第44話 涙の後には波乱万丈


「水族館に行こうか、──」


 それは、夏休みに入ってから二週間ほど経った日のことだった。

 父は俺の名を呼んで、その大きな手を頭に乗せながら髪をわしゃわしゃとしてきた。


 発端はなんだったのか、今となっては覚えていないが、ともかく父の提案で水族館に行くことになったのだ。

 子供ながらに、それを聞いてはしゃいだのを覚えている。

 それは確か、元より両親は多忙な人だったからだ。

 こういう家族でのお出掛けは、珍しいことだった。


 母親と小百合は手を繋ぎながらニコニコとした笑みを浮かべていて、父も俺も、皆浮足立っているようだった。


 車に乗って、俺と小百合は後部座席に。

 父は当たり前だが運転席、母は助手席に座って、俺達家族は水族館へと向かった。


 久しぶりの家族でのお出掛けということもあり、県外の大きな水族館に行こうとしていた。


 それが原因なのか、父の不注意が原因だったのか、それとも別の要因なのか。

 真相はわからないが、その道中、結果として大型トラックとの衝突事故を起こした。

 両親は即死だったと聞いている。


 だが俺と小百合は、奇跡的に助かった。

 残されてしまった、とも言っていい。

 どちらにせよ、俺達は両親のいない世界で生きることを強いられたのだ。


 両親の親、つまり祖父母は既に他界しており、身寄りのない俺達は半ば周りに押し付けられるような形で伯父に引き取られた。

 だけどまぁその伯父が無責任な人で、俺達を自分の家に住まわせると自分は家に帰らなくなってしまった。

 今思えばネグレクトもいいとこだ。


 二人ぼっちにされた俺達兄妹はとても困った。

 これからの生活、溜まりに溜まった書類、そして葬式。

 どうすればいいのかサッパリわからない。


 妹はたまらず泣いた。

 何日も泣き続けた。

 もう、声が枯れるくらいには。


 俺も一緒に泣きたかった。

 だけど、泣いたってなにも解決しないことだけは当時の俺もわかっていた。

 小百合よりも生まれたのが三年早いだけの子供ではあったが、それでも小百合は妹で、俺は兄だった。

 つまるところ俺は、兄として妹を守るために、心を殺した。


 友達の遊びの誘いを断り、死に物狂いで家事を覚えた。

 来る日も来る日も料理を失敗して、洗濯物をダメにして、アイロン掛けで服を焦がして。

 中学一年生くらいになる頃には今みたいに家事ができるようになってはいた。


 しかし、それから中学になるまでの記憶はあまりない。

 どうやって子供の俺が入学手続きをしたかなんて覚えていないし、葬式がどうなったかだって曖昧だ。

 まぁ、多分俺は頑張ったんだろう。

 家に帰らぬ伯父を見つけて書類を書かせたり、市役所に言って手続きを教えて貰ったり。

 思いつきそうなのはこのくらいか。

 過去の自分を褒めたいものだ。


 だが結果として残ったのは、馬鹿みたいな時間間隔と色褪せた風景。

 そして両親に関する記憶をすっぽりと消してしまった哀れな子供だった。



「ねぇ、大丈夫かい?」


 また、声が聞こえた。

 もう声なんか聞きたくないよ、と思ってしまった。


 目を開くと、部長が席を立って心配そうな表情で俺の顔を覗いていた。

 声は部長のものだったのだ。

 それが確認できると、なぜか安心した。


「私が言うのも……おかしいかもしれない。ほんとは、ヒナちゃんとかが言ってあげるべきなのかもしれない。こんなこと言うのも、私には資格がないのかもしれない」


「でもね」と言って部長は、その小さい身体で俺を抱き寄せた。


「辛いことが、沢山あったんだね」

「大変だったんだね」

「ごめんね。君の頑張りを、君の過去を。淀んでいるなんて言ってしまって」


 部長の声は、涙声だった。

 それを聞いて俺の目からは何かがツゥ、と落ちた。

 温かい水滴が一粒、左目から伝っていた。


「あぁ、泣いてんのか。俺は」


 思えば、最後に泣いたのはいつだっただろうか。

 とめどなく溢れる涙に、親しみさえ覚える。

 昔の記憶がどんどんと溢れ、それと同じくらいに涙が流れる。


 俺はしばらく、声を殺して泣き続けた。


「落ち着いた?」

「すいません。制服汚しちゃいました」

「いいよ、シャツだから洗えばいいし」


 俺と部長は抱き合ったまま、顔を合わせずに話をした。

 多分、お互いに顔を見られるのが恥ずかしかったのだろう。


「本当に、ごめんね?」

「何がですか」

「だから、淀んでるって」

「気にしないでください」

「でも」

「事実なんですから」


 そうだ。

 俺にいくら悲しい過去があったとしても、だからと言って事実が変わるわけではなかった。

 心に余裕がなかったとは言え、俺が寂しく色褪せた、淀んだような生活をしていたのには変わりない。

 部長にはすべてを話してしまったが、それでも、気にしないで欲しかった。


「ね」

「はい」

「……君は、本当に新しく小説を書いてしまうのかい?」


 どうしてだろうか。

 部長は唐突にそんなことを言った。


「だって君は……あっヤバイ」


 部長は何かを言いかけると、急に声を荒げて俺の身体を無理矢理剥がそうとしてきた。


「ヤバイって! 今すぐ離れて!」

「え?」


 俺が首をかしげると、俺の背後で部室の扉が開く音と、何かがドサッと落ちるけたたましい音がした。

 あっ確かにまずい。

 誰か部室に入って来てしまったのだろうか。

 部長の身体を離して振り向くと、そこにはこの世の全てに絶望したような顔をした日並が荷物を落として突っ立っていた。

 本当にヤバかった。


「ちょっ……と待て。これにはわけが」


 俺は現状を説明しようとしたが、日並は魚のように口をパクパクとさせているだけだった。

 まずい、これはそもそも声が聞こえているかも怪しい。

 どうしよう、と思っていると日並は「え。先越された?」と訳の分からないセリフを呟いていた。


「ヒナちゃん。落ち着いて聞いて欲しい。いいかい? その場を離れずにゆっくりと聞くんだ」


 部長はまるで映画のセリフじみた言葉を投げかけていた。

 俺からゆっくりと離れ、忍び歩きで日並に近づこうとしたが、対して日並は「うおああああああああ!」と女子高校生らしからぬ雄叫びを上げながらどこかへと走り去ってしまった。


「まずい! ほら君! 追いかけて!」

「え!? あー、後で説得手伝ってくださいね!?」

「手伝うから早く!」


 部長が俺の背中をグイグイと押してきたので、その力を利用して勢いをつけながら日並の後を追った。

 廊下を走り抜けながらも途中、ふと部長の方を振り向くと彼女はなんとも言えない苦笑いを浮かべながら、俺にサムズアップを向けてくれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る