第63話 何ものにも代え難いソレ
隣の部屋の襖を軽く叩く。
辰也が風呂から上がったから、小百合が風呂に入った今なら部屋には日並一人だけだ。
二人きりで話ができるタイミングは今しかない、と確信して声を掛けた。
「日並、ちょっといいか」
「ん、なぁに」
少し開いた襖の間から、日並の姿が見える。
薄い水色の短パンを履いていて、夏だと言うのに灰色をした長袖のシャツを腕まくりしながら着ていた。
顔は……よく見せてはくれなかった。
「少し、話がある」
俺がそれだけを言うと、日並はそそくさと部屋から出てきた。
だけど何も言わずに俺の背中にくっついた。
「あの、日並さん」
「ん」
「話が、できないんですけど」
「ここじゃヤダ」
「あ、はい」
あ、そうか。
そりゃこんな雰囲気もへったくれもない場所では嫌か。
この間も日並に「雰囲気台無し」と怒られたのにまた同じことを繰り返してしまった。
次からは気を付けよう。
「じゃあ、ちょっと付いてきて」
「うん」
ひとまず、俺と日並は話がしやすい縁側へと場所を移すことにした。
こそこそと足音を立てないように階段を降りる。
別に隠れるようなことなんか必要ないのに、なぜかソワソワして落ち着かなかった。
一階から廊下を通り、縁側へと出る。
真っ暗な縁側は、二日前と同じように真っ暗だった。
「着いた、けど」
「うん」
声を掛けてみるが、日並は一向に離れる気配がなかった。
「い、いつまで背中にいるんだ?」
「いや、大丈夫だから」
「大丈夫ってなにがなんだ」
「平気だから」
「そう言うならまずは背中から離れてくれ」
「うん」
渋々といった様子で離れる日並。
俺は身体を彼女の方へと向けて、目を合わせた。
「その……まずは、返事遅れてごめん」
「……仕方ないと思う。あれは」
「まぁ、その。とりあえず、返事をだな」
「うん」
お互いに見つめ合う。
彼女は緊張した様子だった。
暗くてよく見えないはずなのに、頬は赤らんで見えて、目線は行ったり来たりしている。
それに彼女のやわらかい匂いが伝わってきて、艶やかな雰囲気に当てられてこっちまで緊張してくる。
心臓がうるさいくらいに波打ち、中々言葉が出てこなかった。
「日並。その、ありがとう。こんな俺を好きになってくれて」
「……こんな、なんて言わないでよ」
「ご、ごめん」
やっとの思いで出てきた言葉に、日並は少し悲しそうな顔を浮かべた。
まずはお礼を、と思ったのだが余計な言葉がついてしまった。
自分を卑下をするのは良くなかったようだ。
いや、そりゃそうだ。
自分のことを好きだと言ってくれた相手に自分を卑下するやつがあるか。
緊張している。
緊張し過ぎているんだ。
「夏輝くんは自分で気が付いていないかもしれないけど……キミはけっこう良い人だよ」
「……そうなのかな」
「うん。すごい人でもある」
「すごい?」
「うん。だって勉強できるし、料理できるみたいだし、さり気ないところで気遣いが上手だし」
「そうかな」
「そうなんだよ」
彼女は先程とは打って変わって、悠然と言葉を口にする。
そうだろうか、と思わずにはいられなかった。
勉強ができたのは、夏の体感時間が狂っていたからだ。
夏以外の季節は平均くらいしかできない。
料理も別に自分の料理を美味しいと思ったことはないし、気遣いだってちゃんとできているかわからないし、心当たりもない。
でも、日並が言うのなら。
他人から見た俺の姿は、そう見えるのだろう。
「ごめんね。話逸らしちゃった」
「いや、大丈夫。……ちょっと落ち着いた」
不思議だ。
彼女との会話で、先程の緊張が嘘のようにほぐれていた。
いつも通りのやり取りに、安心した。
いつものように、ただありのままを話す、このやり取りに。
そうだ、いつも通りでいいのだ。
いつも通りに、自分の思ったことを口にするだけで。
俺はもう一度深呼吸をして、改めて彼女に向き合う。
「日並。俺も日並が好きだ」
その言葉は、自分の口からスルリと出てきた。
まるでそれが自然かのように、当たり前かのように。
日並は俺の言葉に、嬉しそうに、そして柔らかく笑みを浮かべた。
「……」
「……」
だけど、訪れる沈黙。
まずい、そこから先が出てこない。
返事を返すこと以外まともに考えないで日並に声を掛けたのは流石にまずかったらしい。
続きに何を言えばいいのかわからず、気まずい沈黙が続いて、お互いに見つめ合ったまましばらくソワソワしていた。
「フフ」
それに突然、口を抑えて日並が笑う。
彼女の笑みがどういった反応なのかがまるでわからず、俺は狼狽えた。
「な、なんだよ」
「ううん。仕方ないなぁって」
「えっと」
日並はもう一度クスリと笑うと、その場で身を翻した。
くるりと一回転。
流れるような所作だった。
「いいの、わかってる。夏輝くんがそういうの得意じゃないの、わかってる」
「……」
「大丈夫。夏輝くんは、私の質問に答えてくれればいいからさ」
質問とはなんだろうか。
息を飲んで彼女の言葉を待っていると、日並は少し腰を曲げて上目遣いで俺を覗いた。
「ねぇ、夏輝くん。キミはこれからも、私と一緒に居てくれる?」
彼女の質問は、とても簡単なものだった。
「当たり前だ、そんなの」
彼女は「じゃあ、もう一個質問」と言う。
「これからも、私のそばに居てくれる?」
俺は強く、力強く頷いた。
「うん、ならよかった」
彼女はそう言って、そのまま顔を近づけた。
「じゃあ、付き合っちゃおっか」
それからの出来事は、よく覚えていない。
確かなのは、唇に微かに残った感触と、日並との関係がより近くなったことだ。
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