Goodbyeは旅立ち

増田朋美

Goodbyeは旅立ち

暑い日であった。なんだかそんな日ばかり続いていると、憂鬱になったり、体調を崩したりする人が現れるものであるが、水穂さんも例外ではなく、その日もご飯を食べないで咳き込んでしまう日々が続いていた。杉ちゃんも他の人も、どうしてご飯を食べないのだろうかと不思議がっていたのであるが、由紀子だけが、一生懸命水穂さんにご飯を食べさせようと、あれこれ世話を焼いていた。

その日、ガミさんと呼ばれている野上あずささんが、製鉄所を訪ねてきた。しかも一人ではなく、欧米系と思われる女性を連れていた。

「ガミさん、この女の人だれだ?」

あずささんが紹介しようとする前に、杉ちゃんがすぐ言ってしまう。

「ご紹介するわ。あたしが所属している、就労支援事務所の利用者さんなんだけど、名前はえーと。」

「セーラと申します。」

あずささんが彼女にそう言うと、女性はちょっとおぼつかない日本語で言った。

「お前さんは、どっから来た?いつ頃から日本に?」

杉ちゃんが聞くと、

「はい、キーウから参りました。」

とセーラさんは答えた。

「そうか。そうなると、只今戦争真っ盛りのところだな。」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、彼女ははいそうですと答えた。

「あんまり、そのことに対しては、言わないであげてください。こっちにいる間は、戦争やってることを、思い出してもらいたくないのですから。」

あずささんは、そういった。

「それはわかるけど、だったらどうしてここに来た?まさか利用させてもらおうと思ったのか?」

杉ちゃんが聞くと、

「利用というか、彼女をここで働かせてもらえないかしら?ほら、いつも女中さん募集をかけても、大体の人はやめてしまうって言ったでしょ?彼女なら、長く働いてくれると思うのよ。特に、不平不満を言うような子でも無いし、心配なことも何もしないし、ちゃんと介護のことも、知ってるから。」

と、あずささんは、にこやかに笑っていった。

「ということは、キーウでも同じことをやってたのか?」

杉ちゃんはそう聞いた。

「それは違うんだけどね。あたしたちの事業所を通して、こっちで生活させてあげてるんだけど、何でも勤めていた作業所が合わないって言うのかな。それでやめちゃったのよ。それで彼女から相談を受けて、ここで働いたらどうかって思ったのよ。いつも人手不足で困ってるって、理事長さんにも聞いたから。」

あずささんは、杉ちゃんの話にそういった。

「そうか。じゃあそうだねえ。まあ、女中奉公みたいな形になってしまうが、それで良ければやってもらうか。掃除とか、簡単なことでいいから。ここで働いてもらおう。じゃあ、早速だが、まずは竹箒で庭を掃いてみてくれ。よろしく頼むよ。」

と、杉ちゃんに言われて、あずささんから竹箒を渡されたセーラさんは、どうやって使ったらわからないという顔をした。杉ちゃんが、竹箒を持って、

「こうやって使うだよ。」

ち手本を見せると、見様見真似でセーラさんは、庭を掃き始めた。確かに手際は良くないけれど、一生懸命庭を掃く仕草をしている。多分、竹箒で庭を掃くという作業は、初めての体験なのだろうが、彼女は一生懸命やっていた。

「初めての体験か。一生懸命やってくれてありがとうね。」

杉ちゃんが、彼女を褒めるほど、彼女はよく働いた。杉ちゃんに次は縁側の床を雑巾で拭いてくれといわれると、それも一生懸命やってくれた。

それを眺めていた由紀子は、また製鉄所に困った人物がやってきたと、困った顔をしていた。確かに、この海外から来てくれた女性は、よく働いてくれそうな女性ではあるが、どうしても気に入って、はいよろしくということはできなかった。もっとなんというか、なにかちがうというか、なんというか。こういう女性に対し、由紀子は歓迎したい気になれない。他の人は、新しく来てくれた女中さんを大歓迎してくれるようだけど、私にはできない。何でかな、由紀子は考えるのが辛かった。

その日も由紀子は、製鉄所へ言った。その日は駅員としての仕事は休みだったので、製鉄所へ行くことができたのであった。製鉄所と言っても、鉄を作る施設ではない。訳アリの女性たちが、勉強や仕事をするための、部屋を貸し出している施設である。その時の利用者は、3名で、3名とも、通信制の高校や大学へ通っている女性たちであった。その女性たちの話し相手になるのも、女中さんの仕事であるが、セーラさんは、彼女たちの話を聞くのも上手だった。通所で利用しているのは3名であるが、水穂さんのように間借りという形で利用することも可能である。

由紀子が、こんにちはと言って、製鉄所の入口の引き戸を開けたところ、水穂さんが咳き込んでいる声がしたので、製鉄所の建物内に飛び込み、急いで、四畳半に行った。布団の中で、水穂さんが、咳き込んでいるのが見えて、その近くにいたセーラさんは、床を雑巾で拭いていた。由紀子は思わず、

「何やってるの!」

と言ってしまった。

「何って、床掃除ですけど?」

セーラさんは素朴な疑問のように言うが、

「どうして水穂さんがつらそうにしているのに、放置して置けるの!」

と思わず由紀子は声を荒げてしまった。

「だ、だって、三時に来客があるから、それまでに床掃除をしておくようにと言われて。」

セーラさんはそう言うが、

「それよりも、水穂さんのことをなんとかしてあげるほうが先でしょうが!早く薬持ってきてよ。あと、口元を拭き取るちり紙も!」

と、由紀子は急いでいった。セーラさんは、どうしたらよいのかわからない顔をした。

「薬ってどれですか?」

セーラさんはわからない顔でそう言ってみる。

「聞いてないの?」

由紀子がいうと、

「はい。知りません。何も聞いてないのです。」

とセーラさんはそう答えた。

「あなた、この仕事を任されたのなら、誰かに聞くとか、そういうことはしなかったの?」

由紀子は思わずいう。

「だって誰かがそうしろと言ったわけでも無いですし。」

「日本では、聞くのが当たり前なのよ。あんたは、指示されなければただの箱?」

由紀子はそう言ってしまった。

「ごめんなさい。でも、水穂さんは、そんなに大した病気では無いって、他の人が言ってたから、大丈夫なのかなと思ったんです。」

セーラさんがそう言うと、水穂さんが更に咳き込む声がした。それと同時に口元から、朱肉のような色をした液体が漏れてきた。由紀子はびっくりしているセーラさんを無視して、水穂さんの口元へ水のみを持っていって中身を飲ませた。これによってやっと水穂さんは咳き込むのをやめてくれた。でも、口元から出た液体のせいで、布団も枕も真っ赤に汚れてしまった。由紀子は、布団をはがして、新しい布団に変えることにした。セーラさんが、由紀子に手伝いましょうかといったのであるが、由紀子は彼女をぎろっと睨みつけただけで、手伝いをさせなかった。結局由紀子は、腰が痛くなっても、水穂さんに新しい布団を出してやり、新しい枕を出す作業も、一人でこなしたのだった。

その日から、由紀子による、セーラさんへの嫌がらせが始まった。由紀子は、わざとセーラさんのバケツをこぼしたり、竹箒を放り投げたりした。いくら杉ちゃんが、やめろと言ってもきかなかった。しまいには、セーラさんが水穂さんにご飯を食べさせようとすると、そこへこっそり醤油を大量にいれるなどの嫌がらせを繰り返した。それでもセーラさんが、一生懸命仕事を続けるのが、なんだか可哀想な気がしてしまうくらいだった。

そんなある日。

製鉄所に、広上麟太郎が訪ねてきた。とりあえず、セーラさんは来客である麟太郎に、お茶を渡した。まだ床掃除が終わっていないので、セーラさんは、その場に残って、床掃除をした。麟太郎の相手は、水穂さんがした。ちなみに麟太郎は、水穂さんが音大へ通っていたときの同級生でもあった。

「みんないなくなったよ。俺、寂しくてたまらんな。」

麟太郎は、大きなため息をついた。

「何が寂しいんですか?」

水穂さんが布団に座ってそう言うと、

「いやあ、そのね。キーウのオーケストラのタクトを振る事になったんだが、なんだかオーケストラのメンバーも年寄りと女ばかりになってしまって、若い男はほとんどいなくなってしまってね。最近は兵力不足なのかな。中年の男まで召集令状が来るんだって。有力なメンバーがどんどんいなくなる。」

と、麟太郎は大きなため息をついた。

「そうですか。じゃあ、僕が知っているメンバーで例えば、バイオリンのサムさんも?」

水穂さんがそう麟太郎の話に聞くと、

「そうだよ。俺もそれを聞いたときには驚いたね。流石に彼くらいの年齢では、取られないと思っていたので。だってあいつは、次期59じゃないか。まさかと思ったけど、勢太いのはどんどんどんどん兵隊に取ってくよなあ。」

と麟太郎は言った。

「そうですか。皆さん今でも戦場に?」

水穂さんがそう言うと、

「そういうことだ。みんな無事に帰ってくれればいいけれど、そういう保証は無いんだよね。戦争は。中には二度と帰ってこれないやつもいるんだよ。リーバスも、ノアも。」

と麟太郎はでかい声で言った。確かに、辛い話なのであるが、それが現実でもあった。そういう話が当たり前になってしまう世の中なんて、正直おかしいと思わなければならないけれど、そう思えないこともある。

「ノア?」

と水穂さんが言った。

「あの、ビオリストの、ノアさんですか?」

「ああ、先月戦死公報が来た。まず初めに、リーバスが逝って、その次にノアも逝ってしまった。他にもいるよ。二度と帰ってこれない奴らは。俺だけじゃなく残された、リーバスやノアの家族が可愛そうでね。どうやって慰めてやったらいいもんだか。俺、わからないんだよ。お父さんやお兄さんが死んで、それで悲しいって言われてもさ。まさか病んで死んだのとは偉い違いだからな。」

麟太郎が、そう言うと、セーラさんの手から、竹箒が落ちた。

「ビオリストのノアって、私の父親の、、、?」

麟太郎も、水穂さんも意外そうにセーラさんを見た。

「そういえば、ノアのやつ、娘が日本に行ったと言ったことが、、、。」

麟太郎がそう言うとセーラさんは、ワッと涙をこぼして泣き出してしまった。

「戻ってきてくれるのが、何よりも楽しみだったのに、、、。」

「そうだったんですね。」

水穂さんは、そうセーラさんに言った。

「ノアさんのお嬢さんだったんですか。それでこちらに来られたのなら納得しました。以前、彼にお会いしたとき、ノアさんは、娘には幸せになってほしいって、言ってたことがありましたから。確かに、お父さんを亡くされたことはお辛いと思います。でも、きっと泣いているあなたのことは、見たくないのでは無いかなと思います。」

「そうか。俺も、簡単に喋って悪かったな。俺、もうちょっと口が軽いのを直さなくちゃ。すぐに誰かに喋りたくなるくせに忘れ物が多くて、俺は、コンダクターとして、だめな男だよな。」

麟太郎は、そう言って大きなため息をついた。

「あたし、これからどうしたら。」

セーラさんはそう泣きじゃくった。

「あたしは、幼い頃に母が離婚して家を出てって、それ以来ずっと父と二人暮らしでしたから、、、。」

「ノアもそう言ってたよ。娘思いで、良い父親だった。俺、娘に甘いのかなって思ったけど、こういうことが起きてしまうと、それもできないんだなってことになるんだよな、、、。」

麟太郎がそういうのも確かだった。

「今は、そっとしておいてあげたほうがいいのではないですか?」

水穂さんが麟太郎に静かに言った。

「セーラさんは、今、お父さんが亡くなられて、つらい思いをしているんです。もしかしたら、ヨーロッパではあれやこれやと手を出すことが当たり前なのかもしれないですけど、日本ではそうではありません。そっとしておいてあげて、彼女が泣き止むのを待ってあげることです。でも、彼女を一人きりにさせてはいけない。そっとそばにいてやることこそ、彼女を慰めることになると思うんです。」

「そうか。お前は天才だ。」

麟太郎は、すぐに言った。

「水穂、お前は天才だよ。そうやって人を慰めて、優しく接してやれる男はそうはいないよ。俺は、そんなことできないもん。だからなあ、お前をできるだけ長くこっちにいさせてやりたいと思う俺の気持ちも、わかってくれよな。そういうわけだからさ、ご飯を食べようって気持ちになってくれ。」

これを、ふすまを隔てて立ち聞きしていた由紀子は、セーラさんが、ノアさんと呼ばれるビオリストの娘さんであって、そのノアさんが、戦争で死亡したことを悟った。そして、彼女が涙をこぼして泣いている声も聞いて、なんだか、別の気持ちが自分の中で湧いてきたことに気がついた。

その日の夕方だった。麟太郎が水穂さんにぐちをこぼして、帰って行くのを見届けた水穂さんが、また咳き込み始めた。ちょうど帰り支度をしていた由紀子はすぐに四畳半に戻って、水穂さん大丈夫と声をかけたが、水穂さんは、咳き込むので精一杯で返事ができなかった。由紀子は、薬を飲ませようとしたが、水穂さんは水のみを受け取ることができなかった。吸い飲みは畳に落ちて割れた。

「お医者さんへ連れていきましょう。」

由紀子はすぐに言った。

「ああ。ムリムリ。どうせ、銘仙のきもの着てるからって言って追い出されるのが落ち!」

杉ちゃんが水穂さんの「現状」を言ったのであるが、

「でも、お医者さんに診てもらうしか、無いじゃない!」

と由紀子は言った。

「無理なものは、無理だよ。だって、同和問題はそういうことだよ。それは逆に、水穂さんの寿命を縮めることにもなるんだよ。だから、無理なものは無理だ!」

杉ちゃんに言われるが、由紀子はそれを無視して、水穂さんを背中に背負った。それと同時に、セーラさんが由紀子の前に現れて、

「あたしも、水穂さんを連れていきます!」

と言った。

「やっぱり、一人ではなく二人で行ったほうが良いと思います!」

そう言って彼女は、出かける支度を始めてしまった。由紀子もなにか決断したようで、靴を履いて製鉄所を飛び出していった。セーラさんは、由紀子のあとを追いかけていった。二人は、もう暗くなった道を走りに走って、水穂さんがいつもお世話になっている医師の柳沢先生のところへ走っていった。

「もう水穂さん、帰ってこないんだろうか?」

杉ちゃんがそう言うと、麟太郎も、

「本当にそうなのだろうか?」

とお互い顔を合わせてしまう。しいんとした長い時間がたった。杉ちゃんも、麟太郎も何も言うことができなかった。ふたりとも最悪の事態を想像してしまって、それを言い出すことはできないでいた。

そして、周りの風景がすっかり暗くなって、もう夜になってしまったとき。

製鉄所の引き戸がギイっと開いた。

「水穂さんは?」

と杉ちゃんがいうと、

「大丈夫です。眠ってるから。」

と、由紀子が言った。

「そうか。じゃあ、無事だったわけだね。」

麟太郎がいうと、

「ええ、今回は。でも、長い事、ご飯を食べていないせいで、水穂さんかなり弱っているとは聞かされました。どうして、こんなに、ご飯を食べてくれないんだろう、不思議だって言われました。私は、それが銘仙の着物を着ているせいだとは、怖くて口に出すことができませんでした。」

由紀子は、そう言って涙をこぼした。

「そうだよな。それを言ったら、治療もろくにしてもらえなくなるからな。まあ良かったじゃない。とにかく布団に寝かせようよ。背負ったままでは、仕方ないでしょ。」

杉ちゃんに言われて由紀子はハイと言って、水穂さんを静かに布団に寝かせて、掛ふとんをかけてやった。それをセーラさんは、自分も涙をこらえて眺めていた。

その翌日。セーラさんは、いつもどおりに製鉄所に出勤してきたが、なにか重大なことを決断したようであった。杉ちゃんと、昨日の発作から開放された水穂さんに向かって、こう切り出した。

「短い間でしたけど、ここで働かせてくださってありがとうございました。あたしはもう唯一の肉親である父もいなくなってしまいましたけれど、ここで水穂さんの世話をさせていただいたおかげで、本当にやりたいことが決まった気がします。」

「はあ、それは、何かなあ?」

杉ちゃんがいうと、

「もう一度、専門学校とか、そういうところに言って、病気の人を世話する方法とか、学び直してみます。キーウとここではちょっとやり方違うかもしれないですけど、それがあたしができる、世の中に参加する方法なんじゃないかなって思うんですね。」

と、彼女は言った。

「つまり、介護を学び直すというわけね。」

杉ちゃんがそう彼女の言葉を翻訳すると、彼女はとてもうれしそうな顔をした。

「ええ。それだけじゃありません。由紀子さんが昨日お話してくれた、日本にはまだ満足に生活できない人がいるってことも、もう少し調べて、それに対する対処ができる、病人の世話をする人になりたいです。」

「はあ、はああ。そういうことね。だけど、それをして何になるんかな?そういう生き方はかっこいいかもしれないが、実際は、辛いことの連続だよ。それでも良いのか?だって父ちゃんがなくなって、すごい泣き方をしたそうじゃないか。」

杉ちゃんは心配そうに言ったが、水穂さんが優しく、

「いや、そういうことなら、そうさせてあげましょう。」

といったので、それ以上言わなかった。代わりに、

「そうか。そういうことなら、お前さんの心が納得するまで、徹底的にやるんだな。お前さん、チットやソットでは納得しないと思うけど、まあ、頑張ってやれや。」

と、言ってあげた。

「それで、そのためにですが、この製鉄所のお仕事は終わりにしてもいいですか?」

セーラさんが申し訳無さそうにそう言うと、

「まあ、そうなるんだったらしょうがないねえ。」

「彼女の門出のためですからね。」

杉ちゃんと水穂さんは、そう言い合って、

「じゃあ、一つだけ、条件がある。お前さんが幸せになることだ。それさえ守ってくれれば、終わりにしてもいいぜ。」

と、言ったのであった。

「ありがとうございます。あたし、ここでのことは絶対に忘れません。本当にありがとうございました。」

丁寧に座礼するセーラさんに、

「goodbyeは出発ですね。」

と水穂さんは言った。

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