Under the Storm

錦魚葉椿

第1話

 ざあざあ雨が降っていた。

 アジサイの葉をまるで打ち据えるように。

 菜々緒は微笑みの形に唇を固定させたまま、その隙間から少しずつため息を空気中に逃がしながら、窓の向こうで雨に洗われているアジサイを見ていた。

 ぼんやりくすんだ色の。

「もう、湿気のせいで髪が決まらない」

 最後の一人が梅雨のしっとりとした空気をまといながら現れた。

 遅れてきた友達は濡れた淡い桃色のスカートの裾をまくって、そっと黒い革のソファーに腰を下ろす。分厚いネイルではメニューはめくりにくいようだった。

 半年ぶりに会った大学時代の友達はみんな生き生きして、屈託なく、キラキラしているように見えた。

 うまくいった仕事、ブラック気味の職場、嫌な先輩、楽しい上司、決めかねているワーキングホリデー。楽しい話も楽しくない話もそれぞれが堰を切ったように話し始めて、話題は尽きない。

 菜々緒はその話をただ微笑んで聞いている。

 ───── 語れることが何もないから。



 先週の月曜日。

 出勤すると職場の机の上に、「急」とメモ付きの専務あての書類が置いてあった。

 どんなに早く出勤しても、職場では既に「仕事」は始まっている。

 菜々緒にはすべき仕事が与えられていなかった。隣の先輩だって何かしているような何もしていないような。何をしているのかちっともよくわからない。

 新卒採用されて、部署に配属された一年と少し前、「何をさせていただきましょうか」という質問に「社会人と言うのは、自分で仕事を見つけるものなんだよ」という一言だけ告げられて、新品の机と椅子と型落ちのパソコンと所定労働時間を与えられた。

 封筒を持ち上げて周囲を見回す。

 これを専務にお届けしろと言う意味なのか、そうではないのか。

 封筒は誰かが自分の机に置いたはずなのだ。

 出来上がっていない書類をお届けしたら、怒られるのは自分ではない。この書類の作成者なのだ。これは出来上がっているのか出来上がっていないのか。封をされているので判断も着かない。パソコンの画面に食いついて、苔むした道祖神のようにピクリともしない人たち。見回しても誰も反応しない。

 おはようございます、という朝の挨拶すら無視する人達に話しかけることがどんなに勇気のいることか、秘書を羨ましがる同期たちに語って聞かせたい。

 だが、重役室の中で見聞きしたことについて一切他言は許されていない。

 仕方がない。菜々緒は覚悟を決めて、名前を呼んで尋ねた。

「亀岡主任。これは、専務にお届けした方がいいのでしょうか」

 彼女は前髪を右に払いながらややあって答えた。

「私は副社長秘書ですから」

 副社長のこと以外を自分に聞くな、というときの決まり文句。



 火曜日。

 昨日の書類は専務にお届けしてはいけないものだったようだ。やっぱり。

 勝手に判断したということで大分怒られた。想定通りだが、愉快ではない。誰も教えてくれなかったのは、誰もその緊急の度合いがわからなかったから、一番出勤の遅い菜々緒の席におくことで自分たちへの爆撃を避けたのだ。

 菜々緒はよくわかっていた。

 その為に自分がいるのだということが。

 もうすぐ株主総会だから、重役室内はピリピリしている。

 防音の壁を貫いて男性の怒鳴り声が聞こえてくる。

 膝を絨毯の毛だらけにして出てくる松田部長は「土下座の松」と呼ばれている。社長の怒りを土下座でかわすからだ。毛足の長い社長室のじゅうたんの上で、彼はもはや華麗ともいえる所作で土下座して、その後はスカラベのように何時間でも丸まっている。

 そんなことで何億の損失が解決するのなら安いものかもしれなかった。

 社長室から嗚咽を漏らしながらでてくる人とも目を合わせていけない。

 毎回みっともないほど泣きじゃくりながらでてくる上野部長は、なにかと菜々緒の机の上のモノにぶつかる。

 なんどもなんども床に落とされる鉛筆立てに辟易し、文房具を机の中にしまうようにしたら、積んである書類ケースや電話にぶつかるようになった。被害が甚大なので、鉛筆立てを元に戻した。

 落とされるたびに大きな音が立って、周囲に冷たい目で睨まれたとしても、結果的に一番被害が少ないことを経験で悟ったからだ。

 仕事ができれば課長はなれる。

 部長は仕事ができたからといってなれるものではない。

「ごめんなさいねえ。この子全然学習しなくて。机の端に鉛筆立て置くのは非常識だっていってるんですけど」

 亀岡主任のご機嫌な唇は赤よりの臙脂色。

 バブルのころから時が止まっている。

 その頃に存在しなかったからなのか、ネイルは「秘書としてふさわしくないふるまい」だそうだ。




 水曜日。

 高層ビルの薄汚れた窓から見下ろす街並み。

 水族館の魚はこんな気分なのかもしれない。

 何処にも行けないガラスの箱に閉じ込められて、時間が過ぎるのをただ待つ生活。

 その朝、出勤してパソコンを上げたら、ファイル管理ソフトに表示されるファイル数が激減していた。けしてしまったのかと慌てていたら、ディスプレイの隙から向かいの男性がにやついているのが見えた。

 ああ、そうか。

 閲覧制限をかけられた。

 彼は部署の情報システム担当で、各人に対しファイルのアクセス制限をかけることができる。ほとんどすべてのファイルに関する閲覧権限が落とされていた。

 室長はその辺の設定には疎い。何が行われているのか気が付いていないだろう。

 じっと見つめると、男はその人当たりのいい顔に高慢な本性を押し込めてすましている。



 木曜日。

 昼休憩の帰り道、道にはみ出しているアジサイを剪定している作業員と目が合った。

 気のよさそうなおじさんは故郷の父より少し上で、子供の頃の祖父と同じ年回りに見えた。

「切ってしまうんですか」

「花が道に出ていて服が濡れたと苦情があったらしくってね」

 情緒がないよねえと聞かせる風でもなく呟きながら、ぱちんぱちんと枝を飛ばしていく。

 建物管理会社の社名を縫い取られた緑の作業機を着た彼からは少したばこのにおいがして、爪と手の皺の間が黒ずんで汚れている。

 機械油が染み込んだ働き者の手だ。菜々緒にはひどく慕わしいものに思えた。

 事務所に戻りたくなくて、菜々緒は切られていくアジサイを見ていた。

 男性は小ぶりのガクアジサイを一枝切って、丁寧に葉っぱを落とし、菜々緒に差し出した。

「持っていくかい」

 濃い紫のガクアジサイは、雨に濡れて輝いていた。

 アジサイは終業後、持って帰ろうと新聞に包んで給湯室の床のバケツにつけておいたら、二時間後ご丁寧に首をもがれ、幾重にも茎を折られ、ゴミ箱に叩き込まれていた。

「いやしくも社長のいらっしゃる階に、拾ったような花を持ち込む常識のなさはどうかと思うわ」

 副社長秘書はそう言って給湯室を立ち去って行った。

 ゴミ箱にアジサイを捨てた人は多分、この人ではない。別の人だ。

 アジサイの首をもぎたくなる同志がいるのだと思えば、むしろ救いに思えた。



 金曜日

 お昼ご飯は独りで食べる。

 人事情報が先にリークされるたびに、「君が漏らしたんじゃないか」と詰問されるので、同期はもちろん他部署の人との交流は一切取らないようにしている。

 ファイルの閲覧制限は「情報の重要性が判断できない者には見えないようにしておく」を建前にかけられたらしい。これ以上アクセスできるファイルが減ったら本当にすることがなくなってしまう。社内の人間との関係性は物理的に絶っておかねばいけなかった。メールも安全地帯ではない。開いたはずのないメールが既に既読になっていることがしばしばあった。未読に戻しておかないのは迂闊だからか、「見ているんだぞ」という無言の威嚇なのかはわからない。

 何をしたくてこの会社に入ったのだったか、記憶がぼんやりしてきていた。

 この人たちと時間を共有し、20代をここで浪費して後悔しないのか、それを考える時間は毎日8時間以上ある。





「─────今日の菜々緒、だいぶヤバかったよね」

「闇、深かった」

 学生時代より白く見える顔にずっと薄笑いを浮かべ、シナモン入りのカフェラテとスコーンを供えられたひな人形のようだった。

 薄い膜のようなモノが貼りついているような、そんな風に見えた。

 理想の結婚相手の話になって、結婚したい人に求める譲れない要素を三つ挙げてみるというありがちな質問に菜々緒は5秒ほど考えて答えた。

 その瞬間、笑顔が顔からはげ落ちた。


────嘘のつけない人、土下座しない人、偉くなりたいと一切思わない人かな。



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Under the Storm 錦魚葉椿 @BEL13542

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