ジェーンは田舎で暮らす

入江 涼子

第1話

   あたしの住む所はど田舎もいい所だ。


  あたしが住むのはヴェルナード公国の東の端にあるウィンターという小さな村だった。父ちゃんと母ちゃん、弟が二人の五人家族だ。


「……おい。ジェーン。また、下のチビ達がケンカしているな」


「本当ね。ちょっと叱らないとダメだわ」


  父ちゃんがいうのであたしはチビ達--弟のアレクセイとイアルを叱りに行く。


「……こらっ。アレク。イアル。ケンカしないの!!」


「……イアルが先に僕のオモチャを取ったんだ!」


「ふん。兄ちゃんだってこの間、俺のおやつを横取りしたじゃねえか。仕返しだ!」


  そう言って二人はまた取っ組み合いのケンカを再開した。あたしはプチンとキレてアレクセイとイアルの間に割り込んだ。


「……いい加減になさい。やめろと言ったのが聞こえないのかー!!」


  大声で叱ると二人はピタッとケンカするのをやめた。驚いた顔であたしを見つめている。


「……ね、姉ちゃん?」


「え。さっきの……」


「……二人とも。父ちゃんが怒っているの。ちょっとこっちに来なさい」


  にっこりと笑って手招きをした。アレクセイとイアルは怯えているのか動こうとしない。あたしはちょっとイラッときて二人の手首を掴んだ。


「うわあ。悪かったって。父ちゃんの雷は勘弁してくれよ!」


「そ、そうだよ。姉ちゃん。俺が悪かったって!」


「もう言ったって遅いわよ。父ちゃん!」


  あたしが父ちゃんを呼ぶとのっそりと本人がやってきた。あ、これは本気で怒っているな。体から滲み出る怒気でわかった。チビ達には悪いけど。そう思いながらそっとその場を離れたのだった。


  「……ジェーン。チビ達は父ちゃんにこっ酷く叱られているようだねえ」


「うん。たくっ。アレクはさるお方から預かっている子なのに。全然、イアルはわかってないわ」


「それは仕方ないよ。アレクがいくらシンフォード公爵様の甥っ子であっても口外はできない。イアルには教えるのがまだ早いしね」


  母ちゃんはそう言ってまた繕い物を再開する。そう、弟のアレクセイは今の皇太子殿下--サミュエル様だったか。あの方のお妃様のメアリアン様の甥っ子なのだ。話せばややこしくなる。簡単に言うと今のシンフォード公爵様--エドワード様の弟君であるお方の息子だった。アレクセイは幼い頃にある貴族に命を狙われていたらしい。母君は彼を庇って亡くなり命からがら逃げ出した騎士の手により我が家にやってきた。弟君--父君からも「その貴族を突き止めて捕えるまでは面倒を見てやってほしい」と頼まれた。それで平民の子と偽り育てていたのだった。


  あたしは夜になり母ちゃんと二人で夕飯の準備をする。こっ酷く叱られたイアルとアレクセイはちょっと拗ねているのか部屋の隅でぶすっとして項垂れていた。


「アレク、イアル。もう夕飯ができるからこっち来なさい」


「……わかった」


  先に返事をしたのはアレクセイだ。表情は変わらないがお腹は減ったらしい。イアルも黙ってこちらへやってくる。今日は野菜のスープと黒パンだった。ご近所さんからもらった卵で作った小さなオムレツもあった。これはアレクセイの好物だ。机の上にスープや黒パンのお皿を並べていく。オムレツもだ。父ちゃんと母ちゃん、あたしにチビ達と椅子に座るとこの国の神に祈りを捧げた。そうしてから食事を始める。皆、お喋りもせずに静かだ。あたしは固い黒パンをスープに浸して食べた。オムレツも食べてみる。質素ではあるが十分に美味しい。そういえば、あたしは今年で十七歳だけど。アレクセイは十三歳でイアルが十一歳だった。


(……アレクもちょっとは落ち着いてくれないかしら。イアルはいいとして)


  あたしはそっとため息をついた。アレクセイはモグモグとスープに浸した黒パンを頬張っていたのだった。


  あれから半月が過ぎた。あたしは母ちゃんと一緒に家の裏にある畑で野菜の収穫をしていた。アレクセイとイアルは父ちゃんと一緒に山へ行っている。薪の補充と薬草などを採りに行っていた。野菜の内、ナスをカゴに入れていたらガラガラという馬車特有の車輪の音が聞こえる。それはこちらに近づいてきた。あたしと母ちゃんのいる畑の近くに馬車が一輌ぴたっと停まった。馬がひひんと鳴く。馬車の扉が開いて中から仕立てのいいジャケットにタイ、スラックスというらしい物を履いた上品な男性が出てきた。男性は茶色い髪を後ろに撫でつけている。琥珀の瞳が印象的だ。


「……ちょっとすまないが。尋ねたいことがある」


  声も低いけどいい感じだった。あたしはぽかんとしていたけど。すぐにこの男性がアレクセイにどことなく似ているのに気がついた。もしや、彼に関係する人物だろうか。


「……はい。何でございましょうか?」


  そう言ってあたしの前に進み出て代わりに応対してくれたのは母ちゃんだ。男性はちょっと眉をしかめて母ちゃんを見る。二人はしばし睨み合っていた。先に話しかけたのは男性だった。


「あなたは。アレクセイを知っているか?」


「いいえ。存じません」


  にべもなく母ちゃんは答える。男性は余計に眉をしかめた。あたしはどうしたものやらと思っていた。


「……父ちゃん。あの人。誰?!」


  後ろから幼い男の子特有の高い声が聞こえた。振り返ってみたらそこには弟のイアルが驚いた顔で立っている。横にはアレクセイの姿もあった。


「イアル。それにアレクまで……」


「ふうむ。あの子がアレクセイか」


  男性はそう言うと大股に歩いてアレクセイに近づいた。あたしはどうしたものかと慌てる。男性は父ちゃんを通り過ぎてアレクセイの前に立った。


「……確かに俺に似ている。君、俺と一緒に来ないか?」


「……え。おじさん。誰なんだよ?」


「おじさんか。俺はジェレミー・シンフォード。君の実の父親だ」


  男性もといジェレミーさんはそう自己紹介をした。けどアレクセイはジェレミーさんを睨みつける。


「……実の父親だって言われても。僕には父ちゃんは一人だけだ!」


「そうか。なら、無理にでも連れて行くしかないな。時間が惜しい」


  ジェレミーさんは低い声で言うといきなりアレクセイの腕を掴んだ。強い力でされたからかアレクセイの顔が痛そうに歪む。


「と、父ちゃん。くそっ。離せ、離せよ!!」


  アレクセイが暴れてもジェレミーさんは揺るがない。むしろ、腕を掴む力を強めたらしい。アレクセイは無理矢理に馬車へ引きずられていく。御者役の人が扉を開けて待ち構えていた。ジェレミーさんは無言でアレクセイの体を荷物のように肩に担ぎ上げる。


「……ジェーン姉ちゃん!!」


「アレク!!」


  あたしは無我夢中でアレクセイに駆け寄ろうとした。けど母ちゃんに羽交い締めにされる。


「……母ちゃん?!」


「……ジェーン。今はジェレミー様を怒らせないほうがいい。アレクセイは来るべき時が来たんだよ」


「だけど」


「ジェーン。行かせるしかない。本当はもっと早くてもおかしくなかったんだ」


「……アレクセイ。ごめんね!!」


  いつの間にかあたしは泣いていた。涙が流れるがその間にもアレクセイは馬車に乗せられている。扉が閉められて馬車はそのまま走り出した。あたしは母ちゃんの腕の力が緩んだ隙を狙って振りほどいた。走って馬車を追いかける。


「……アレクセイー!!」


  大声で叫びながらも必死に走った。それでも馬車は止まらない。足がもつれてものの見事に転んでしまった。あたしは爪でガリッと土を抉った。嗚咽が洩れる。胸中で怯えた表情のアレクセイが浮かび上がる。何故、助けてやれなかったのか。あたしは泣きながら小さくなっていく馬車に手を伸ばしたのだった。


  あれからあたしは食事が喉を通らなくなった。アレクセイがいなくなった事で父ちゃんや母ちゃん、イアルもどこか元気がない。それでも十日も経つと意気消沈してもいられなくなる。何としてでもあの子の事は考えないようにしないといけない。無理に家事や畑仕事に精を出した。忙しくしていれば、何も考えなくて済む。そう思いながらガムシャラに働いたのだった。


「……ジェーン。あんた、目の下のクマがひどいよ」


  ある日、母ちゃんがぽつりと呟いた。あたしはイモの皮を剥いている途中だったけど。動揺してイモを落としてしまう。


「え。それ、本当なの?」


「ああ。最近、あんたは何かに取り憑かれたように働いているじゃないか。夜もあんまり眠れていないんじゃって心配だったんだよ」


「……そうかもね。アレクセイがいなくなってから特にそうなってるわね」


「ジェーン。アレクセイの事、忘れてはいないんだね」


「うん。だってあの子の事をあたしまでが忘れてしまったら悪いと思って」


  そう言うと母ちゃんはため息をついた。以前よりもやつれているのがわかる。


「……そうかい。わかったよ。これ以上は何も言わないでおこうかね」


「……ごめんなさい」


「謝ることはないよ。さ、夕飯を早く作らないと父ちゃんもイアルもお腹を空かせているだろうし。手を動かしておくれ」


  あたしは頷くとイモの皮剥きを再開したのだった。


  一年、二年と時間は過ぎていく。気がついたらアレクセイが公爵家に戻ってから三年が経っていた。あたしは二十歳になっていたが。相変わらず、両親と弟のイアルの四人で暮らしていた。イアルは手先が器用で今では紐細工を副業にしていた。作った髪紐や飾り紐を近くの町に卸しに行き、それで得た収入を生活費に入れてくれている。あたしも畑で採れた野菜を売って両親を助けていた。


「……イアル。今日もお疲れ様。あんたの作る紐細工、けっこう人気があるんだって聞いたよ」


「ああ。姉ちゃんもお疲れ様。俺の紐細工、公都でも売れてるって卸問屋さんが教えてくれたよ。おかげで父ちゃんと母ちゃん、姉ちゃんを養える」


「イアル。あたしの事まで考えてくれるのは嬉しいけど。彼女の一人でもいないの?」


  唐突に訊いたらイアルは顔を赤くする。あれ?と思う。どうやら好きな子はいるみたいだ。


「……そっか。好きな子はいるのね。姉ちゃん、寂しくなるなあ」


「……な。それを言うんだったら姉ちゃんはどうなんだよ。嫁き遅れ(いきおくれ)も良い年だろう」


  あたしは図星を指されて答えに困った。なかなか、言うようになったじゃないの。


「そ、そうね。あたしもお嫁に行ってもいいんだけど。父ちゃんと母ちゃんが心配でそれどころじゃなかったわ」


「ふうん。姉ちゃんもこの村に好きな奴はいないのかよ」


「……正直言っていないわね。アレクセイみたいにカッコいい人がいればいいんだけど」


  つい、うっかり言ってしまった。アレクセイの名前が出た途端にイアルの表情が怖いものに変わってしまう。冷たく睨み据えられた。


「……あんな裏切り者の名前を出さないでくれ。姉ちゃん、あいつの事。もしかして好きなのか?」


「え。そんな事あるわけないわ。アレクセイは今でもあたしの弟よ」


「へえ。血の繋がりもないのに?」


「……いきなりどうしたの。いつものイアルじゃないみたいよ」


「姉ちゃん。アレクセイだけはやめとけ。もしあいつを好きになったら姉ちゃんが不幸になる」


「……イアル?」


  訝しげに訊いたけど。それ以上、イアルは何も答えずに外へ出て行ってしまう。パタンとドアの閉まる音がやけに響いた。あたしは冷たくなった体を自分で抱きしめたのだった。


  そうしてさらに年月は流れて五年が過ぎていた。あたしはもう二十二歳でこのまま、生涯を未婚のままで過ごそうかと考えていた。弟のイアルも十六歳になり既に成人の儀を迎えている。彼女もできて徐々に仲を深めているようだった。それを羨ましいと思いつつ、家の掃除をする。床磨きを一生懸命にやっていた。


「……ジェーン。今日もお前は元気だな」


「父ちゃん。母ちゃんの近くにいなくていいの?」


  あたしが訊くと父ちゃんは苦笑いした。


「いいんだよ。俺がいつもいては母ちゃんも落ち着かないだろう」


「……まあ。そうだね。あ。今日は父ちゃんの好きなクルミ入りのパンを買って来るから。待っててね」


「そうだな。頼むよ」


  頷くと父ちゃんは家の奥へと行ってしまう。去年から母ちゃんの体調が優れない日が続いていた。今は雨の月でもう真夏も近い季節だ。その暑さが母ちゃんには堪えているらしい。お医者様にも診てもらったけど。完治する見込みは五分五分だと言われた。あたしはそれを思い出すも頭を横に振る。切り替えて床磨きに再び没頭したのだった。


  翌日、あたしは畑でトマトやナスなどの収穫を一人でしていた。するとヒヒンと馬の嘶く声とガラガラと鳴る車輪の音が聞こえた。五年前にもこんな事があったな。ぼんやり思いながらナスのヘタのすぐ上の茎をせん断用のハサミでチョキンと切った。切り取ったナスを脇に抱えたカゴに入れる。が、車輪の音はピタッと止(や)んだ。何故かと頭を上げると豪奢な馬車が一輌うちの近くに停まっていた。扉が開かれると中から誰かが出てくる。目を凝らすと背の高い男性が降りてきた。栗毛色の髪に琥珀の瞳の美青年がそこにいた。あたしが驚いて立ち尽くしていると男性はこちらに速足でやってくる。


「……そこにいるのは姉ちゃんだよな?!」


  声変わりを終えた後の低い声で呼びかけてくる。けどあたしには姉ちゃんと呼ぶ人物はイアルの一人くらいしかいない。はてと首を傾げた。


「……あの。どちら様ですか?」


「どちら様って。僕だよ。アレクセイだよ!!」


「え。アレクセイなの?!」


  驚いてまじまじと青年を見つめた。どことなくアレクセイの面影があるような気がする。けど青年とは初対面のはずだ。


「……ジェーン姉ちゃんには二年も世話になったんだけどな。父ちゃんと母ちゃん、イアルは元気か?」


「……イアルの事まで知っているなんて。とりあえず、皆に知らせてくるから。待ってて」


「わかった。早めに戻ってきてくれよ」


  あたしは頷くと急いで家へと走っていった。両親と弟は偶然にもいたので手短かに説明した。イアルはアレクセイの名前を聞いた途端、不機嫌になる。両親はただ驚くばかりでちょっと目を見開いていた。


「……あいつ。今頃になって何しに来やがった」


「……イアル。そんなこと言わないの。とにかく本物か確かめてくれたらいいから」


「わかったよ。姉ちゃんの頼みだしな」


  イアルは頷くとあたしと連れ立って畑の近くまで付いて来てくれた。アレクセイだと名乗る青年は律儀にも先程と同じ場所で待っていた。あたしの言っていた事を聞いてくれていたようだ。イアルと二人で彼に近づくと気がついたのかこちらを見る。


「……よお。アレクセイ。久しぶりだな」


「……ああ。もしかしてイアルか?」


「そうだ。五年もどこ行ってやがった。父ちゃん達があの後どうしていたかわかっていてそれで来たのか」


  イアルはアレクセイを睨みつけながら言った。あたしはあまりにトゲのある口調に驚く。アレクセイも腹が立ったようでムッとする。しばらく二人は睨み合っていた。先に口火を切ったのはアレクセイの方だった。


「イアルがそう思っていたのには驚いたな。僕はこの五年の間、ずっと君や父ちゃん、母ちゃんの事を忘れた事がなかった。もちろんジェーン姉ちゃんの事も」


「……お前。別に今更来なくても良かったんだよ。そうしてくれていたら俺たちも諦めがついたってのに」


「そういうわけにもいかないよ。父上にも頼んだんだ。父ちゃん達を屋敷に呼びたいって。けど反対された」


  アレクセイは何故かそう言うとあたしを見た。その視線はじりじりと肌が灼けそうな熱を帯びている。それでいて切なげで訳がわからなかった。


「……言っておくが。姉ちゃんは簡単には渡さねえぞ」


「わかっているよ。なら、こういう条件はどうだ?」


「何だ。言ってみろよ」


  イアルが言うとアレクセイは不敵に笑った。なんでそこで笑うの。そう思いながら見つめ返す。


「……僕は愛人を持たない。姉ちゃん一人だけを大事にする」


「んなこたあ、当たり前だ。で。もう一つは?」


「そうだな。姉ちゃんを他の貴族の養女にする。ちゃんと手続きを踏んだら早めに嫁に迎えるよ」


  あたしは嫁という言葉に唖然とした。何でそうなる。そもそもアレクセイはあたしをそういう目で見てたのか?混乱するあたしにアレクセイは驚くべき行動を取った。


「……ちょっ。アレクセイ?!」


  彼は服が汚れるのも構わずに跪いてみせたのだ。あたしの手を恭しく握り左手の薬指に軽くキスをした。一瞬だったが温かく柔らかい何かが薬指に当たった。頭が沸騰してしまいそうだった。顔に熱が集まるのがわかった。


「……姉ちゃん。いや。ジェーン。僕と婚約してください。あなたが昔から好きでした」


「……え。あたしはただの田舎娘もいいところよ。それなのに嫁に迎えるつもりなの?」


「うん。七年前からずっとあなたが好きだった。それこそ僕の初恋でね。やっと告白できたよ」


  アレクセイはにっこりと笑う。その笑顔は甘く蕩けそうであたしは直視できない。


「……で。ジェーン。返事は?」


「……あたしは。マナーもお作法もからっきしよ。それでも待っていてくれるんだったら。婚約は考えてもいいわ」


「そっか。わかったよ。ジェーンが立派な淑女になれたら。その時はちゃんと妻として迎えにくるよ」


  あたしはこくんと頷いた。アレクセイは立ち上がると強く抱きしめてくる。それはイアルが怒って文句を言うまで続いたのだった。


  そうしてあたしはアレクセイと父君のジェレミーさんの手配によりルエン公爵家に養女として引き取られた。ここから厳しいレッスンの日々が始まった。ルエン公爵ご夫妻はあたしを馬鹿にせずに屋敷に迎えてくれたが。その分、淑女教育に手を抜かなかった。家庭教師の先生による学問の習得、ダンスのレッスン、歌や音楽の授業、礼儀作法やマナーなどのレッスンとやる事は山のようにある。アレクセイとの婚約期間は長くて二年。その間に一通りの事は身につけないといけない。けどもうあたしは二十二歳だ。結婚する時には二十四歳になっている。ふうとため息をつく。


「……どうか致しましたか?」


  ふと緩やかな声が聞こえて我に返った。物思いに耽っていたようだ。部屋にはメイドのエメリーがいた。あたしに紅茶を淹れて持ってきてくれる。赤茶の髪にエメラルドグリーンの瞳が綺麗な女の子だ。あたしより二歳下の二十歳である。エメリーはあたし専属に付けられた。他にも五人程いるが。この子が一番年が近いので早く仲良くなっていた。


「……いえ。ちょっと昔の事を思い出していたの」


「そうでしたか。お嬢様がこちらにいらしてからもう二カ月になりますものね」


「そうね。やっと紅茶の飲み方にマナーの先生から及第点をもらえたところよ」


「ふふ。お嬢様も一生懸命に頑張っておられましたからね」


「本当に。けど二年は長いわ」


  ふうとまた息をつく。エメリーはちょっと心配そうだ。どう思ったのか引いていたワゴンから何かを取り出した。


「……お嬢様。料理長が作ってくれた特製のマフィンです。チーズとベーコン入りですよ」


「え。そうなの?」


「はい。私がお嬢様を心配だと言ったら作ってくれました」


  エメリーはにっこりと笑ってマフィンが盛り付けられたお皿をテーブルに置く。あたしはお礼を言い、紅茶と一緒に食べた。チーズとベーコンの塩っ気とまろやかさが口内に広がる。そういえば、ルエン公爵家には子供がいない。だからあたしが養女になれたのだ。こんな年増でいいのかと言ったら公爵こと父上と母上は「我が家はそういう事は気にしない」と言っていた。あまりの大らかさに驚かされたものだ。それを思い出しながらも紅茶を飲んだ。未だに婚約者のアレクセイとは会えていない。ただ、文通はしていた。五日に一度、花束と一緒に届くようになっている。けどあたしとしてはお菓子の方が良い。花より団子とは東の国の言葉らしいけど。よく言ったものだと思う。


「……うん。美味しいわね。エメリーには感謝しないとね」


「元気になられて良かった。お嬢様は笑顔が一番お似合いです」


「褒めたって何も出ないわよ」


「それでもです。お嬢様。私、あなた様が結婚なさってもお仕えし続けます!」


「……好きにしなさいな。あたしのメイドを続けてもつまらないと思うわよ」


  苦笑しながら言うとエメリーはにっこりと笑った。


「つまらないなんて事はありません。お嬢様は面白い方ですよ」


「そ、そう。だったら今後もよろしく頼むわ」


「はい!!」


  エメリーは元気よく返事をする。あたしはそれを眩しく見つめたのだった。


  さらに半年後にはあたしは何とか学問の習得で一通りの事を身につけることができた。まだまだ完璧な淑女には遠いが。日々努力だと自分に言い聞かせる。エメリー達は今も甲斐甲斐しくお世話をしてくれていた。あたしの硬めのゴワゴワした赤毛を毎日文句も言わずにブラシで梳いてくれる。香油まで塗り込んでもらってるからつやつやしてゴワゴワも大分マシになっていた。瞳も焦げ茶色だが。鼻にあった雀斑(そばかす)も毎日の肌のお手入れのおかげで徐々に薄くなっていたし。日焼けしていた肌も白くすべすべだ。父上と母上もこんなあたしの変化に凄く驚いていた。


「……お嬢様。今日はウェンデル子爵、アレクセイ様がこちらにいらっしゃるそうですよ」


「え。それは本当なの?」


「はい。なので今から身支度を整えましょうね」


  エメリーはそう言うと腕捲りをする。やる気満々だ。この後、気楽な部屋着のワンピースからイブニングドレスに着替える。もちろん、コルセットも装着済みだった。髪結いをしてから薄くお化粧をしてもらった。さすがにアレクセイと会うのは緊張する。何せ、公爵家に引き取られて八カ月もの間、全く顔を合わせていない。そう思いながらも公爵家のエントランスホールに向かう。


「……やあ。久しぶりだね。ジェーン」


  あたしは声をかけてきたアレクセイにどきりとした。黒い騎士服に身を包んだ彼は凛々しくて年下には見えない。それでもカーテシーをするのを忘れないのだが。アレクセイは驚いているのか返答しかねているようだ。


「……はい。お久しぶりです。アレクセイ様」


「ジェーン。僕達の仲じゃないか。堅苦しいのはなしだよ」


  あたしは恐る恐るカーテシーを解いて頭を上げる。アレクセイは琥珀の瞳を細めて笑っていた。


「……でも。父上と母上もいるのですよ」


「それでもだよ。では。公爵。ジェーン嬢とサロンへ行かせていただきたいのですが」


「……ああ。行ってきなさい。ジェーンをよろしく頼むよ」


  父上から許可をもらったのでサロンに一緒に行く。アレクセイはあたしに手を差し出す。自分のを乗せるとぎゅうっと握られた。そのまま、ゆっくりと歩いたのだった。


  サロンに着くとアレクセイと隣同士でソファに座る。メイドが来て紅茶とお茶菓子を用意してくれた。以前に住んでいた家では買えない程の高級品だ。あたしは紅茶だけを飲んで早めに切り上げようと目論む。


「ジェーン。お茶菓子、食べないの?」


「いらないわ。高級品はどうも好きではなくて」


「……ふうん。そういう所は相変わらずだね」


  アレクセイは肩を竦めて言った。ちょっとムカっときたが黙る。あたしはお構いなしに紅茶を飲み続けた。


「……ジェーン。あんまり紅茶を飲み過ぎると夜に眠れなくなるよ。それと僕の方は向いてくれないんだな」


「……アレクセイ?」


  あたしがカップをソーサーに置いて振り向くと。アレクセイは顎に手を添えた。ぐっと顔を近づけてくる。琥珀の透明感のある瞳があたしを射抜く。不思議と体が動かない。アレクセイはふっと笑う。そう思っていたら額に温かくて柔らかなものが押し当てられた。キスをされたとすぐに気づく。


「ジェーン。やっぱり二年は長い。八カ月会わなかっただけで気が狂いそうだ」


「……そ、そうかしら。あたしはそうは思わないけど」


「いや。せめて一ヶ月に一度は会いたい。毎日でもいいくらいだ」


「そういう事は父上に言ってちょうだい。あたしにはどうにもできないわ」


「……ん。わかった。公爵に直談判してみる」


  アレクセイはそう言ってあたしの背中に両腕を回す。ぎゅうっと抱きしめられた。久しぶりの人の温もりに包まれてドキドキする。けど彼はすぐに抱擁を解く。ちょっと物足りなさを感じたが。賢明にも口には出さなかった。その後、アレクセイとサロンを出る。エントランスホールに二人で向かったのだった。


  そうして二年目の秋にあたしはアレクセイと無事に結婚した。結婚式は実の両親と弟、現在の両親である公爵夫妻、父君のジェレミー騎士団長、伯父君のシンフォード公爵とご夫人、ご子息のエルリック様の九名が来てくださった。だが驚いた事にシンフォード公爵のご夫人はこの国の大公陛下のご息女らしい。つまりは元公女殿下なのだ。あたしは式前にそれを聞いて大いに驚いた。けど公女殿下ことリナリア様は気さくで明るい方だった。失礼はないかと聞いたら「気にしなくていいわ」と笑って言っておられた。ホッとしたのは記憶に新しい。


  今は春だ。もう結婚して半年が過ぎている。あたしは第一子を懐妊していた。どちらかはまだわからない。現在、あたしはアレクセイと一緒にウィンター村に帰ってきていた。小さな別邸を建ててもらい、子供が生まれるまではここで暮らすことになった。アレクセイは長期休暇を取ってあたしと共に過ごしている。


「……ジェーン。体調はどう?」


「うん。もう安定期に入っているから。大丈夫よ」


  頷いてアレクセイが手ずから淹れてくれた果実水を受け取る。冷たいが美味しい。アレクセイはソファに座るあたしの隣にやってきた。ちなみにあたしは二十四歳だ。アレクセイも二十歳になっていた。後、四カ月もすれば子供が生まれる。どちらでもいいが。アレクセイは女の子がいいと言っていた。二人してお腹の子に話しかけたのだった。


  あれから、四カ月後には元気な女の子が生まれた。アレクセイの喜びようったらもうかなりのものだった。

  生まれた娘はあたしの名前を取ってジェシカと名付けられた。ジェシカは元気が良くて生まれた時の産声も大きな声だった。その後、この子は病気知らずですくすくと育っていく。アレクセイはジェシカに甘くて目に入れても痛くない程に可愛がっている。あたしとアレクセイの間にはもう二人男の子が生まれる。賑やかな雰囲気の家庭になってあたしはアレクセイと共に平穏な日々を送るのだった--。


  -完-

 

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