空に雫が瞬いて

鈴ノ木 鈴ノ子

そらにしずくがまたたいて

「ねぇ孝光、私のおっぱいが無くなってもいい?」

 中学校からの帰り道に頼子が唐突にそう口にしたのだった。

 その意図が若かった私には読み取ることができず、ただ、その悲しそうな表情と豊かな膨らみに交互に視線を向けながら、戸惑った表情で私はどう返事をしたものか迷った。入学時に知り合い意気投合して付き合いを続けた、数日前、厳冬の雨の日にずぶ濡れとなった私達は親のいない家で濡れた衣服を脱ぎ合い、そのまま初体験を済ませたばかりだった。

 そして今日も同じような冷たい雨が降っている。

「急にどうしたの?」

 それしか言い返す言葉が見つからなかった。ただ、あの優しい膨らみを想像し、それが失われことを想像することが今一度できずにいたのだ。

「なんでもない」

 そう悲しみを打ち消すように言って、いつも通りの可愛らしい笑顔を浮かべた頼子は私の腕を掴む、そして自らの胸へと押し当ててきた。温かくて柔らかい感触が心地よく、性に正直であった私は先ほどの話を深く考えることなどすることなどしなかった。

 それが最後となることも知らずに。


 ゴツンと床に頭を打ち付けて私は目を覚ました。

 学生アパートの古びた天井が視界に見えた。煙草のヤニで黄ばんだ電灯が淡い光を灯している。炬燵で居眠りをしていたらしく、机上には飲みかけた酎ハイの缶と、借りて読みかけの通学している医科大学の教科書、そしておつまみスルメの食べかけが散らばっていた。

「また、あの夢か」

 炭酸と冷間の抜けた気持ちの悪い酎ハイを飲み干して、私は食べかけのスルメの最後の一口を咥えると、ゴミを持って猫の額ほどのキッチンへと向かった。キッチンの窓は少しだけ空いていて、外からは冷たい風と雨音が聞こえてくる。きっとこの音があの夢を思い出させたのだろうと思った。

 あの日の翌日から頼子には会えていない。

 連絡が取れなくなったことを雨が降るかのように涙する日々を過ごした。

 中学校の先生に学校に来なくなってしまった理由を何度も質問し、春先を迎えた頃に根負けした先生から聞いた話では、あの日の翌日に胸の手術を受けて意識を失ってしまい、県外の専門病院に転院となり治療に時間が刈るため転校となったのだと教えられた。Rainで連絡を何度も試みたが「既読」となることはなく連絡する回数は徐々に減って行き、やがてそれができなくなった時に、初恋に封をした。

「チッ、切れてる」

 飲み直そうと冷蔵庫を覗くが目当てのものは最後を飲んでしまったようで見つけることはできなかった、しかし、このまま眠る訳にもいかない。思い出を乗り切るにはアルコールの力が是が非でも必要だった。仕方なしに着替えを済ませてコートを羽織ると私は外へと出た。冷たい雨の中、傘を差して近所のコンビニへと向かいながら、ときより無意識に流れいでる涙を袖で拭った。

 持ち物はスマホと部屋の鍵だけ、他はすべて置いてきた。鞄を持つことさえも、うっとおしく感じられるほどに気持ちが沈んでいる。不意に何度か機種変更してもなお引き継がれたRainの一番下をスクロールして可愛い紫陽花のアイコンをタップする。

 既読はなかった。あるはずがない。ずっと分かっているというのに。

 着慣れたコートのポケットにスマホを押し込んで、内ポケットから煙草を取り出して火を点けた。一口しっかりと吸ってから一気に吐き出すと、煙は雨の中を漂って消えていった。私の思いもこのように消えてしまえば悩まずによかったのかもしれない、だが今もあの日の雨の中を煙となって漂っている。大学になってからこの話を酒の肴にしたこともあった、だが、悪友で女性でもある鈴木から「今も焦がれている証拠よ、無理に汚さないで!」とこっ酷く叱られ、そして女が胸を失うことがどれほど辛く苦しく、それこそアイデンティを失うほどということを五月雨が振る如く諭されたのち、「純愛に諦めがつくまで待つのも素敵なことよ」と言った、それを聞くと、まるで雨だれが石を穿つ如く、初めての恋というだけでない、純粋に愛し、今も愛しているのだということに気がつかされたのだった。

 心はずっと雨が降っていて、それは今も止めどなく降り続いている。それは悲しみの雨だけではない想う雨でもあったのだ。

 コンビニで缶酎ハイとビールなどの酒を買い込んで店を出る。

 雨は止まずに降り続いている。袋から缶酎ハイを取り出して蓋を開けて一気に飲み干して缶をゴミ箱へと投げ込んだ。アルコールが程よく喉を焼いて胃へと流れ込んでくる。濡れてしまった袖の寒さを忘れさせてくれるのが有難かった。

 不意にスマホが音を奏でたので取り出してみれば、くだんの鈴木からの着信だった。

「なにしとっと?」

 九州出身の彼女の開口一番はいつも方言だ。

「コンビニで酒を買ったとこ」

「なんね、吞みながら勉強してんの?あ、悪いんだけどさ、貸した教科書、明日返してくれる、私も再度読み直したいところがあるから」

「わかった、テスト前、テスト後、どっちで返せばいい?」

「ばっか、テスト前に返せっての、じゃ、私、寝るから、よろしく」

「うい、おやすみ」

 下らない電話に和まされながら傘を開いて雨の中を歩きだす。雨足は更に強くなって傘を叩く音がドラムのように激しく聞こえる。道路を跳ねる雨粒がまるで先に進むのを拒むように思えてしまうほど勢いよく地面を叩き、その身を霧散させてはあたりに漂っている。足元の靴はすでに雨水が沁みていて、酒で火照った身体を冷ますようで気持ちが良く、風が吹いて傘が煽られるとその度に雨粒が前髪を濡らしてはその雨水が口に垂れた。やがて初めての長いキスを思い出した。


 初めての経験の日も冷たく激しい雨の日だった。傘を忘れた私達は鞄を頭の上に掲げて雨よけにしながら中学校近くだった私の家に駆け込んだ。

「タオル持ってくるよ」

 濡れた靴と制服の上着を脱いで玄関先に放り投げて、脱衣所にタオルを取りに行こうとした私を頼子が掴んだ。

「ありがと、でも、ついでにこっちの方が興味あるんじゃない」

 その手が柔らかな感触に触れる、それは初めて触る心地よさと濡れて冷えているはずなのに温かな熱を帯びていた。

「えっと…、あ…」

「触っていいよ」

 引っ張られるようにして頼子が私を引き寄せると耳元でそう囁いた。

 悪魔のように魅力的で、天使のように慈悲深い、その声に私は嵐のように荒々しく唇を合わせると、頼子をしっかりと抱きしめた。前髪を伝い滴り落ちる雨水すらも飲み干すように長いキスを交わして、時を忘れて恥ずかしさをも忘れるほどにしっかりと見つめ合った。

 あれは頼子の私に対しての優しさだった。それを言い表す言葉を私は見つけられずにいる。そしてあの日の一言、言わなくてもいても良いのに、最後まできちんと伝えてくれた優しさに私はただ甘えて、そしてそのことに対して想像することも思考することもしなかったのだ。だから、「急にどうしたの」などと言う、陳腐極まりなく理解していない事を体現するかのような言葉で誤魔化し、そしてそれを頼子は理解したから、「なんでもないよ」と、途轍ないほどの苦しみを抱えていたというに、そう優しく言ってくれたに違いない。

 不甲斐なさばかりが思い出されて頭に中が狂ってしまいそうなほど悪酔いとなった。煙草を取り出して火を点けると再び紫煙を吐き出し長いため息をつく。

「もし、今、そう問われたなら、何と答えるだろう…。きっと、今も馬鹿な返事しかできなくて、こんどこそ愛想をつかされるにちがいない」

 ボソリと呟きながら自問自答して皮肉を込めて笑う。雨のお蔭で道を歩く人も車も通らないのがありがたかった。愛情というよりは未練がましいのかもしれない。だが、きっと未練とは愛情の裏返しに違いない。

 再び着信音がなる、鈴木が伝え忘れたことがあったので再び電話してきたのだろうとさして確認することなく少し乱暴に電話にでる。

「なに?」

 戸惑ったように息を呑む音が違った。いや、何年と聞いていなくても聞き間違えるはずがない。

「孝光…でいいのかな」

「ああ…」

 同じ手に持ち替えていた買い物袋と傘を手放し、落とすまいと両手で包み込むようにスマホ持って耳に押し当てる。

「頼子?」

 緊張と困惑と恐怖が入り混じるような声でそう尋ねた。

「うん…、孝光だよね、声変わった?あのね、孝光…」

「今、どこにいるの」

 冷たい雨が気持ち良く全身を濡らしてゆく、沸騰しそうな思考が一気に冷まされていた。責めるような口調ではない、優しいあの頃の口調で聞いてみる。

「病院だよ、なんかね手術した病院とは違う病院、私、体が変なの、変な…」

「分かった、すぐに行くよ。どこの病院?なにか分かるものはある?分からなかったら、点滴にシールとかとか張られてない?」

 医学生のとして学び始めて数年ほどだけれど仕組みならば理解できている。

「えっと…、あ、鴻上医科大学附属病院って書いてある…、孝光、助けて、壁のカレンダーの数字が進み過ぎているし、体は別人みたいに細くて動かしにくいし、目が覚めたのに何がどうなっているのか…まったく理解できないの…」

 早口に捲し立てる頼子の声が不安で押しつぶされていくように弱弱しくなっていくのが手に取るように分かった。

「まずは看護師さんを呼んで、その病院は知っているからすぐに行くよ」

「うん。待ってる。あと、ごめんなさい、私がきちんと伝えなきゃいけなかったのに…」

「違うよ、私がきちんと受け止めなかったのがいけなかった。今言うね、辛いだろうけど無くていい、頼子が傍に居てくれなきゃ嫌だよ。だから、あとできちんと話しをしよう。20分くらいで着くから待っていて」

「うん…」

 優しい泣き声のような言葉と共に電話が途切れた。切れた後のトーン音が途切れるまで耳に当て続けてその声を反芻する。しばらく雨の中に佇んでから、着信画面から鈴木を呼び出した、もう明日の約束を取り消さねばならない。

「寝てたのに、なんなの、酔っ払い」

 不機嫌と寝ぼけが練和されたような声が耳を刺す。

「すまん、明日は行けなくなった」

 いつもよりトーンが高い声であることは自分でも分かる。弾んでいるとでも言った方がいいのかもしれない。どんなときもこんな声になったことはなかった。

「はぁ?アンタなにって…なにがあったの?」

 不機嫌な声が心配の声に変化した。

「頼子から今さっき電話が来た。大学病院の名前を言って、今、目覚めたような感じだったよ。助けてほしいって言われたからすぐに行かないと…」

 そう言い終えたところで背筋がぞくりとして寒気を感じた。冷えた雨が背中を流れ落ちてゆく。向かったとしても頼子の姿などはなく、これはアルコールが齎した夢ではないかと不安が過った。

「走れ、雨男」

「えっと…?」

「走れって言ってんの、アンタは長いこと雨に濡れていたじゃない。きっと彼女は乾ききっているから不安でしょうがないのよ、だから、すぐにアンタに電話して助けを求めたんでしょ、アンタのその雨で潤わせてあげないとダメじゃない、癒すことができるのも潤わせることができるのも、アンタにだけしかできない役目よ。すぐに行け、馬鹿」

「恩に着る」

「着せる恩は高いわよ。落ち着いたら彼女に合わせて、じゃね」

 ブツリと電話が切れて雨音だけが耳に聞こえてきた。

 空を見上げれば夜の闇に少しだけ雨雲が見えていて、そこから無数の水滴が光を反射して白い粒となって降り注いできている。雨がこれほど気持ち良くて清々しいものだとは思いもしなかった。

 大学病院までの20分を濡れながら全速力で駆け抜け出してゆく。

 長いこと雨の中で過ごしてきたのだ、あと少し濡れることなど構わない。

 スマホに紫陽花のアイコンが通知を告げていた。待ち焦がれた『既読』と、そして『待っています』と短く優しいひと言が添えられていた。

 大切なものを失ってもなお、相手を思いやれる優しさを持つ頼子に目頭が熱くなる。止めどなく涙が溢れて思わず上を向く。


 空に雫が瞬いて、星空を見上げるよりも美しく輝いていた。


 終幕

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