帰っても、姉はなかなか帰ってこなかった。仕事が長引いて残業をしているというのは珍しいことではないし、その日もそうだろうと思っていたのだ。
いつも通りのはずの日は、夜の十時も過ぎた時間に響いた、携帯電話の着信音で崩壊した。見知らぬ番号からの着信を普段は取ることがないのに、虫の知らせかその着信には通話を押した。
「ただいま」
三角形の屋根に蔦の絡みついたログハウスのような建物。それが喫茶店『ディ・ヴィーゲ』の外観だった。あの日のことを思い出しながら扉を開けば、からんころんと可愛らしい音で扉に付けられた鐘が鳴る。
店内からはふわりとコーヒーの香りが漂ってくる。入ってすぐ正面に見えるカウンターのところにいた店主が、カップにコーヒーを淹れていた。
「おかえり、
「兄さん」
コーヒーを淹れ終えた彼が、カウンター席に座る老人の前にマグカップを置いた。ふわふわとコーヒーの香りが濃くなって、また薄くなる。
「おお、要ちゃん」
「
白髪混じりの
彼からはいつも、泥のようなにおいがする気がした。そんな正治のにおいは、結局店内のコーヒーのにおいに負けて、消えてしまうけれど。
「
なあ、と声をかけられて、店主の樹生は「それは恐縮です」と笑みを浮かべることもなく答えた。愛想笑いのひとつもない顔だが、正治は気にした様子もない。
「先日はお姉さんのいるお店で飲んでいたとか、聞いた気がしますが?」
「そりゃ、たまにはそういうとこ行かないと寂しいじゃないか」
「そうですか」
マグカップに口をつけて飲み、正治はまた笑う。
「でも派手なだけの姉ちゃんたちは、そういう店でだけで良いな」
「派手な方が好きなのかと思っていましたが」
「そればっかりじゃ胃もたれするだろ?」
そんな彼らを置いて、要は喫茶店のカウンター奥から繋がっている住居の方へと足を進めた。靴を脱いで階段をのぼり、部屋の電気をつける。どさりと鞄をベッドの上に放り投げてから、机の上の写真立てに目を向けた。
何の変哲もない木製のフレームの中、姉弟と青年が笑っている。要が大学に入学した時には、まだ誰もこんなことになるなんて想像もしていなかった。
自分だけでも、しっかり立っていなければ。独りきりでも、立っていなければ。
写真立ての中の姉に笑おうとして、失敗して頬が引き
定位置に座る正治だけは、変わっていない。そんな気がしてしまって、少しばかり気が滅入る。変わっていない正治の方が異質なものに見えてしまうほどに、要にとっても樹生にとっても、それからもう一人の常連客にとっても、姉の存在が欠けてしまったことが大きすぎるのか。
「いやだから、お前はまたそうやって……あ、ちょっ、待て、
店内に戻ったところで、青年の大きな声が要の耳に飛び込んできた。焦ったような声を上げた彼はそれまで耳に当てていたスマートフォンを手にして、画面を見て溜息をついていた。
彼はスマートフォンを引っくり返し、そのまま机に叩きつけるように置く。
「ああもう!」
「どうかしましたか?」
「え? あ、すみません、うるさくして。ほんと、すみません……」
要に声をかけられたことで我に返ったらしい青年が、声と共に徐々に身を縮めていく。俯いてしまった彼にどうしたものかと、少しばかり考えた。
「あ、いえ、大丈夫なんです。ただ他にもお客様がいますので、こちらこそすみません」
「いえほんとに、俺が悪いので……迷惑をおかけしてすみません」
あまり大きくない青年が、更に縮こまってしまった。彼の目の前に置かれた白いカップの中にはココアが揺れていて、けれどすっかり冷めてしまって、湯気は立っていない。彼はそのカップをじっと見て、それから意を決したように口に流し込む。
からんころんと、また鐘の音。
「いらっしゃいま……あ」
歓迎の言葉は最後までいかず、途中で止まった。
「いらっしゃい、ませ」
もう一度、言い直す。
確かに彼はこの喫茶店の常連で、よく顔は合わせていた。けれど実際に言葉を交わした後では、なんとも落ち着かない。
「ああ、
「
蒼雪が要の顔を見るのと同時に、先ほどまで電話をしていた青年が声を上げた。名前を呼ばれた蒼雪の視線がついとそちらに動き、要は一気に空気を吸い込んでしまって思わず咳き込む。
そんな要のことなど知ってか知らずか、蒼雪はするりと隣を抜けていった。足音はほとんどなく、ぴんと伸びた背筋だけが見えている。
「三人来ると、聞いていたが」
「いや、ごめん……兼翔も
「そうか」
青年の向かいの席に腰かけた蒼雪は、気にした様子もない。ただじっと彼の顔を見て、小さく声を漏らしただけだった。
どこか居心地が悪そうに、青年が身じろいでいる。蒼雪の視線が落ち着かないのは、どうやら要だけではなかったらしい。仲間を見付けたような気持ちになって、助け船のように注文票を手にして彼らのいるテーブルへと向かった。
「ご注文は」
「ハンバーグとライス、あとアイスティーのストレート」
メニューを見ることもなく、蒼雪が注文を口にした。彼の視線は変わらず青年を見ていて、その顔から何かを見透かそうとしているようでもある。
正治が「ごちそうさま」と告げて、席を立つ。泥のにおいが漂って、また消える。会計をして彼が去ってしまえば、店内にはもう客は蒼雪と青年だけになった。
かすかなクラシックの音の中、聞かないようにしようと思っても、彼らの会話は聞こえてくる。
「
「うん……篠目先生が、自殺したんだ。それでどうしてか、遺書が俺の家に届いて」
「遺書が
注文を受けた樹生が、フライパンでハンバーグを焼き始めた。じゅうじゅうと肉の焼ける音は、それでも彼らの会話をかき消すようなものではない。
「あれ。姫烏頭、驚かないんだね」
「俺は篠目先生の自殺を聞いている。遺書のことも聞いていたが、それが花園の家に届いたものというのは知らなかったな。遺体の近くには壊れた携帯があっただけで、遺書は教え子のところに届いたとしか」
「その教え子が、俺」
自殺。遺書。死んだという、平成の透明人間。
笑っていた姉の顔が、要の脳裏に浮かんで消えた。どうして姉は殺されなければならなかったのだろう。姿も形も、未だ見えない相手に。
「俺、大学合格した時に、篠目先生に会いに行ったんだよ。前から、年賀状は送ってたんだけど」
「だからって遺書を花園に送ってくる意味は分からないな。警察には?」
「もちろん、持って行った。本物は警察にあるけど、コピーしておいたんだ」
肉の焼けるにおいが、コーヒーのにおいをかき消し始めた。ちらりと彼らの方を見れば、花園と呼ばれている青年が、机の上に一枚の紙を広げている。
「要、アイスティー」
「え? あ、うん。ごめん、兄さん」
フライパンを見ている樹生は、要の方を見ることはない。それでも要がぼうっと立っていることは明白で、促されて要はそそくさとカウンターの中に入る。
グラスに、大きめのロックアイス。アイスティーは紅茶と同じ量の氷を入れろと、いつも樹生が言うのだ。銅のやかんに水を入れて、火にかけて沸騰を待つ。
「篠目先生の遺書……『見るべきものはすべて見た』か」
「姫烏頭ならこういうの、詳しいかと思って。それにお前とか、兼翔とか、悠馬なら、俺より頭がいいから、篠目先生の死の理由とかが、分かると思ったんだ」
彼らの会話は、まだ続いていた。茶葉をはかり、準備をして、それでも要の耳は彼らの会話を拾う。
別にそれを拾ったからといって、口外するようなこともない。これはつまり盗み聞きというもので、褒められたようなものでもないだろう。
「……平家物語、
平家物語というと、中学生の頃に最初の部分を覚えさせられた。
「先生はほら、疑われてた、し……それに関係してるのかもって思ってるけど」
「平成の透明人間か」
「だから姫烏頭も、平成の透明人間を調べてたんだろ?」
要が眉間に皺を刻んだ瞬間に、やかんの中身が沸騰を告げた。やかんを火からおろし、茶葉に熱湯を注ぎ、蓋をして二分待つ。それから、準備してあった氷の上へと一気に注いだ。
紅茶の香りが、あたりいっぱいに広がっていく。音を立ててとけた氷は、最早形も残っていない。
硝子のティーカップとソーサーを用意してそこにアイスティーを注げば、終わりだ。
「
「
「一穂が殺される前に、篠目先生に会ってたから……だからこそ、篠目先生は疑われたんだろ? でも俺は納得できないんだ。篠目先生が平成の透明人間のはずがない。あの人がそんなことをするはずがない」
どうしても彼らの会話が気にかかる。
平成の透明人間の犯行は二〇一八年の三月から。そして、二〇一九年の四月末に終わりを迎えた。
「要、ハンバーグ」
「え? あ、うん」
じゅうじゅうと鉄板の上でハンバーグが音を立てている。木の盆にのせられた黒い鉄板の上、短冊切りにされた玉ねぎは飴色、俵型のハンバーグはよく焼けていた。白くて丸い皿に炊飯器から白飯をよそい、アイスティーと共にそれらを運ぶ。
蒼雪は大学でも取り出していた灰色の手帳を、また眺めている。彼の前にハンバーグを置いたところで、蒼雪は顔を上げてじっと要の顔を見た。
やはり、落ち着かない。見透かすような視線を感じながらライスの皿とアイスティーを置く。
「お待たせしました……何か?」
「……君も聞きたいんだろう、深山」
「それ、は」
聞きたくないと言えば、それは嘘になる。彼らの言う篠目先生という人物がどのような人なのかは知らないが、平成の透明人間に何か繋がるのならば、要は知っておきたい。
姉はどうして、殺されたのか。無差別であったのだとしても、どうして姉が選ばれてしまったのか。平成の透明人間は、何がしたかったのか。
「花園、彼は深山要。平成の透明人間最後の被害者、
「そっか。俺は花園
弘陽が笑って自己紹介をする傍らで、蒼雪は「いただきます」と手を合わせて、箸を手に取った。伸びた背筋に、音を立てない
「懐かしいよな、塾のころ。姫烏頭と兼翔が徳川将軍全員言えるか勝負して、そこに一穂が入って、結局姫烏頭が一人勝ちしたり。校舎から駅までの道にいくつ防犯カメラがあるか数えたりさ。
どこか懐かしそうに、思い出話を弘陽が口にする。
空になった盆を手にカウンターへ戻り、彼らの方を振り返る。食事中に話をする気はないのか、彼らの声は途切れて聞こえなくなる。
「要」
「兄さん、その」
「いい。もうどうせ客は来ないだろうから、聞きたいなら聞いたらいい。閉店時間を過ぎるようなら店を閉めるのだけ頼めるか」
「うん、分かった」
蒼雪と弘陽を気にする要を見かねてか、樹生が肩を竦めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます