第49話 嵐の前の穏やかさ

 帰宅後、夕飯を作って、いつものように二人で机を囲んだ。

 俺は早速小百合に旅行の件を聞いてみることにした。


「小百合、八月七日から十日って空いてるか?」

「うん、空いてるけど……どうしたの?」

「日並と辰也から旅行行かないかって言われたんだ。辰也のお婆さんの家らしいんだけど、一緒にどうだ?」

「いいの?」

「この家に一人で居させる訳にもいかないだろ」

「そうだけど……迷惑じゃ、ない?」


 迷ったように俯いた小百合に、もしかしたら、と思う。

 こういう引っ込み思案なところは、実は俺のせいだったりしないだろうか。


『だから家事を手伝おうとしたんだけど、お兄は「大丈夫」って言ってくれて』


 どうしよう心当たりしかない。


 いや、違う。

 いまはそんなことはどうでもいい。

 ひとまず小百合に迷惑なんかじゃない、と伝えるべく思考を払った。


「そんな訳ないだろ。日並は嬉しがってたよ」

「日並さんが……? ほんと?」

「あぁ、そんな心配するな」


 なるべく、優しく微笑みかけてやる。

 すると小百合は少し考える素振りを見せた後、嬉しそうに頷いてくれた。


「……うん、わかった。行く。行きたい」

「そうこないとな」


 こうして、夕飯はつつがなく終わった。

 スマホで日並に小百合も来るという旨を伝えると、彼女はサムズアップのスタンプを何度も送信してきた。

 相当嬉しかったようで、それを小百合に見せるとクスクスと笑った。



 旅行を三日前に控えた八月五日。

 今日は文芸部の活動日で、俺は部室で原稿用紙とにらめっこをしていた。


「部長、八月七日から十日って空いてます? ──君と小百合ちゃんと辰也と旅行に行くんですけども」

「うーん……その日だと私はダメだね~」

「そうですか……もうちょっと早く言えばよかったですね……残念です」

「まぁ、まぁ。私のことは気にせず楽しんでおいでよ。あ、お土産は欲しいな。安いのでいいから」


 なにやら日並と部長の会話が聞こえてくるが、俺はそれどころではなかった。


 夏休みに入って、一週間と少しが経過した。

 つまるところはもう既に、残りの夏休みは一ヶ月を切っているのだ。

 文化祭までは時間があるとは言え、部長の指定した締め切りは着実と迫っていた。

 しかし、俺の書き直しの小説の進みは芳しくなかった。


 原因は明白。

 風景描写である。


 俺の視界は元に戻り、世界を正常に認識しているはずではあるのだが、どうにも風景描写が上手く書けなかったのだ。


「まぁ、そんなに焦ることはないんじゃないかな」

「部長」


 部長はそう言いながら俺の肩に手を置いた。


「旅行で体験してからの方が書きやすいかもよ」

「ですが……」


 少し言い淀むと、日並は笑いながら声を掛けてきた。


「そうそう! 私なんて全然進んでないんだから!」

「ヒナちゃんはもうちょっと危機感持とうか」

「あっちょっ部長! いやーッ!」


 馬鹿みたいな宣言をした日並を、部長は青筋を立てながら無理矢理机に座らせてペンを握らせていた。

 多分去年もこんな感じだったんだろうな、と思うと自然と笑みが溢れた。


 もしこの書き直しの小説が間に合わなかったとすると、最悪あの淀んだ夏を書いた小説を部誌に載せることになる。

 それでもいいっちゃいいのだが、せっかくちゃんと世界に色が戻ったのだから、この視点から見える夏を書いてみたかった。

 まぁ少し、焦っていたのかもしれない。

 俺は筆を置き、部長と日並との雑談に興じた。


 結局執筆は進まないまま、その日の部活は終わってしまった。

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