1.因業因果は車輪の如く
講義終わりの大教室は、まだ人が残っていてざわめいていた。床に残った細かな土は、きっと誰かの靴についてやってきて、しがみついていたはずのそこからぽろりと落ちたものだろう。そのせいか、教室内は少しだけ泥臭くなっている。
教室の扉が開いているせいで、暖房が効いているはずの室内が少し寒い。ぼうっとするほどの暑さになってのぼせていた頭が、外からの冷たい空気で明瞭になった気がした。
前から三番目の真ん中、大半の学生が忌避するその席を、いつも陣取っている生徒がいる。彼は机の上に新聞と本とを広げて、何やら考え込んでいるような様子だった。
すう、と息を吸う。
彼は一瞬こちらに気が付いて視線を投げて、けれどまた興味を失くしたかのように新聞に視線を戻した。開いた新聞の見出しには、見るだけで腹の奥底で澱みの虫が蠢くような気がする文字が並んでいる。
「あの」
机を挟んだ正面に立って声をかければ、彼は再び顔を上げて、今度はじっとこちらを見ていた。どこか怜悧な容貌よりも何よりも、その視線が突き刺さる。
突き刺して、抉り出して、内面までも見透かしそうな視線と凪いだ表情に、再び息をゆっくりと吐き出して、またゆっくりと吸い込んだ。
彼が一度だけ瞬きをして、薄い唇が開かれる。
「何か俺に聞きたいことでもあるのか、
「え……あ、うん……」
名前を知られているだろうとは、思っていた。要とて、特に用事がないのならば、彼に話しかけるようなことはしなかっただろう。
じっと見てくる顔からは何を読み取ることもできず、彼は変わらずの凪いだ表情で要を見ている。
要とて、彼の顔は知っている。けれど、名前を知ったのはつい最近だ。ただ、兄が彼の名前を知っていて、それを聞いただけ。本当は客の名前を聞き出すような真似をすべきではないが、どうしても声をかけたかったのだ。
「いや、あの」
視線を、彼の手元に滑らせる。
ただその見透かすような視線は要に変わらず突き刺さっていて、肌の一枚下がちりちりと痺れていくような気がした。
「
「そうだが、それが何か」
何とも仰々しい名前の彼の視線は、きっとまた要のところにある。けれど要はその視線を真っ向から受け止めることもできなくて、澱みの虫が蠢くのも構わずに新聞の見出しを拾うしかなかった。
平成の透明人間。
それは、誰がつけた名前だったのだろう。最初に呼び始めたのが誰かなど知らないが、その名前をつけた理由は分からないでもない。
「君の用事が何かはおおよそ察しはついている。君が俺に聞きたいのは……平成の透明人間について、だろう」
とん、と蒼雪の指先が新聞の見出しを叩く。
二〇一九年五月一日、元号は平成から令和へと変わった。それから一年半以上経過した今でも、何となくその元号に慣れられないでいる。
「どうして……」
「どうしても、何も。俺はこの資料をよく行く喫茶店でも広げているしな。そして君はその喫茶店『ディ・ヴィーゲ』の店員。だから俺が平成の透明人間について調べていることを知っていてもおかしくない。そして君が平成の透明人間について知りたいと思うのは、当然君の姉のことが理由だろう。名前は確か、そう、
少し違う部分があるとは言えど、彼の告げた内容はおおむね正解ではある。蒼雪が平成の透明人間について調べていることを知っていたのは要ではないが、確かに喫茶店で彼が資料を広げていたから、調べていることを知ったと聞いた。
蒼雪は白い開襟シャツの胸ポケットから灰色の小さな手帳を取り出して、ぱらりと開いた。正面に立っている要からはその中身が読み取れるはずもないが、ざっと蒼雪はその上に自分の視線を滑らせて、要の姉の名前を口にした。
どくりと心臓が、音を立てて跳ねた。
どうして彼はそれを知っているのだろうか。彼の知る要の名前は深山要だというのに。
「彼女が、平成の透明人間最後の獲物だったと目されているから。これで良いか?」
平成の終わる、その日。
二〇一九年四月三十日の夜、雨は降っていなかった。月が出ていたかどうかは、覚えていない。ただ確かにその日に透明人間は現れて、そしてその日を境にして、姿を見せなくなった。
「平成の透明人間の獲物は、共通点が見付かっていない。専業主婦もいれば会社員、弁護士なんかもいたか。この付近一帯で殺人を行った連続殺人犯は、二〇一八年三月に現れて、平成が終わる二〇一九年四月までに七人を手にかけた」
それから一年半が過ぎた。令和になった瞬間に平成の透明人間はぴたりと犯行をやめ、姿を一切見せていない。
「その七人目が君の姉だった。平成の透明人間の犯行現場は決まって路地裏だが、どのようにして被害者をそこに引き込んだのかも分からない。犯行現場となった路地裏は決まって二本の道を繋いでいて、防犯カメラがない。一件だけは路地裏に被害者が入っていくのを防犯カメラが捉えた映像はあったが、その前も後も、そこに出入りする人物はなかった。その被害者は娘の弁当を塾に届けた帰りで、誰かと話したというわけでもない」
そこに誰もいないはずなのに、被害者は確かにそこで殺されている。そこには輪郭すらもなく、ぼんやりとした影すら掴めない。
「他の被害者も、せいぜい駅で誰かと喋っていたとかその程度。犯行現場は
あれは狩りだと誰かが言った。平成の透明人間は人間狩りを行っているのだと。財布も携帯も金目のものには一切手をつけない、身分証もそのまま。
被害者に共通点がないのなら、やはり無差別殺人犯ということになる。けれど四月三十日を最後にぱたりと犯行をやめた透明人間は、なぜ平成と共に消えたのか。
蒼雪が机の上に広げた地図には、七か所に赤い丸がついていた。どうにもばらけていて共通点もない。犯行現場も無差別なのか、ただ防犯カメラに映らない場所を狩場としただけで、他には何の意図も見えない。
「大方、平成の透明人間が死んだという噂を聞いて、それが真実か気になった。だから平成の透明人間を調べているらしい俺に声をかけた……こんなところだろう。反論は?」
こちらが口を挟む余地もなく矢継ぎ早に言葉を紡いだ蒼雪が、どうぞ、と要に促した。促されたところで、要には反論などない。
確かに、彼の言う通りではある。
九月の終わりに平成の透明人間は死んでいる。それがどこから流れてきた噂なのかは知らないが、喫茶店の客が言っていたのだ。うちの子が聞いたらしいんだけど、という枕詞で始まる噂話はいくらでもあって眉唾物であることの方が多いが、それでも要はそれを聞き流すことができなかった。
「……ないよ。そこまで知ってるなら、話は早い。平成の透明人間について、知っていることを教えて欲しい。本当に死んだのか、それとも生きているのか、それが分かるのなら教えて欲しいんだ」
「何故?」
「なぜって……」
問われて、要は口を噤んだ。
答えを口にすることは、できないわけではない。けれどそれを明確に言葉にしてしまって良いものか、要には悩ましい。
大教室の中は、徐々に人が減っていく。ざわめきは消えていって、誰もが要と蒼雪の会話を気に留めない。
まるで、誰もに見放されてしまったようだ。そうして、独りきりになってしまったかのような、そんな気持ちになる。
「……もし、平成の透明人間が生きていたとして。復讐でもしたいのか? 仇討ちでもしたいと?」
「仇討ちって、いつの時代の話をしてるんだよ。時代劇じゃないんだから」
さらりと蒼雪が口にしたものを、要もまた口の中で転がしてみた。何でもないことのように蒼雪は言ったが、要にとってはなんとも理解し難い言葉である。
仇討ち。そんなものはかつて武士がしていたものでしかない。現代日本でやれ仇討ちだとやったところで、それは立派な犯罪だ。そこにどんな理由があろうとも。
それくらい、要も頭で分かっている。
「復讐心は過去の人間だけが持っていたものでもないと思うが、違っていたか?」
「あのさ姫烏頭。初めてまともに会話する相手に言うのもどうかとは思うんだけどさ」
前置きをして蒼雪を見れば、彼はやはり凪いだ表情のままで要をじっと見ていた。ただ待っているだけで止めるでもない、そこには本当に何もないのだ。
「お前、おかしいとか変わってるって言われないか?」
「よく言われる。それで? 続きは?」
何か問題でもあるのかという顔をして、蒼雪は続きを促してくる。特にそれ以上言うようなことがあるはずもなく、要はなんとなくばつが悪い気持ちになって口を閉ざした。
「言ってから悪かったと思うくらいなら、最初から言わなければ良いんじゃないのか」
「は?」
「そういう顔をしている」
見透かすような蒼雪の視線からまた逃れるように、要は視線を逸らした。たかが顔を見たくらいで分かるようなことなどほとんど何もないだろうに、どうしてだか蒼雪の視線が要の隠していることを暴き立ててくるような、そんな気分になる。
机の上に、視線を落とした。
平成の透明人間。新聞の上では変わらずその文字が並んでいる。日付を見ればそれは令和になったばかりの日の新聞で、一年以上前のものである。つまりそれは、要の姉の死を報じたもので。
二〇一九年四月三十日、何でもない日。何でもないはずだった日。午後十時にかかってきた、たった一本の電話の内容が、何でもない日を姉の命日に変えた。
要にとって、最悪の日に、変えた。
「七人を殺した、平成の透明人間」
一人目はたしか、高校生だか大学生だか。そこから始まって、七人。七人目が、要の姉だった。
「さて、平成の透明人間は、本当に死んだのか。それとも、生きているのか」
その姿は、影も形もない。誰もその姿を知らず、有力な被疑者すら上がってこない。それでも確かにそこで人は死んでいて、殺されていて、その遺体だけが透明人間の存在を物語る。
男か、女か、老人か、若者か、それすらも分からない。だからもしもその透明人間が目の前にいたとしても、その人が透明人間であることなど誰にも分からないのだ。
「姫烏頭はそんなことに興味があるのか」
「俺は、平成の透明人間の疑いをかけられた人を知っているからだ。その人が死んだということを、知っているからだ。けれど俺には、その人が無差別に誰かを殺す人だとは思えない。なぜなら
淡々と紡がれる言葉には質量がない。それなのに、引力だけはある。周囲の空気を奪っていくかのような引力で、息が止まりそうになる。
大教室の中は、とうとう要と蒼雪の他には誰もいなくなった。あれだけいた学生たちは教室の中から次々と吐き出された。
「そもそも、あの人が死んだことは報道されていない。警察は確かにあの人を平成の透明人間として疑ってはいたが、証拠はない。だから、公表はされていないんだ。それなのに噂が流れたということは、さて、どこから噂が流れ始めたのか。もしかすると本物の平成の透明人間が、自分の存在を覆い隠すために、噂を流したのかもな」
平成の透明人間は、死んだのか。それとも今もどこかで、生きているのか。
「
何を言っているのかと顔を上げれば、蒼雪は薄く薄く笑っていた。けれどもその笑顔はちっとも楽しそうなものには、見えなかった。
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