閻魔大王は大工の源さんに頭を抱えっぱなしです

仲瀬 充

閻魔大王は大工の源さんに頭を抱えっぱなしです

●閻魔王と大工の源太

 獄卒ごくそつの鬼が一人の男を閻魔庁えんまちょうの床に引き据えた。一段高いところで閻魔庁の長官が広い机を前にして椅子に座っている。

「わしが閻魔王である。おもてを上げよ」

平伏へいふくしていた男は金棒かなぼうで鬼に背中を突かれて顔を上げた。

「あなたがあの超有名な閻魔大王さまで?」

男はまじまじと閻魔王の顔を見詰めた。

「そうじゃ」

男の驚きに気をよくした閻魔王は、得意そうに口髭の先端をひねった。せっかく閻魔王を喜ばせたのに、男が続いて口にしたのは余計なことだった。

「お顔がコオロギに似てますね」

途端に閻魔王の雷が落ちた。

「バッカもん! コオロギの方がわしに似ておるのでエンマコオロギと言うのだ!」

閻魔王は不機嫌そうに男の取り調べを開始した。

「まずは人定質問じんていしつもんだ。お前は大工を生業なりわいとしておったようだが、名は何と言う?」

「へい、田村源太と申します。みんなからは大工の源さんと呼ばれてます」

「どこかで聞いたような呼び名だな。ひょっとしてパチンコなどの賭け事が好きなのではないか?」

「弟の源三はパチンコにはまってますが、俺の道楽はもっぱらこっち専門なんで」

そう言って田村源太は猪口ちょこで酒を飲むしぐさをした。

「ふむ、調書にも書いてある。お前はたいそうな左利きで家族に苦労ばかりかけておったようだな」

「いえ、俺は右利きです。ですが、左利きだからって家族に迷惑をかけるなんてことがあるんですか?」

「大工のくせに知らんのか。仕事をする時に木を削るノミと金づちはどうやって手に持つのだ?」

「もちろん、右手で金づち、左手がノミです」

「だからノミを握る左手をノミ手と言い、ごろ合わせで『飲み手』となって酒好きのことを左利きとか左党とか言うのだ」

源太はそれを聞いてパーン!と勢いよく膝をはたいた。

「なあるほど! そう言えば仲間に『お前はサトウだな』と言われたことがありました。『俺は田村だ、佐藤じゃない』って怒ったら笑われたんですが、そんな意味があったんですかい。さすがに大王さまは博学でいらっしゃる!」

閻魔王はまた口髭を捻った。



●第1法廷と三途の川

 源太は感心して閻魔王を見上げていたが、急に真剣な顔つきになって首をかしげた。閻魔王が身を乗り出して源太に声をかけた。

「ん? どうした? ほかに分からぬことがあれば何でも教えてやるぞ」

源太はおずおずと閻魔王に尋ねた。

「つかぬことを伺いますが、あなた様が閻魔大王さまってことは、ここはもしかしたら?」

「もちろん冥界にあるわしの役所、閻魔庁じゃ」

「するってえと、この辺は日本の冥土めいどだから『冥土 イン ジャパン』で、喫茶店があれば『冥土メイド喫茶』ってことになりますね」

「つまらぬダジャレを言うでない」

「ちょいと待ってくださいよ。冥土にいるってえことは、もしかしたら俺は死んじまったんですかい?」

「何を悠長なことを言っておる。もう1か月以上も冥土を旅してここまでたどり着いたのであろうが」

「そうでしたかねえ。頭を打ってぼうっとしたまま来ちまったんで」

「死後は1週間おきに生前の行いについて裁判を受けることになっておる。49日目の7回目の裁判が終われば行先が決定して忌明きあけとなる。じゃが、5回目の今日のわしの裁判で大体の行先は決まるのだ」

「じゃ、俺はもう裁判を4回も済ませてるんですかい?」

「覚えておらんのか? 報告文書を点検がてら思い出させてやろう。どれどれ」

老眼鏡を取り出してかけた閻魔王は眉根を寄せた。

「字が小さくて読みづらいのう」

しかし手元の書類を繰りながら閻魔王が眉根を寄せたのは老眼のせいばかりではなかった。

「これまでの報告によるとひどいもんじゃ。まず初七日しょなのか秦広王しんこうおうの第1法廷、ここは簡単な書類審査をするだけだが、三途さんずの川の渡り方が指示される。善人は橋を歩いて渡れるが悪人は川に入らねばならぬ。罪の軽い者は浅瀬を、罪深い者は深いところをもがき苦しみながら渡ることになるがお前はどう言われた?」

「閻魔さまに言われて少しずつ思い出してきました。確かその時は浅瀬を渡れと言われたような気がします」

「そうであろう。それなのに、お前は自分からわざわざ深みに飛び込んでクロールやバタフライで水を蹴立ててこれ見よがしに三途の川を泳ぎ渡ったそうだな」

「趣味でトライアスロンをやってまして、浅瀬をトロトロ歩いて渡るのはしょうに合わないもんで」

閻魔王が呆れているのも分からず、源太は得意満面に言い放った。

「冥土の旅はスポーツ大会ではないぞ、馬鹿者が! 裁判官の命令を無視するとはとんでもない奴だ!」

「すいません。けど閻魔さま、泳ぎ着いたら小汚いばばあが待ち構えていて服を無理やりはぎとられました。ありゃ一体どういうことです?」

「それは奪衣婆だつえばという婆さんで、側に連れ合いの爺さんもおったろう。その懸衣翁けんえおうという爺さんが婆さんから服を受け取って木の枝に掛けることになっておるのだ」

「じゃ、あれは濡れた服を乾かしてくれる親切な婆さんと爺さんだったんですかい?」

「そうではない。濡れた服を掛けた枝のしなり具合で生前の罪の重さをざっと量るというシステムだ。その結果も裁判の資料になる」

「ははあ、そういうことだったのか。それで分かった。閻魔さま、俺の服を掛けた枝はしなりもせずにポキッと折れたんです。すると婆さんが『お前は極悪人じゃ!』って叫んだんで、『婆あ、何を言いやがる。よく見やがれ、この枝は初めっから枯れてるじゃねぇか!』ってどやしつけてやりました。あんなペテンで裁判されちゃ命がいくつあっても足りやしねえ」



●第2法廷から第4法廷まで

 「命はもうありはしないのだが……」と呟いて閻魔王は話を進めた。

「その木の枝の件は後で現場検証をさせておこう。次は死後二七日ふたなのか初江王しょこうおうの第2法廷だ。殺生せっしょうの罪について取り調べを受けたはずだがどうであった?」

「その初江王さんとやらが、『お前は生前、無益むえきに生き物の命を奪ったことはないか?』って言うんで首を横に振りました」

「それで無事にすむとは思えぬが」

「おっしゃるとおりです。『本当か? 虫の1匹も殺したことはないか?』とニヤニヤしながらネチネチ絡んできました」

「初江王にしてみれば無理もない。虫の1匹も殺したことのない者がいるはずはなかろうからな。お前もそこまで責められたら認めぬわけにはいくまい」

「閻魔さまみたいに優しくおっしゃってくださりゃ、俺もすいませんと頭を下げたんですがね、なんせニヤニヤのネチネチでこられたもんでこっちも尻をまくりました」

閻魔王は先を促すように頷いた。

「ついムキになって言ってやりました。『女房が証人です。連れてきて聞いてみてください。女房はいつも言ってました、『あんたは虫も殺さぬ顔をしてとんでもないことをする人だ』って」

「それで初江王の判決はどうなったのだ?」

「頭を抱えて俺の顔も見ずに、とりあえず次の法廷へ行けってことでした」

「やれやれ初江王も難儀なことよ。次は三七日みなのか宗帝王そうていおうの第3法廷だが、邪淫じゃいんの罪を裁かれたであろう」

「猫が1匹、空港の麻薬犬みたいにウロウロしてました。宗帝王さんが言うには、不倫などのよこしまな行いをしていればその猫が男の大事なところにガブリと噛み付くって話でした」

「ふむ、猫を使った定番どおりの取り調べだな。女の罪人には蛇を使うのだが」

「へ? 罪人の女が不倫してたら蛇はどうするんです?」

「そんなことは知らなくてよい。それよりお前に差し向けられた猫はどうしたのだ?」

「俺はさっきも言ったとおり道楽は飲み方一本ですから、あぐらをかいて座ってどんと来いってなもんです。間違って噛み付きでもしやがったら蹴とばしてやろうと構えてたら、猫は俺の股ぐらで丸まって寝ちまいました。薄汚れた猫だったんで蹴とばして追っ払いましたがね」

「不憫なことをするのう、それも査定材料の一つになるのだぞ。四七日よなのかの第4法廷のことも思い出せるか? 五官王ごかんおうから不妄語戒ふもうごかいの裁きがあったはずだ。ここはたいていの者が引っかかって無事には通してもらえないのだが」

「そうなんですかい? ちょろいもんでしたよ。『お前は生前、嘘をついたことはないか』って聞かれたんで『俺は嘘つきです、逃げも隠れもしません』って正直に言いました」

「それで、五官王はどういう裁きを下したのだ?」

「初江王さんの時みたいに頭を抱えてました。裁判官さんたちは頭痛持ちが多いんですかね?」

閻魔王はしばらく目をつぶって考えてから言った。

「ううむ、正直に話したのが結果オーライにつながったようだな。正直者が自分を嘘つきと言うはずはないが、嘘つきが自分を嘘つきだと言っても、それも嘘ということになってしまうからな。ところで五官王の法廷にははかりが置いてあっただろう」

「へい、昔の銭湯にあったような大きな体重計みたいなやつがありました。生前の罪の重さを量るから乗れと言われたんで焦りました。俺もそんなに清廉潔白に生きてきたってわけじゃないんで」

「焦ってもどうにもなるまい」

「そこで一計を案じましてね。鬼に両脇を抱えられてはかりに乗せられた後、結果が確定しないように針が止まりそうになるたびにこっそりかかとを浮かせました」

「それでどうなったのだ?」

「小刻みにジャンプを繰り返しているうちにはかりが壊れちまったみたいで、『消え失せろ!』と五官王さんからえらく怒られました」



●閻魔王の出張

 「やれやれ、それでわしのこの第5法廷に来たというわけか。あと2回の裁判が残っておるが、今日のわしの裁きでお前の行先を大筋で決めなければならんのだが困った……」

そう言いながら閻魔王もこれまでの王たちと同じように頭を抱え込んだ。

「閻魔さま、俺に遠慮せず判決を出してください。死刑でも文句は言いませんからスパッといっちゃってください」

「お前は既に死んでいる。お前はこれから六道りくどう、つまり天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道、このいずれかの世界へ行くことになるのだ。ところで源太、自分が死んだ時のことを覚えていないか?」

「覚えているのは頭にガツンとひどい衝撃を食らったことぐらいですが、それが何か?」

「今のところお前は地獄行きが濃厚だが、重要な判断材料になるお前の死んだ理由が分からんのだ」

「お手元に報告書が届いているとおっしゃったじゃありませんか」

「その書類を作り終えたバカ鬼が、朝食のスムージーを書類にこぼしたのに気付かずに送ってきたのじゃ」

「スムージーとは鬼さんたちの世界もしゃれてますね」

「近頃はメタボに悩む健康志向の鬼が増えてスムージーとかチアシードとかが流行っておる。それに日サロも人気だ」

「ヒサロ?」

「知らんのか? 日焼けサロンだ。お前は大工仕事で日焼けするから問題なかろうが、地獄は日当たりが悪いからな。『これを読めば鬼に金棒! 地獄の三ツ星日サロ紹介』という本がベストセラーになっているくらいだ。待て待て、そんなことはどうでもいい。お前の死因を記入した欄のインクがにじんでいて読めんのだ。霊界ドローンの映像が参照できればいいのだが」

「またまたしゃれてますね、今度はドローンときましたか。霊界ドローンってのはどんなもんです?」

地獄をほめられて気をよくした閻魔王は机上のボタンを押した。

「特別サービスだ。お前に地獄の霊界シアターをちょっと見せてやろう」

閻魔王がそう言うと源太が座っている地面がまるでガラスの床になったように透明化し、眼下に地獄が見えた。

「うおっ、こいつはすげえ!」

源太は興奮して両手をつき、はいつくばるようにして地獄を見下ろした。

血の池地獄や針山地獄など様々な地獄が見えるが、鬼たちが大勢集まって大型スクリーンの映像を大喜びしながら見ている区画がある。鬼たちの側では何人かの死者がうなだれている。

「閻魔さま、あの人間たちは?」

「生きておった時に国会で『記憶にございません』とのらりくらり追及をかわした政治家や不倫疑惑の言い逃れをした芸能人たちだ。そいつらの談合現場や不倫現場の生々しい映像を放映しておるのだ。ところでお前のいた娑婆しゃばの渋谷というところにはスクランブル交差点なるところがあるそうだな」

「へい。そりゃもう賑やかなところで大変な人出です」

「その交差点付近のビル壁面の液晶画面にもこの映像を配信しようかという案もある。近頃の人間の堕落ぶりにはわしらも腹を据えかねておるのでな。お前が今見ている地獄の様子を描いた地獄絵図というものを昔は寺で子供たちに見せて悪いことをせぬように教育しておったものだ」

「そいつは痛快な案ですね。でも待ってくださいよ、どうして気づかれずにいろんな現場を撮影できるんです?」

「それはだな、わしがイギリスのワグホーツ魔法学校に行ってポリー・ハッターという少年から透明マントを借りてきたのじゃ。それを複製したものを霊界ドローン戦隊ウツスンジャーの鬼たちは身に着けるから気づかれないのだ」

「なるほど。じゃ、俺の死に際の映像も俺の知らない間に霊界ドローンとやらで撮影されていたんですかい?」

「ところが冥界も人手不足、いや鬼手不足で時給を上げても撮影隊にバイトが集まらぬ。だからお前みたいな一般庶民の撮影までは手が回らないのだ。そこで相談だが源太、わしをお前の家に案内してくれ。家には誰がいる?」

「女房と小学生のガキがいます」

「今日はお前の死後35日の法要の日だから親類縁者が何人かでも集まっておれば話の中にお前が死んだ事情も出てくるだろう。これから出張して事情聴取といこう」

「普段から親戚付き合いはしてないんで弔問客が来るかどうか期待はできませんが、でもどうやって俺の家に行くんです?」

「マックロソフト社の大型ワープスクリーンに入り込むだけでいい。少し目が回るがグールグルマップという機能を使えば目指すところへ簡単に行けるのだ」



●源太の死因

 閻魔王と源太はトンビのように飛翔しながら、源太の家の玄関先にふわりと降り立った。

「ここです」

「ふむ、小汚いながらも一軒家を構えておるのは感心じゃ」

「閻魔さまも案外口が悪いですね。友だちなくしますよ」

そんなやりとりをしている二人の側に高級外車が停まった。運転席から恰幅かっぷくのいい紳士が降りて来た。続いて高校の制服を着た娘が助手席から降り、二人一緒に家の中に入って行った。

「お前の親戚か?」

「違います。はて、あんな金持ちと付き合いはないはずだが誰だろう?」

「とりあえず中に入るのだ。わしらの姿は人間には見えないし、声も聞こえない」

二人は玄関の戸も部屋のふすまも開けることなくすり抜け、居間の隅に腰を下ろした。居間には真新しい小さな仏壇が据えられており、先ほどの紳士と娘がその前に座って手を合わせている。源太の一人息子は隣の部屋にいて襖の合わせ目から様子をうかがっている。客の二人がお参りをすますと、源太の妻は仏壇の高坏たかつきの饅頭を2個小皿に載せてテーブルに置いた。それを横目で見た娘は不快な表情を露骨に顔に浮かべた。

「何のおかまいもできませんが、お茶とお饅頭でも」

座卓には既に麦茶の入ったプラスチックのコップが二つ置かれていた。座卓に着いた紳士は源太の妻に向かって頭を下げた。

「改めてお悔やみとお礼を申し上げます。ご主人様には命と引き換えにうちの娘を救っていただき、何と申し上げてよいものやら。早紀子、ほらお前も」

「私、急に気分が悪くなってめまいがしてホームから落ちそうになってしまったんです。ごめんなさい」

父親に促されて言ったものの、娘の声と表情には何の感情も籠っていなかった。父親が説明を付け足した。

「私にも責任があります。娘は不登校で1年近く家に引きこもっているので、あの日は私が強引に外出を勧めたものですから」

娘の父親はそれとなく部屋の中を見回して話を続けた。

「ところで奥様、働き手のご主人様がお亡くなりになってさぞお困りでしょう。ぶしつけな話ですが、お子さんが高校を終えるまでは私どもで学費の援助をと思っているのですが、いかがでしょう」

えっ?! 肩を落として座っていた源太の妻が勢いよく顔を上げた。

「ご覧の通りの貧乏暮らしなもので、そうしていただけると助かります。よろしくお願いいたします。ありがとうございます、ありがとうございます」

自分の妻が見苦しいまでに頭をペコペコ下げるのを見かねた源太は、目で促して閻魔王と共に外へ出た。

「閻魔さま、はっきりと思い出しました。俺は仕事帰りに立ち飲み屋で一杯引っかけてから駅のホームに行って電車を待っていたんです。するとあの娘がやってきてホームから落ちそうになりました。そこへ電車が入って来たもんで慌てて娘の前に回り込んだはずみで俺の方がホームから転落しちまって。そうか、これまで頭がぼうっとしていたのは電車にはねられたせいだったのか」

閻魔王がもったいぶった拍手をしながら言った。

「でかした、源太。見事な死にざまではないか。お前の行先は地獄ではない。天道は無理でも人間道でOKだ。では冥界へ戻るとするか」



●源太の説得

 弔問の親子が閻魔王と源太の後から玄関先に出て来て、源太の妻に見送られながら車に乗り込んだ。

「閻魔さま、冥土へ戻るのは後回しにしてこの車の後をつけましょう。ちょいと気になることがありますんで」

源太はそう言ってふわりと浮揚すると走り出した車の上空を飛んだ。閻魔王が後に続いた。

「源太よ、何が気になるというのだ?」

「あの娘は嘘をついてます。めまいがしてふらついたと言ってましたがそうじゃありません。自分でホームに落ちようとして足を踏み出したんです」

「そういえば、お前に助けられたことをありがたがっているふうには見えなかったな」

やがて車は立派な門構えの豪邸のガレージに入って行った。

「閻魔さま、あの娘の目に俺の姿だけ見えるようにできませんか?」

「お安いご用だ。吾輩わがはいの辞書にインポッシブルの文字はない」

源太と閻魔王は娘の部屋に入り込んだ。

「やめな! こんなことだろうと思ったぜ」

手首をカミソリで切ろうとしていた早紀子はギョッとして手を止め、背後を振り向いた。早紀子の目に大工姿の中年の男が立っているのが見えた。

「俺の顔を覚えているかな? 仏壇にも写真があったろう。さっきまで俺の家に親父さんと一緒に行ってたね」

幽霊の自分を見てパニックを起こすのではないかと源太は恐れたが、早紀子は目立った驚きは示さなかった。

「襖の隙間から俺の息子があんたたちをのぞいてたのを知ってたかい?」

パニックは起こさなくてもショックはショックらしく、早紀子は言葉を発することができず返事の代わりに首を振った。

「あんたたちが帰ったらすぐに饅頭を食べたいからだよ。あんたが見て嫌な顔をした、パリパリに乾いて線香の匂いが染みついた饅頭をだよ。貧乏人の子はいつも腹を空かしているんだ」

源太は、ピンク系統の華やかな色彩の調度品で統一された早紀子の部屋を見回した。

「腹を空かすどころか、こんないい家に住んで贅沢な暮らしをして、何が不足でそんなに死にたがるかね」

早紀子は源太からぷいと顔をそむけた。

「おや? 余計なお世話だって顔してるね。じゃ、死にたけりゃ勝手に死にな。ただ一つだけ言っとくぜ。自殺した人間は地獄行きって決まってるんだ。地獄には赤鬼やら青鬼やらがウジャウジャいて、それにあんたみたいなお嬢ちゃんならビビッてしょんべん漏らしそうな顔の閻魔大王さまもいるぞ。いてッ!」

「レディの前で下品なことを申すでない!」

閻魔王の言葉は源太にしか聞こえず、早紀子はそっぽを向いたままだ。ところが一方の源太も閻魔王に小突かれた後は急に口をつぐんで黙ってしまった。先ほどまでの威勢はどこへやら、源太は泣きそうな顔をしてうつむいた。その不可解な変わりようを見て早紀子が初めて口を開いた。

「おじさん?」

源太は、早紀子のベッドのヘッドボードに置かれているサボテンの小さな鉢を指さした。

「たまにしか水やりしなくていいサボテンなのに枯れる寸前じゃないか。トゲだらけでカサカサに乾いて、早紀子ちゃんだったかな? まるであんたの心の中みたいだ。ずっと引きこもって部屋にいたのに水やりも忘れるほど辛かったんだろうな、かわいそうに。でもな、死ななくちゃならないほど、あんた、誰かに迷惑かけたかい? あんたが死んだら手を叩いて喜ぶ人間ばかりなのかい? そんなことはないはずだよ」

源太の口調が再び熱を帯びてきた。

「どうだい早紀子ちゃん、あんたの分身みたいなあの哀れなサボテンに水をやって生き返るかどうか見届けてみないか。死ぬのはそれからでも遅くはないだろう?」

早紀子は小さく頷いた。

「あと、親父さんも言ったとおり、たまには気晴らしに外にも出たほうがいい。今思いついたんだが、外出のついでに献血をしに行ったらどうかな」

「献血……ですか?」

早紀子は今度は小さく首をかしげた。

「あんたの心は死にたがっていても、体の方は生きろ生きろと血を造り続けてくれてるんだよ。もったいないじゃないか。死にたがるあんたの血でも、献血すれば生きるために苦しんでる人を救うことができるんだ。そしてできれば……、できればの話だけどな、俺の死が無駄にならないように早紀子ちゃんが少しでも生気を取り戻してくれれば、俺も生き生きと死んでいられるってもんだ。あれ? 何かおかしいな」

早紀子は頷きながら泣き笑いした。



●閻魔王の判決

 早紀子の家を後にすると閻魔王は源太の肩を二度三度と叩いた。

「もうあの娘は大丈夫だろう。身をていして娘を助けたばかりか、娘の心まで救済するとは大したものだ。よくやった。お前の行先は人間道から天道へ格上げしてもよい。さあ、そろそろ冥界へ戻らねばならない時間だ」

褒められた源太は、閻魔王の機嫌がいいのに乗じて家族への未練を口にした。

「閻魔さま、お願いがあります。最後にもう一度、もう一度だけ女房と息子の顔を見させてください。このわがままを聞いてもらえればあの世に戻れなくなってもかまいませんから」

「どさくさに紛れて虫のよいことを言うでない。しかし、まあ、それくらいの願いなら大目に見よう」

再び源太の家に行って見ると、夕食の最中だった。仏壇の前の小机には源太の分のご飯と小皿に盛られたイワシの刺身が載っている。妻と息子が食事をするのをしばらく見ていた源太は「もういいです」と閻魔王に言い、目を赤くして家を出た。

「源太、どうした。泣いておるのか?」

「どうにも我慢ができなくて。イワシの刺身は俺の大好物なんです」

「それを忘れずに供えてくれる奥さんを残して旅立たねばならんとは、涙が出るのも無理はない」

閻魔王が慰めると源太は腕で涙をぬぐいながら首を横に振った。

「イワシに添えられていたワサビが……」

「ワサビが目に沁みることはあるまい。よいよい、強がりを言わんでも。好きなだけ泣け」

閻魔王の顔に慈愛の表情が浮かんだ。

「いえ、そういうことじゃなくて。イワシの刺身はワサビじゃなくて酢味噌で食うのが一番だと俺はやかましく言ってたんです。それを女房のやつ忘れやがって。せっかくのイワシが台無しで涙が出ます」

閻魔王は一瞬で閻魔顔に戻った。

「お前の行先は餓鬼道に変更じゃ! 死んだ後までも食い意地が突っ張っておるとは!」

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閻魔大王は大工の源さんに頭を抱えっぱなしです 仲瀬 充 @imutake73

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