第64話 旅の終わり

 小鳥のさえずりで、目が覚める。

 見慣れてしまった天井。

 見慣れてしまった和室。

 隣であくびをしながら伸びをする辰也。

 まるで昨日の出来事が、現実ではなかったかのように世界は何も変わっていなかった。


 果たして、昨日の出来事は本当に現実だったのだろうか。

 そんな思いが脳裏を過る。


 本当は日並となんか話してなくて、お互いの気持ちなんか確かめ合ってないのではないだろうか。

 昨日の出来事は、ただの願望なのではないだろうか。

 大体、日並と縁側で話した以降の記憶がまるでないし、彼女と恋人同士になったという実感すらない。

 つまり、考えられる可能性は……。


「夢か」

「夢じゃねぇよ」


 バシ、と辰也に思い切り頭を叩かれる。

 意識が覚める音がした。


「そりゃないだろう」

「だって、まるで実感がない」

「散々惚気話した癖によく言う」


 あ、そうだ、思い出した。

 昨日は部屋に戻った後、辰也に祭りの時に間接キスしただの手を握ってくれただの惚気話を散々したんだった。

 長時間の惚気に呆れた辰也が俺に背を向けてタオルケットに潜った後も俺は興奮でしばらく寝られなかったんだ。

 昨日の出来事は、夢なんかじゃない。

 現実に起きたことだった。


「思い出した」

「そりゃよかった」

「実感ないのは変わんないけど」


 辰也はどうでも良さそうに頭を掻きながら「とりあえず飯食おう」と言って立ち上がった。


「まぁ、でも」

「ん?」

「改めて、おめでとうだ」


 辰也はそう言って、俺に手を差し伸べる。


「ありがとよ」


 手のひらを叩くように握って、俺は立ち上がった。


 さて、今日でこの旅行も終わりだ。

 帰る日がやってきてしまった。

 いつも騒がしかった朝食も、今日だけは静かだった。

 俺も少し名残惜しくて、言葉は出なかった。

 だけど日並と目が合うたびに彼女はニコリと微笑むもんだから、昨日の出来事が夢でないのだと俺は実感できた。

 辰也からは呆れたような目で見られ、小百合はよくわからなそうに目をぱちくりさせていた。


 荷物は昨日の内に全てまとめており、朝食を食べた後は本当に帰るだけだった。

 だけど帰るには時間が余っていたし、辰也も小百合も日並も名残惜しかったのか、ダラダラと何をするでもなく、六人で縁側にて寛いた。

 最寄り駅からの電車は一本乗り遅れるだけで一時間くらい待ち時間が発生するが、誰も文句も言わず、何も言わず、夏の風を享受していた。

 隣に座る日並と手が触れて、手を握りながら見上げた空はとても鮮やかだった。 


「そろそろ帰りましょう」


 しばらくすると、久恵さんからそう切り出された。

 向こうから言われてはこちらも反対できず、俺達は草薙家から出ることになった。


 正志さんがトラックを運転し、久恵さんが助手席に。

 俺達四人は前と同じように荷台へと乗った。

 トラックはゆっくりと草薙家を離れていった。


 それからの景色は一面田んぼの絨毯だった。

 青々とした稲の葉は空へ向かって、その背丈を更に天へと伸ばしている。

 底に溜まった水には、入道雲がその姿を覗かせて、その上を蛙が泳いで波紋を揺らした。

 それがずっと、ずっと続いていた。

 いい景色だと、心から思った。


「お世話になりました」


 駅に着いて、兄妹揃って頭を下げてお辞儀をする。

 「また来てね」という久恵さんの言葉を最後に、四泊三日の旅行は終わった。

 改札を跨いでも、電車が走り出しても、俺達四人は草薙夫妻に手を振り続けていた。


 やがて山と自然しか見えなくなり、俺達四人は窓を覗くのをやめて席に着く。

 そこに言葉はなく、しかし心地よい雰囲気で微笑みが溢れた。


 あぁ、旅行は終わったのだ。

 その実感が、ようやく湧いてくる。

 迷走から、流されるままに始まった旅行が、今、全て晴れて終わったのだ。

 あんなにも頭を悩ませていたのが、嘘みたいだった。

 それを思うと、どうにも感慨深かった。


「今年はいつもより楽しかった。ありがとな」


 唐突に、辰也が照れた様子で言った。

 少し驚いたが、俺は笑って返した。


「それはこっちのセリフだ。こっちこそ、誘ってくれてありがとう」


 俺の言葉に、小百合も頷く。

 日並も「私からもありがとね」とさりげなく言った。

 それに辰也は目を丸くし、腕を組んで気恥ずかしそうに目を逸らした。


「なんで俺に言うんだよ」

「お前が居なかったらこの旅行自体なかっただろ?」

「そうそう。素直に感謝されてください」


 俺の言葉に、日並が合わせる。

 辰也は反論したそうに歯をギリギリと鳴らしたが、諦めてため息をついた。


「言うんじゃなかったよ」


 そう言う割には、辰也は嬉しそうに見えた。


「あ。そうだ。小百合ちゃん」


 そして日並がパッと話題を変えるように小百合に顔を向けた。


「なんでしょうか?」

「その、これからちょっと、お兄ちゃん借りることになると思うけど……いいかな?」


 突然の言葉に、丁度口にしていたお茶を吹き出しそうになる。

 まさかこの場で言うとは思わず俺は動揺した。


「なんで今?」

「だって、今しかなくない?」

「辰也もいるんだぞ?」

「辰也にはまぁ、知られておいた方が都合いいし」

「俺の扱い雑じゃね?」

「別に文句にないでしょ?」

「あ、はい」


 辰也がボソリと呟く。

 しかし日並は変わらず雑な対応だった。

 小百合は目線を俺と日並の方を行ったり来たりさせていたが、やがて納得するように日並を見た。


「えっと、それじゃあ……日並さんとお兄は」

「うん。まぁ、付き合うことになりました」


 照れくさそうに笑う日並。

 改めて口にされると俺も恥ずかしくなり、思わず目を逸らす。

 俺達のやり取りに、横から「ゲロ甘ェ〜」というぼやきが聞こえてきたがそれは無視した。


 小百合は少し改まったように日並に身体を向けると「お兄を、よろしくお願いします」と頭を下げた。


「え! 小百合ちゃん、そんなかしこまらなくてもいいよ!」

「そのままお兄と結婚してください」

「そこまで言う!?」

「冗談です」


 顔を上げてクスクスと笑う小百合。

 妹も冗談を言えるくらいには余裕ができたのだろうか。

 それならばよかった、と兄ながらに思う。

 ……いや多分、冗談すら言えなかったのは俺のせいでもあるんだろうけど。


 しばらく目をパチパチとさせていた日並に、小百合は「でも」と言葉を繋いだ。


「日並さんが相手なら、安心です」

「それなら……よかった、でいいのかな」

「はい。いいんです」


 よろしくね、と笑い合う二人。

 和やかな雰囲気の元、今度こそ三泊四日の旅行は幕を閉じた。

 俺達を乗せた電車は、ゆっくりと俺達の街へと歩みを進めていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る