第54話 真っ黒な縁側

 どんなに頭を悩ませていようが、身体は勝手に生を求める。

 部屋まで漂ってきた料理のいい臭いに空腹感が俺を襲い、腹が大きく声を上げた。

 それは家の中を案内してもらい、これから過ごす和室の部屋で荷解きをしているときのことだった。


「……腹減った」

「俺もだ。さっさと片付けて婆ちゃんの飯食おうぜ!」

「あぁ」


 当然だが部屋割りは男女で別れた。

 俺と辰也で一部屋、日並と妹で一部屋だ。

 二階には四部屋も空き部屋があり、その半分を使わさせて貰う形となった。

 

 整理を終わらせて廊下に出ると、女性陣とバッタリ出くわした。

 ご飯なんだろうね、という会話をしながら、俺達は一階へと降りた。


 一階のリビングで俺達を出迎えたのは鍋だった。

 いや、しゃぶしゃぶか。

 ぐつぐつと煮立った鍋の周りに、新鮮なピンク色をした肉が綺麗に並べられている。

 他にも煮っ転がしや揚げ物など食べきれるかを疑うほどのおかずが机の上を埋め尽くしていた。


「ご飯にしましょう」


 久恵さんが茶碗にご飯を盛りながら優しく言う。

 正志さんは「若いやつはいっぱい食えよ」とガハハと豪快に笑って俺と辰也の背中を叩いた。

 衝撃に耐えられず、思わずよろめく。

 正志さんは力が強かった。

 辰也を見るとピンピンしていた。

 俺が弱っちいだけなのかもしれない。


 席に座り、六人で鍋を囲む。

 久恵さんの両脇に日並と妹が、正志さんの両脇に俺と辰也が並ぶ形だ。

 こんなにも大勢のご飯は、初めてだった。


 皆で声を揃えて「いただきます」と言って、いつもとは違う暖かい食事が始まった。


 早速肉にがっつく辰也。

 辰也と肉を奪い合うように、鬼神の如く箸を振るう正志さん。

 ちゃんと人数分に分けようと、流水の如く綺麗な箸捌きで辰也と正志さんを抑える久恵さん。

 戦り合っている三人をよそにパクパクと揚げ物を口に入れていく日並。


 俺と小百合はというと、その光景を唖然とした表情で眺めていた。


 賑やかな食事だ。

 賑やか過ぎると言ってもいいかもしれない。

 食事と言うよりもはや戦場だ。


 ともかく、俺と小百合にとってはそれは珍しい光景だった。

 困惑で、手に持った箸は一寸も動かなかった。

 俺と小百合は、お互いに目を合わせて丸くして、困ったように肩を竦めた。


 仕方がないので誰も手を付けていない煮っ転がしに箸を進めようとする。

 すると、正志さんが物凄い勢いで俺の茶碗に肉を置いてきた。

 それだけでは飽き足らず、煮っ転がしに揚げ物に野菜にとドンドン茶碗へ乗せていく。

 もはやどんぶり状態になった茶碗に困惑しながら正志さんは見やると、正志さんはニカッと皺を深めて笑った。


「遠慮すんな、いっぱい食え」


 気付けば、戦場のような食卓は反して和気藹々とした雰囲気になっていた。

 戦いは久恵さんが征したのだろうか。

 肉は均等に分けられている。

 小百合は日並と久恵さんと喋りながら、楽しそうにご飯を食べている。

 辰也は相変わらず他の肉にもがっついていたが、正志さんと久恵さんに止められていた。


 俺はなんだか言葉では表せないような、不思議な気持ちになりつつも、どんぶりと化した茶碗に乗せられた肉を口にした。


 俺の料理とも、小百合の料理とも違う、独特な味がする。

 ただのしゃぶしゃぶだと言うのに、とても味が染みていて、とても美味しくて、とても温かく感じる。

 

「……うまい」


 心の底から、そう思う。


 きっと、俺が同じように料理しても この味は、温かさは出せないだろう。

 この温かさは、単に温度の問題ではない。

 料理に込められた真心だ。

 そして大人数で食事をする温かさ。

 これらは、我が家……いや、伯父の家では決して再現できない。


 あぁ、両親との食事も、かつてはこんな感じだったのだろうか。

 こんなにも、温かいものだったのだろうか。

 当時の俺はきっと、真心だとか、賑やかに食事をする温かさなんかに気が付かなかった。

 だけどそれは、きっと今と同じように、とても温かいものだったのだろう。


 それを俺は、自分の手で奪ったのだ。



「お兄、ちょっと……いい?」


 夕飯を終えると、小百合は俺のシャツの裾を掴んで、喜びと悲しみが混じったような顔で俺を呼び止めた。


「どうした?」

「ちょっと、二人で話がしたい」

「わかった」


 俺は二階へ向かう日並と辰也にハンドサインを送り、小百合と共に一階にある縁側へと足を運んだ。


 薄暗い縁側から見える外の景色は、真っ黒だった。

 唯一見えるのは、空に浮かぶいくつかの星だけだ。

 縁側の柱には風鈴が吊るされており、時折風が吹いて綺麗な音が鳴った。

 だけど蛙の合唱が酷くて、あまり風情は感じなかった。


 小百合は縁側に腰掛け、プラプラと足を投げ出した。

 俺はそれを、後ろからぼーっと眺めていた。


「ご飯、美味しかったね」

「あぁ、うまかった。俺の料理よりも何倍に」

「……お兄のご飯も、美味しいけど」


 小百合は口を尖らせてそう言った。

 そうだろうか。

 自分でそう思ったことはなかった。


「だけど、あれは俺には出せない味だ」

「ん、そう……だね。ああ言うのが、おかあさんの味って言うのかな」


 小百合はそう言って振り返ると、微笑みながら俺を見た。

 暗闇に映る妹の目には、涙が溜まっているかのように見えた。


 そもそもの話、俺達兄妹は大人数での食事に慣れていない。

 両親を失ってからの日々は、基本的に妹と二人だけの静かな食事ばかりだったからだ。

 もちろん、お互いに友達と食事に行ったりはするが、それでも賑やかで、温かい食事は久しぶりだった。


 妹の涙の理由は、だからなのだろう。


「小百合、その……」


 小百合には、未だあの日、水族館に行こうと両親が言い出した理由が俺にあることを打ち明けていなかった。

 伝えるべきタイミングを、誤った。

 もしくは、臆病風に吹かれて、伝えないままでいた。


 今なのだろうか。

 伝えるべきなのは、今なのか。

 意を決して声を掛けようとすると、小百合はそれを遮った。


「お兄。私、知ってるの」


 ヒュ、と喉から音が鳴った。


「あの日、おとうさんとおかあさんが水族館に行こうって言った理由。私ね、知ってた」


 それを聞くと、全身から冷や汗が吹き出してきた。

 心臓も、バクバクと音が鳴って小百合に聞こえてしまいそうなほどだった。

 呼吸が乱れて定まらない。


 でもそうか。

 最初に昔の小説の話を出したのは小百合だった。

 それに両親と共に小百合にも見せていたんだ。

 そもそも知っていても、おかしくない。


「ちょっと前から、お兄の様子がおかしかったから、もしかしてと思って」

「小百合……」

「あのね、お兄。ちゃんと……言いたいことがあるの」


 俺は目を伏せた。

 小百合が口にするのは、罵声か、糾弾か、それとも罪の宣告か。

 目の前の少女は、両親を殺した人間を前にして、一体何を口にするのだろうか。


 恐ろしくもあったが、どんな言葉でも受け入れるつもりで、俺はゆっくりと深呼吸をして覚悟を決めた。

 けれどもそれは、すぐに打ち砕かれることとなった。


「お兄は、悪くないよ。お兄がしたことはただ、小説を書いて、おとうさんとおかあさんに見せてあげた。それだけなんだよ」


 妹の言葉は、赦しだった。

 そしてその言葉は、俺がいつか部長に言った言葉と、とても似通っていた。


「私だって、水族館に行けるって聞いた時、嬉しかった。お兄ちゃんが小説を書いて、おとうさんとおかあさんが見てくれて、家族の時間を作ってくれたのが、嬉しかった」


「だからね」と小百合は言って立ち上がった。


「もう、いいの。もう、自分を責めないで……。私、お兄のこと恨んだことなんかない。私、お兄にちゃんと幸せになって欲しい。もし私のことを気にかけてくれてるなら、私はもう、大丈夫だから」


「だから、もう、自分を責めないでよ……お兄」


 あぁ、そうか。

 そうなのか。

 小百合はもう、俺を赦してくれていたのか。

 いや、そもそも、俺のことを恨んでさえいなかったのか。


 俺を赦していないのは、多分、俺だけなんだ。


 小百合は、俺の服の裾を掴んで静かに泣いた。

 まるで俺の代わりに泣いてくれているかのように。

 俺はそれに、小百合の背に手を回して、撫でる形で答えた。


 だけど、まぁ、俺は場違いなことを思っていた。

 部長も俺に「悪くない」と言われた時、こんな気持ちだったのかなぁ、と。


 言っている側は心底からそう思ってくれてはいるのだろうけど、言われた側の本人は、中々納得しづらい。


『そう言ってくれると……嬉しいんだけどね。こればっかりはどうしようもない』


 部長はそう言っていた。

 『こればっかりはどうしようもない』。

 本当にその通りだ。


 多分、部長もあの時こんな感じだったんだろう、とそんなことを思った。


 でも部長はその後、なんやかんやで俺達に小説の書き方を教えるという形で応えてくれた。

 きっと彼女は過去を受け入れ、乗り越えたのだ。


 だけど、俺はどうだろう。

 小百合の言葉を、受け入れることができるのだろうか。

 自分を赦すことが、できるのだろうか。

 

 ……わからない。

 まだ、なにもわからないままだった。

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