第3話 吉川広家

 しかし、それにしても、日和見が多すぎる。日和見が多いということは雌雄が決していないということだ。ほんのちょっとした差で勝利に至る可能性は残っているといえる。

 201回目の関ヶ原の戦いのあとのことだが、薩摩までにげることができた。そのため、徳川が政権を奪取したあとのことがはっきりとわかった。毛利が大幅に減封されるのだ。このことをあらかじめ毛利家の人間がわかっていたらどうなるだろうか?実は、これが突破口となった。

 202回目の関ヶ原の戦いに際して、吉川広家に書状を送った。徳川家康が書いたとする偽の書状で、内容は「毛利家の所領安堵は反故にして改易される。その所領は吉川広家に与えることとなる」というものだった。偽書といったが、ウソではない、これからおこる真実なのである。すると、どうなっただろうか?戦闘が開始されると吉川広家は、南宮山を降りて、徳川の後方で積極的に戦いをしかけたのであった。

 しかし、小早川は、その時も日和見を続けていて、西軍が劣勢になった夕方になって松尾山をおり、西軍の横っ腹に突っ込んで西軍を壊走させた。

 なお、念のため、同様の書状を大坂の毛利輝元にも送った。しかし、それでも総大将は動かなかった。あんな総大将を担いでしまったのが、失敗の大元だったのだろう。

 203回目の関ヶ原の戦いで、ついに、大きな変化が見られた。小早川秀秋は松尾山に陣取るのだが、先回りして松尾山の陣地を大谷吉継に取らせた。この展開は67回目の関ヶ原の戦いと同じである。このあと、小早川秀秋は関ヶ原の戦いを離脱するはずだったのだが、今回、小早川秀秋は松尾山の麓に陣取ったのである。もちろん、吉川広家は前回と同じやり方で調略済である。

 ふふ、なるほど、小早川秀秋は吉川広家に動かされているようだ。小早川秀秋は松尾山の大谷吉継と宇喜多秀家に挟まれており、わずかながら西軍として戦いの参加してくれた。小早川秀秋と吉川広家が、非常に怪しい動きだが、西軍として動いてくれた。しかし、少なくとも東軍に寝返るのとは雲泥の違いである。勝てる。この戦勝てるぞ。

 しかし、奮戦していた宇喜多秀家が鉄砲の直撃により戦死したのをきっかけに西軍は敗走した。

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