第67話 肯定と命令
俺が小説を書き終えたのは、夏休み終了三日前だった。
思っていたよりも時間が掛かってしまった。
因みに部長は既に書き終わっていた。
日並はまぁ、相変わらずだ。
「うむ。間に合ったようでなにより」
「遅くなってすいません」
「君の彼女よりは充分マシさ」
「……後でいい聞かせておきます」
「そうしてくれると助かる」
後で手伝うことになりそうだった。
「それじゃあ、一応確認として。見せてくれるかい?」
部長はそう言って、右手を俺に向けて差し出す。
俺は一度手に持った原稿用紙を見つめて、それを降ろした。
「いえ、大丈夫です」
「え?」
「この新しい方の小説は、今年の部誌には掲載しません。……こっちを、出そうと思います」
俺は反対の手に持っていた、もう一つの原稿用紙を部長に差し出した。
それは俺が七月の頭に書いた、淀んだ夏の小説だった。
「淀んでいる」。
水の流れがとまって動かなくなること。
物事が滞り順調に進まないこと。
何度も書き直してぐちゃぐちゃになってしまったこの小説に、俺の過ごしてきた夏に、ピッタリの言葉。
そんな、どうしようもない程に酷く、どうしようもない程に歪んでいる小説。
俺はこれを、部誌に掲載しようと思った。
「……一応、理由を聞いても?」
部長は原稿用紙を一度見やると、そのまま真剣な表情で俺の目を覗いた。
彼女はきっと、俺の心からの答えが聞きたいのだろう。
ならば、それに答えるまでだ。
俺は少し声を張り上げて、思いのすべてを口にした。
「確かに俺は、鮮やかな夏を書きたい、と言いました」
「そうだね」
「でも、それを書いていて思ったんです。……俺が昔見た景色は、淀んだ夏は、どうなるんだろうって」
「ふむ」
「部長。俺は今、夏が輝いて見えます。色鮮やかに見えます。綺麗に見えます。ちゃんと世界を、皆と同じ景色が見れるようになったのが、俺はうれしいです」
夏風。飛行機雲。澄んだ空。夏祭り。田舎街。
誇張表現のようにしか聞こえなかった曲の歌詞は、青々とした夏は、ただ俺が見えていなかっただけだった。
皆が見える、当たり前の景色だった。
それは世の中にありふれていて、普遍的に受け入れられている。
……でも。
「でもですよ」と俺は言った。
「俺はもう、淀んだ夏が見れないんです。くすんだ空が、黄ばんだような空が、もう見えないんです」
俺の見える世界は、変わった。
普通の視点になった。
つまりそれは、”見えなくなってしまった”ことと同じだ。
俺の目に映る景色はもう、くすんでもいなければ、黄ばんでもいない。
もしかしたらそれは、もう二度と見れないのかもしれない。
そしてもしかしたらそれは、見れない方が人として幸せなのかもしれない。
だけど、それでも。
「それが悲しいんです。いつか忘れてしまいそうで」
最後まで胸につかえていたのは多分、それだ。
忘れるのが嫌なんだ。両親の時のように。
気付きもせずに記憶からなくなってしまうのが嫌だった。
忘れたくなかった。
「見る方からしたら、なんだよこれ、ってなるかもしれない。もちろん、こんな夏もあったんだってことを知って欲しいっていうのもありますけど……」
もしかしたらこの行為は、読み手のことを考えてもいない自慰行為なのかもしれない。
どうしようもない、自分に対する慰めなのかもしれない。
物書きとして、間違っているのかもしれない。
だけど、それでも。
「いるはずなんです。どこかに。俺と同じような、酷い夏を体験した人が」
俺は肯定をしたいのだ。
そんな夏があったことを。そしてそんな夏があってもいいことを。
俺と同じように酷い夏を過ごしたその人に、同じように思っていた人間もいたのだと、伝えたい。
そう思ったんだ。
思いの丈を全て吐き出し、目を瞑る。
これで彼女は納得してくれるだろうか。
部長は俺の言葉に、ゆっくりと間をためてから頷いた。
「……そうだね。うん、わかった」
「じゃあ」
「受理しましょう。と言うより、君の意思が固いなら、私からは何も言うことはないよ」
「……ありがとうございます」
「ま、締め切りは三十一日だから。それまでは自分で持っててね。修正とかも全然オッケーだし」
「わかりました」
そう言って部長は原稿用紙を俺に返し、「さぁ」と指差した。
「それでは君に部長命令です」
「なんなりと」
部長の命令とは、珍しい。
だけど俺は随分と部長にお世話になった。
言葉通りに「なんなりと」と思った。
部長はわざとらしく「ふん」と鼻で息を吐き、微笑んだ。
「彼女の小説執筆を、手伝ってきなさいな」
「……はい!」
◇
「……そうか。君はもう見れないのか」
「羨ましいけど……そうだね、今は祝福しようか」
「同じような夏を過ごした人が居たってことに、こうして私にも気が付かせてくれたんだから」
「君の思いは、きっと他の誰かにも伝わるよ」
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