第33話


 時間はあっという間に過ぎていく。

 残り少なかった試験までの日数は、待ち望んだ大型連休がやってきた時のように溶け消えて、瞬く間に試験当日を迎えた。


 現代文。数学一A。英語。科学――。


 順当に試験をこなしていく。試験の合間の休み時間には次の試験の内容を復習し、お昼には持ってきた弁当をかき込みながら教科書に目を走らせる。

 そうして、一分一秒を惜しみ全力で一週間の試験期間を駆け抜けると、今までは感じたこともない手応えを感じた。数学のテストだけやや不調だったけれど、それにしたって普段よりはよほど空欄が少ない。リスニングも――まあ……うん。一朝一夕にはどうにもならなかったけれど、全体を見ればそれを補ってあまりある成果だった。


 そして、翌週。

 試験結果が出たその日の放課後に、僕はあの神社がある山の頂へとやってきていた。


 ――僕の物語を始めるために。


「すみません。お待たせしました」


 僕がそこへ着くと、会長は小さな神社へ向かって柏手を打っているところだった。

 タイミングを見計らって僕は声をかける。


「構わないわ。それで……なんの用かしら?」


 彼女は振り返り僕の目を見る。

 そこにはもう揺らぎはなかった。迷いも恐れもどこかへ忘れてしまったかのように、凛としていて隙がなく、落ち着き払っている。


「会長にお願いがあるんです――」


 僕は言った。


「自由部に戻ってきてくれませんか?」


「……またそれ? 何度も言っているでしょう? それは無理よ。私は父の後を継がなければならないの」


 一顧だにもされない。でも、そんなことはわかりきっていたことだ。

 だから僕はそのまま続ける。


「私たちは自由なのか――と、会長は以前僕にそう問いました。僕はその……頭があまりよくないので、答えを出すのに結構時間がかかっちゃったんですけど、一応僕なりの結論を出してきたつもりです。だから――ここで答えさせてくれませんか? あの時の会長の問いに」


「……貴方も人は自由だって言うの?」


 諦観の淵で彼女は言った。

 彼女はもう諦めたのだろう。すべてを諦め、運命を受け入れる。それが彼女の考え続けた末の結論なのだろう。


 けれど、だというのなら――僕はその結論を覆さなければならない。

 思い込みを覆し、前提を覆し、常識を覆す。


「いえ、人は自由ではないんだと思います」


「だったら――」


 だからまず、彼女のその落ち着き払った諦観をぶち壊すために、


「その人がそう思っている限りは――ですが」


 僕は太々しくそう言った。


「なっ――⁉」


 会長の顔が驚愕に歪む。

 それもそうだろう。冴えない下級生から突然、あんたがそう思い込んでいるだけでしょ的なことを言われたのだ。温厚篤実な会長と言えど、黙ってはいられまい。


 実際、会長は今までにないほどの勢いで、血相を変えて詰め寄ってきた。


「貴方は私が……私が勝手にそう思い込んでいるだけだって言いたいの⁉ ふざけないでッ‼ 私は――‼」


 その鬼気迫る迫力は予想通りだったとはいえ、ちょっと怖い……。


「ち、違います! 違いますから‼ 落ち着いてください」


「……だったら、なにが言いたいの?」


「会長が、じゃなくて、全ての人がって言いたいいんです」


「全ての人が勝手に思い込んでいると? 独我論的な話をしたいの? 貴方は?」


「そう……なんですかね?」


 独我論。どこかで聞いたような気もするけれど、うまく思い出せない。


「貴方ね……」


 彼女は呆れたような表情を浮かべる。

 いやでも、仕方ないんですよ?

 調べる時間なんてそうはなかったし。図書館で数冊、哲学系の本を読み漁った程度じゃたかが知れているのだ。

 僕は喉を鳴らして誤魔化した。


「悠月会長は『実存は本質に先立つ』って言葉は知っていますか?」


「サルトルの言葉でしょ? 実存主義の」


 サルトルさん。……うん、確かそんな名前だった。図書館で読んだ内のひとつにあった言葉――『実存は本質に先立つ』を提唱した人だ。


 ハサミという物は、切るという本質が先立ち、その後にその本質を持った状態で作られる。つまり、本質が実存に先立つ。だけど、人は生まれた瞬間にその人の本質が定まっているわけじゃない。だから人について言えば、実存は本質に先立つ。


「人の本質は生まれながらには決まっていない。だから運命なんてないと――そう言いたいの?」


 会長のいう通り、この言葉はよく運命の否定に使われる。自分の人生は自分で決められる。そんな前向きでヒューマニズムっぽい言葉だ。


 でも――


「いえ、そうじゃないんです。僕、この言葉を初めて知った時思ったんですよ。『実存は本質に先立つ』――のなら、その本質はただの都合のいい後付けで、嘘っぱちに過ぎないんじゃないかって」


「えっ?」


 意外そうに彼女は目を丸くする。


「だってそうじゃないですか? 後付けできるなら、いくらでも都合のいいものを見繕えるわけですし。それはまあ、それが理想だとは思いますけど、さすがにそれは嘘っぽい。それに――人は変わるものだと思うんですよ。僕だって数ヶ月前の僕の本質と、今の僕の本質が同じだとは思えないですしね。でも、それが必ずしも一定なものではないんだっていうなら、それはもう『本質』だなんて言えないじゃないですか?」


「それは……私もそう思うけれど……」


「だとしたら、人の本質ってなんなんでしょうか?」


 それがずっとわからなかった。

 人の本質。その人の生きる理由。役割。目的。

 それが初めから決まっているとするのが、決定論的な――つまり、運命を肯定する考え方だ。


 翻って、それを否定するためには、人の本質は後から生まれてくるものだ、としなければならない。けれど、それだと都合のいい後付けになってしまうだろう。

 前者がその人の人生を総括し、本質を見定めるのに対して、後者はその人の現状を見て、その本質を定める。つまり、その人が死ぬまでずっと本質は変化し続けてしまう。


 それじゃあもう『本質』なんて呼べない。

 だからと言って、その人の本質は死んだ後に定まるとしてしまうと、今度は人は自分の本質を一生理解できないことになってしまう。

 それでは駄目なのだ。

 僕たちの生に意味がないのなら、結局運命とさして変わらない。


「ところで――悠月会長は暁さんってどんな人だと思いますか?」


 僕がそう問うと、会長はあからさまに嫌そうな顔をした。


「……唐突ね」


「参考までに。お願いします」


 僕が重ねて訊くと、彼女はため息をついてから答えた。


「……嫌になるほど優秀な姉よ。大体なんでもそつなくこなすし、私と違って要領もいい。そのくせ、周りの人の目も、意見も、まったく意に介さず自分の欲求を叶えることを最優先にする。――馬鹿みたいに自由な人」


「ああ、やっぱり」


「なに?」


「僕と大体同じです。暁さんへの認識」


「そう。でも可笑しくはないでしょう。あの姉さんのことだもの。うちの学校の生徒に訊けば、十中八九、同じ回答が返ってくるわよ」


 僕もそう思う。

 そしてだからこそ――


「それは可笑しいんですよ」


「……どういうこと?」


「例外なんてないんです。運命を信じるなら、全ての人間は等しく自由であってはならない。でも、僕たちは思ってしまう。先輩は、暁さんは自由な人だと。これって矛盾ですよね?」


「それは……」


「どうして僕たちは彼女が自由だと思えるのか? 彼女はどうして自分が自由だと思えるのか? たぶん、これは同じ理由なんだと思います」


「それは……なんだって言うの?」


 先輩が言った自由の定義。それが僕をこの答えへと導いてくれた。


「彼女の――行動ですよ」


「行動?」


「ええ、そうです。たとえば、僕が東大に合格したいと考えたとするじゃないですか」


「ちょっと待って」


「え? えっと、なんですか?」


「それは流石に無謀じゃない? 貴方の学力は結構やばいって姉さんが言ってたわよ」


 なんてこと教えてるの、先輩っ⁉


「いやまあ、それはそうなんですけど……とりあえずそこはスルーしてください。例え話ですから」


 気を取り直して僕は続ける。


「この時僕は、物語を持っています。つまり主体を持ち――」


「望みを持っていると?」


「はい。でも、まあその……会長のおっしゃる通り、かなり無茶な望みで、たぶん自分ですら信じることはできないでしょう。『東大に受かる』。この目標はどこまでも欺瞞的で、自分ですら騙せない程に嘘っぽい」


 自分はそんなに優秀な人間じゃない。明らかに高望みだ。無理に決まっている。

 そんな考えが常に頭をよぎる。

 結局のところ信じられないんだ。自分で望んだ未来の景色を、なにより自分が信じられない。


「だから――行動が大事なんだと思います。自分を騙すために、自分を信じさせるために、まず初めに行動することが必要なんですよ」


 会長は僕の言葉を頭に溶け込ませるように目を閉じると、しばらくの間口をつぐんだ。

 そうして、自らの中で整理を済ませ、彼女が再び目を開くと、哀しそうな瞳で僕を見つめた。


「じゃあなに? 姉さんが自由なのは――自由に見えるのは、ただの嘘だと言いたいの? ただ姉さんが、そして私たちが、そう信じているだけだと」


「はい、そうです」


「……そんなことを私に伝えたかったの? 姉さんのあの態度も行動も、偽物だって、欺瞞に過ぎないって、そんなことを……」


「ええ、でも――偽物だから悪いってことはないと思うんです」


「えっ……?」


 彼女は子供みたいに呆けた声を出した。


「だって、言ってしまえば、この世にある意味はなにもかも後付けで嘘っぱちじゃないですか。法も言葉も思想も数学も、全部人が作り出したもので、なにひとつとして正しいと言い切ることなんてできない。なにせ、それが正しいって言ってくれるのは、同じ『人』だけですし。そんなの証拠にもならないでしょ? でも――それらが無駄だとは僕は思いません。それらが不変の真理ではないとしても、悪いことだとは思いません」


 人は自分を演じる、と言う。

 確かにそれは的を射た言葉だ。

 初めからは本質を持ち得ない僕たちは、自分を演じる他にないのだと思う。そしてそれは、どうしても初めのうちは嘘くさく、ぎこちない。さながら小学生の演劇のように。


 けれど、人は少しずつ慣れていくものだ。素人丸出しの初心者がいずれは熟練の役者になるように、僕らはゆっくりと自分の在り方を理解する。

 ズレていた意識と行動が、何度となく繰り返すうちに違和感なく一致していく。

 しかしそれは、どう言い繕ったところで偽物だ。ただの後付けで、思い込みでしかなく、本質なんかでは決してない。


 それでも――たとえそれが偽物だったとしても、果たしてそれが悪いことだろうか?


 ――いいや、そんなことはないはずだ。


「僕が初めてこの神社に来た時、まるでここから物語が始まっていきそうな場所だなって思いました。なんて言えばいいのか、僕もはっきりとはわからないんですけど、静謐で神聖な雰囲気があって、どこか心が落ち着いていく。だから僕は、この場所が実はすごく好きだったりします」


 なんだかもうずっと前のことのように思える。

 精々半年ほどしか経ってないのに。


「でも――実際にあるのは、言っちゃなんですが、小さなボロい神社だけです。他人が見たら、なにも感じないかもしれない。それどころか薄汚いとさえ思うかもしれません。だけど――たとえ真実そうだったとしても、僕のこの気持ちは変わらないし、変えられない。この胸の内にある意味だけは、ずっと僕だけのものなんです。――偽物か本物かなんて、些細な問題じゃないでしょうか? だって、そうでしょう?」



「僕らは――スクリーンに映された星空すら、美しいと思えるんですから」



 途方もなく無意味なものに僕らは意味を見出せる。初めから意味があったんじゃない。意味を僕らが付けるんだ。


 それはただの信仰なのかもしれないけれど。


 真理なんてものとは程遠いただの願いでしかないのかもしれないけれど。


 それでも――僕はそれでいいんだと思う。


 僕は正確無比な機械になりたいわけじゃない。なにかに操られている意志なき人形になりたいわけでもない。


 僕はたとえちっぽけな存在でしかないとしても、人間でありたいんだ。


 自由で、独りよがりで、ろくでもない。

 そんな人間でありたいのである。


 なんとも笑ってしまえる結論だけれども、この答えが今の僕の全てだった。


「……」


 彼女はゆっくりと空を見上げた。

 その瞳は遠くを見つめている。

 夜空に輝く星々を。

 中天にかかる穏やかな月を。

 なにかと比べるようにじっと凝視している。

 それは一瞬であったようにも思えたし、ひどく長いことそうしていたようにも思えた。


 ただ、不意に、視線を落とすと、独り言のように小さく言葉をこぼした。


「無理よ……」


 失意の底へと崩れ落ちるように。

 力なく、項垂れて。


「私が……本当は自由なのだとしても、望めば私も姉さんのようになれるのだとしても……今更、みんなを裏切ることなんてできないもの」


 許しを乞うように。

 涙をこらえて。

 彼女は言う。


「だから……ごめんなさい……」


 それは彼女からの決別だった。

 考えた末の彼女の答え。

 覆すことのできない最後の結論。

 僕にはもう――どうしようもないもの。


 だから僕は――ただただ安堵していた。ただただ感謝をしていた。

 彼女が最後まで優しい人間であったことに。


「――僕は知っています。会長が背負っているものが決して軽くはないことを。僕は知っています。会長が背負っているものを決して放り出さない人であることを。ただ、それでも、僕は諦めません。僕は僕の望みを押し通します!」


「な、なにを言っているの?」


 困惑しきった様子の会長を尻目に僕は言う。言ってやる。

 なによりも自分を変えるために――


「だから僕に――責任を取らせてくださいっ‼」


 ――責任。

 それは僕の自由の証明だ。

 この行為が他の誰でもない僕の意志の結実であることの証明。

 しかし、それは同時に最低限の対価でもある。

 彼女の人生を無茶苦茶にする、彼女の運命を打ち崩す対価としては、頼りない元手だけれど、僕が差し出せるものはこれしかなかった。


 僕にとって実に体のいい交渉。彼女にとって割に合わない取引。

 当然、彼女からは否定的な言葉が出てくるか、あまりにも都合のいい提案に対して渋い顔をされると予想していたのだけれど――思わぬことに彼女の顔は真っ赤に染まっていた。


「な、ななな、なにを言ってるのっ⁉ 貴方は!」


 これは怒っている……のかな?

 それにしては目がキョロキョロと泳ぎまくっているけれど。


「まあ、その……手前勝手なことはわかっているんですが、会長に自由部へ戻ってきてもらう対価として、責任を取らせて欲しいんです」


「せ、責任って、なにを言っているのかわかってるの? 貴方は姉さんと……ってそれ以前にどうして急にそんな話になるのよっ⁉」


 いまいち噛み合わない言葉の応酬にお互いに困惑していると、業を煮やしたのか草むら声が上がる。


「はいはい、カット、カァーーーートッ‼」


「ね、姉さんっ⁉」


 木々の間から飛び出してきた人影は、暁さんのものだった。そしてその後には、さらにふたつの人影が続く。


「愛美ちゃんに、彗ちゃんまで……どうしてここに」


「ども」『ユーちゃん、久しぶり』


 突然の展開に悠月会長は困惑の声をあげる。

 この場をセッティングした僕としては、勿論想定通り……ではなかった。


 なにやってるんですか、先輩⁉ 打ち合わせと全然違うじゃないですかッ‼ 予定ではもっと後に出てきてもらうはずだったのに‼


 諸々の予定を台無しにした張本人である彼女は、ずいずいっと僕の目の前までやってくると、


「他人の妹を誑かすんじゃないよ。まったく油断も隙もあったものじゃないね」


 僕の胸に指を押し当てながら糾弾するように言ってくる。


「誑かしてなんてないですよっ⁉ ってか、一部始終を見てたならわかるでしょ‼」


「見てたから言ってるんだよ!」


 いや、なんでだよッ⁉ 誑かし要素ゼロだったでしょ、今の⁉


「君をそんなふうに育てた覚えはないっ!」


「そもそも育てられた覚えがねぇよ⁉」


 訳がわからなかった。

 最近はようやくと、彼女の不可解な行動を理解できるようになってきたけれど、未だに未知数なところが多すぎる。


「じゃあ、多数決を取ろう。彼が有罪だと思う人は挙手!」


 彼女は突然そんなことを言う。

 馬鹿馬鹿しい。そんなもの誰も手をあげるはずないじゃないか――そう思っていたのだけれど、何故だか僕以外全員の手が上がった。


「うん、まあこれはギルティ」「えっと、そうね。有罪……だと思うわ」『うん、有罪。判決、死刑』


「えええェ⁉ ってか、判決重すぎませんかっ⁉」


 謎だった。

 僕がなにをやったって言うんだ?


「一応、訊いておくけれど、君はどうやって責任を取る気だったんだい?」


 やれやれと呆れたような物言いで彼女は言う。

 実に納得がいかない。


「それは勿論、労働力としてですよ。正直、政治家っていう職業が、どういうものなのかなんて僕は分かりませんが、それでも一人で全部できるものでもないでしょう? 事務的なこととか、専門的な知識とか、サポートできることはいろいろあると思うんです。そりゃ、今の僕じゃなんの役にも立たないかもですけど、それはこれからカバーしていくつもりで。一応……まあ、これを成果として挙げるのは、ちょっと微妙かもしれないですが、期末試験でも九位までは順位を上げられましたし。この調子で努力を続ければ、会長が行くようなレベルの大学にも滑り込めるかもしれません。そしたら、多少は戦力になれるでしょう?」


「随分と見込みが甘いねぇ」


「……それはわかってますよ、自分でも。だけど、やるんです。それが僕の望みだから」


「ふむ。つまり、まとめると、君は悠月が部へ戻ってくる対価として、自分の労働力を提供する――と、言いたいわけだ」


「はい」


「そうか。まあ、一度落ち着こう。そして、前提条件をすべて捨てて考えてみてくれ」


「えっと、なにをです?」


「男が女に対して責任を取ると言った場合、普通どういう意味だと思う?」


「責任を取る? それは、まあ――」


 その先は続かなかった。

 言葉の綾。日本語の妙。言い訳は数あれど、喉から這い上がってくるのは、間抜けな吐息だけだった。

 そう。僕は遅まきながら気づかされたのだ。

 身悶えするほど恥ずかしい自分の失言に。


「あ、いや、その、そういう意味ではなくてですねっ⁉ あー、えーと……――」


 悩んだ挙句。


「日本語って難しい、ですよね……」


 そんな言葉しか出てこなかった。

 四人分の冷めた視線が僕の体を容赦なく貫く。


「で、でも、その……力になりたいっていうのは本当で。僕は頼りないかもしれないですが、受け入れてもらえれば、会長にとっても大きな利点がひとつはあります」


「ふーん。なにがあるの?」


 心なしか目の据わった会長に、僕はユーモアたっぷりに言う。


「漏れなく暁さんが付いてきます」


「……ちょっと、君? 人をセットのおまけみたいに言わないでもらいたいね」


 しかしこれには当然、先輩が反応を示した。


「それに、随分と自分勝手なことを言っているけれど、私がどうして君に協力しなければならないんだい?」


「自分は関係がないと?」


「違うかな?」


 揶揄うような、はたまた試すような声音で先輩は言う。

 けれど、そんなハッタリはさすがにもう通じない。


「勿論、違いますよ。巻き込まれたのは先輩ではなく、僕ですし。先輩には責任を取って貰わないといけませんので。ここは確定事項です」


「責任か……ふふっ、なら仕方ないね」


 あっさりと彼女は言った。


「ちょっと、姉さんっ⁉ どういうこと‼ 散々、我関せずを貫いてきたくせにっ、どうしてそうもあっさりと引き受けるのよ⁉」


「しかしね、悠月。仕方ないだろう? 彼の言う通りさ。私が優人くんを巻き込んだんだ。だから元々、しっかりその責任は取るつもりでいたんだよ。まあ、責任の取り方は少し想定外なところもあるけれど、それを彼が望むなら私が断る理由なんてひとつもない」


「で、でも……」


「どうですか、会長? 僕と暁さんが二人でサポートするんです。十分魅力的と言えるんじゃないでしょうか?」


 僕は『僕と暁さんが二人で』という部分を殊更強調して言った。それは勿論、会長に対してのアピールという側面もあったのだけれど、それ以上に他の二人に――夕星さんと小箒さんの二人に向けての言葉でもあった。


 ここから先は完全な賭けである。

 でも、まったく勝算がないわけでもなかった。彼女たちならばきっと同じ未来を見てくれる。僕はそう信じていたんだ。

 すると間もなく、「わたしも……」という言葉と同時に僕の右袖がぐいっと引っ張られる。


「え、えっと……小箒さん?」


『わたしも責任とってもらう』


 むすっとした顔で彼女は言う。

 なんで不機嫌そうな顔をしているのかはわからないし、少し引っかかる言い回しだったけれど、それは願ってもないことだった。


「小箒さんも手伝ってくれるの?」


『仲間外れはよくない。優人に責任とってもらう』


 ……うん。有り難くはあるんだけれど、僕の失言をあげつらうのはやめてくれない? 二度目だよ?


「んじゃ、あたしも責任とってもらおうかな?」


「夕星さんっ⁉」


 彼女はニヤニヤとあからさまに面白がっている様子だった。けれど、そこから一転して真面目に言う。


「ま、手に職つけろって親からは言われてるけど、逆に言うとそれだけだし。結構有望な就職先じゃん? 知ってる奴ばっかだから楽でいいし」


「でも、二人ともそんな簡単に……」


 バチンッ――‼ と、言いがけた言葉を背中への平手打ちで封殺される。


「いいツってんだろ。くどいッつの!」


 痛いっ! 痛いから、お願いだから加減して!

 僕はどうにか持ち直して会長を見据えた。 


「……えーと、予期せず人数は増えましたが、どうでしょうか、悠月会長。僕ら四人、役に立ちませんか?」


 僕がそう言うと、会長は複雑そうな表情を浮かべた。

 しかしそれでも、彼女は首を縦には振らない。


「そんなことできないわよ。みんなを巻き込むことなんて……」


 会長は――やはり優しい人だ。

 ここまできても、僕らの選択を、その選択の結果をどこまでも憂慮してくれている。自分の方が余裕はないだろうに、どうしたらそこまで他人に優しくあれるっていうんだろうか。僕には真似できそうにもなかった。


 しかし――その考えは間違っていると、そう思う。

 僕はそれを否定しようかと口を開いたのだけど、


「悠月。勘違いしてはいけないよ」


 僕より先に暁さんが間髪入れずにそう言った。


「物事は決して君を中心に回ってなんていないんだ。私たちはなにも考えない木偶の坊ではない。この選択の困難さをみんな理解して言っている。その覚悟を、その自由な意志による選択を、否定してはいけないよ」


 その様は、泣きじゃくる妹をなだめる姉のようだった。

 この二人が姉妹であることを。

 暁さんが悠月会長の姉だと言うことを、僕は初めてここで実感した。


「姉さん……」


 縋るような視線。不安げな声音。

 先輩はそれに軽く微笑みを返すと、


「悠月。それにね――」


 子供をあやすように会長の頭を軽く撫でる。


 そして――


「世界はすべて――君ではなく」


 声高に宣言した。


「この私を中心に回っているんだ――ッ‼ 勝手に主役ぶるのはやめて貰おうかっ!」


 その時の先輩の笑顔と言ったらもう、燦々と輝く太陽のように曇りなく、無駄にいい顔が本当に忌々しかった。

 その場にいる全員から白けた目が向けられる。

 悠月会長はこめかみに手を当て、大きくため息を吐いた。正直同情を禁じ得ない。


「……もういいわ。勝手にして」


「い、いいんですかっ?」


 思わぬことに許しがでた。僕なら絶対に食ってかかるけど?


「姉さんがやる気になった時点で、私ではもうどうしようもないもの。それに……私にとっても決して悪い話ではないしね」


 どこか吹っ切れた顔で会長は言った。


「そんなことより貴方は自分の心配をしなさい」


「自分の、ですか?」


「貴方が一番大変なのよ? 勉強、死ぬ気でやらないと私たちと同じレベルの大学なんて夢のまた夢なんだから」


「うっ……」


 痛いところを突かれて、声が漏れる。

 そうなのだ。この展開で一番大変なのは僕なのである。まあ、自業自得なんだけれど。


「それね。今回のテストの成績が良かったからって調子乗んなよ? 前回なんて三桁台なんだから、学力の基礎はガタっガタっだかんね?」


 夕星さんの容赦ない追撃。事実を陳列するのはやめてください。一番辛いです。


『優人の学力はひのきのぼうレベル』


 ……それ最弱武器だよね? 小箒さん?


「さすがにそこまで貧弱じゃないと思うんだけど……」


『……それじゃ、たけざお』


 それもう武器じゃなくない?


「言い出しっぺのくせして、一人だけ浪人だなんて格好の悪いことはやめてくれよ、優人くん?」


 先輩からの冷やかしに対し、


「も、もも、勿論ですよ……」


 そう返答する僕の声は、自然とガタガタ震えていた。


 

「つ、疲れた……」


 僕はあれからというもの、勉強漬けの毎日を送っていた。平日は部室で、休日は僕の部屋で、連日勉強、勉強、勉強である。

 暁さんに悠月会長。それから夕星さんと小箒さん。四人に囲まれて永遠と情報を頭に詰め込まれ続ける、そんな日々だ。みんなが手伝ってくれることは心強いことこの上ないし、みんなでこうして居られることは僕の望みでもあったのだけれど、さすがに少し疲れてしまった。


 だから、ちょっとばかりの小休憩。

 部室を抜け出し、部室棟前の自販機で飲み物を選ぶ。

 ブラックコーヒーにするか、微糖にするか、いやいっそ炭酸系という選択肢も?

 などと考えていると、


「私はお茶でいいよ」


 背後から先輩の声がする。


「しれっと買わせようとしないでくれます?」


「そのくらいの甲斐性は見せておいた方がいいんじゃないかい? モテないよ?」


「バイトもしてない高校生に甲斐性を求めないでください」


「ははっ、違いない」


 先輩はからっと笑うと、なんでもないように続けた。


「しかしそれにしても、美少女を侍らしてハーレムを作りたいだなんて、君も存外業が深いね」


 …………ん?


「はぁ⁉ そんなことイチっっミリも思ってないですけどっ⁉」


 突然の暴言。風評被害も甚だしい。ふざけて言っただろうと思ったのだけれど、


「あれ? 違うのかい?」


 意外そうに先輩は目をキョトンとさせる。

 先輩の中での僕のイメージって、一体どんな風になってるんです?


「違いますよ。というか、どうしてそうなるんですか?」


「どうしてもこうしても、客観的に自分を見てみたまえ。周りは魅力的な女性ばかり、しかもこの前囲い込み宣言をしたばかりじゃないか? 他の男子生徒諸君はさぞ、ほぞを噛む思いだったろう」


「囲い込み宣言?」


「違うのかい? あの場にスイや愛美を呼んだのは、始めから巻き込むつもりだったからだと思ったんだけどね」


「それは……そうですけど」


 やっぱりそこはバレてるのか。


「いまや、私たちは一蓮托生だ。それは当然、高校を卒業した後も、どころか大学を卒業した後でさえ続いていくだろう。君はそれを望んでいるんじゃないかと思ったんだけどね?」


「いや、それでどうして侍らせる云々になるんですかっ!」


「ふむ。なら、君は一体なにを望んでいるんだい?」


「あ、いや、それは……」


 流れ的に自然な疑問。

 できれば言いたくはないのだけれど、ここで黙っていたところで、勘のいい先輩のことだ。最終的にはたぶん知られてしまうことになるだろうし、変に言い渋ると、後で逆に恥ずかしい思いをするかもしれない。

 そこまで考えて、僕は意を決して言った。


「笑わないでくださいね……」


「それはものによるかな?」


 嘘でも笑わないって言ってくれませんか?

 喉まで上がってきた言葉を今更飲み込めず、僕はそのままそれを吐き出した。


「……僕は、その、これまでずっとあちこち転校してばかりで、友達っていうのがほとんどいなかったんです。だから、その……みんなと過ごす時間がすごく楽しくて。でもだからこそ、進路のことを考えようとすると、この時間もそんなに長くないんだって、そう気づいて。どうしようもなく寂しくて、怖くて、その先の未来を考えたくなかった」


「だから、みんなで居られる未来を望んだわけだ」


「……そうですよ。自分が今、なにを願ってるんだろうって考えてみたら、それしか出てきませんでした。野球選手になりたいとか、医者になるとか、そういう将来の夢らしい答えは僕の中にはなくて、そんな甘ったれた未来しか見えなかったんです。悪いですか?」


「ふふふっ、ふふふふはははは――――‼ 悪いだなんてとんでもない。素晴らしい答えじゃないか!」


 爆笑しながらどの口で言ってるの?


「実に傲慢で、それでいて覚悟の伴った――いい答えだよ。実に私好みだ。ふふっ、優人くん。改めて訊かせてくれないかな? 私と付き合うつもりはないかい?」


「え、いやないです」


「即答ッ⁉」


 酷いなぁ、と拗ねるように先輩は膨れっ面を晒す。

 いや、今までの自分を見直してきてくださいよ? 貴方の方が結構酷いことしてますからね? 


 しかし、それでもまあ――少しばかり感謝の念があるのは確かだった。付き合うだなんて出来ないけれど、返礼としてこのくらいのことは言っておくべきだろう。


「ただ、これだけは約束しますよ」


「ん? なんだい?」


「誰かを好きになるなんて、今の僕にはまったく想像もつかないことですけど。ただもし――僕が人を好きになるその時は、それは運命なんかじゃありません。それは絶対に僕の意志です。これじゃ、不足でしょうか?」


 僕が問うと、先輩は嬉しそうに笑みを浮かべる。


「ふふっ、いや重畳だよ。素晴らしい。しかしね、君。そんなことを私に言っても良かったのかい?」


 言って良かったのかって? ……どういうことだ?


「あの、どういう意味で――?」


 素朴な疑問を口に出す。

 けれど、それを言い終わる頃には僕は自分の失態を悟っていた。

 すごく見覚えのある彼女の表情。獰猛で、狡猾で、獲物を決して逃さない狩人のような彼女の笑み。


「もう私からは逃げられないよ――?」


 僕の波乱はまだまだ終わりそうになかった。




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自由なろくでなし達の実践的な青春批判 湊川つくも @m_tukumo

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