第32話

「いや、だから……違うって言ってんじゃん? それはこっちの公式使うんだって。そろそろ覚えろ?」


「ご、ごめん……」


 期末試験を目前に控えた日の放課後。

 僕はここ数週間そうしてきたように、部室で二人に勉強を教わっていた。


『違う。discussは他動詞。助動詞じゃないから、そうは続かない』


「えっと、他動詞ってなんだっけ?」


『……昨日もそれ教えた』


「あの、ほんとごめん……」


 自分のことながらあまりの覚えの悪さに、呆れ果ててしまいそうになる。

 自分がなんの才能もない人間だなんてずっと前からわかっていたつもりだけれど、こうして目の当たりにしてみると思ったよりも苦しいものだった。


 ただ、それでも――部活の時間と、自由時間のほとんど全てを勉強に注ぎ込んだおかげか、前より幾分かはマシになってきた……はずだ。

 ……そう思いたい。

 というか、そうでなければ、ここまで協力してくれている彼女たちに申し訳が立たない。


 勉強を教えて欲しいと頼んだ時に、なんでもないことのように受け入れてくれた二人。彼女たちにしても、勉強なりなんなり、やらなきゃいけないことや、やりたいことが沢山あるはずなのだ。

 それなのに、こうして夕星さんも小箒さんも僕のわがままに付き合ってくれている。


 感謝しかなかった。

 そして同時に、僕の望みを是が非でも叶えたいという欲求も強くなっていった。

 正直勉強は辛いし、唐突にくる猛烈な眠気や、ゲームや漫画なんかの誘惑を断つのは至難の技だったけれど、未来のためを思えばなんてことはない。


 ……いや、なんてことはないは言い過ぎでした。

 すみません。ぶっちゃけ滅茶苦茶しんどいし、何度も挫けそうになった。

 たかが数週間、されど数週間だ。


 今まで勉強をする習慣なんて皆無だった僕にとっては、比喩ではなく拷問のような日々だった。けれど――どれだけ僕の脳が逃げ出したいと叫んでも、最後までやり遂げなければならないだろう。コーヒーを喉に流し込み、眠気覚まし用のタブレットを噛み砕き、それでも舟を漕ぎそうになったのなら椅子から立ち上がってでも、僕は僕の目的を成し遂げる。


 きっとそれが、自由であるということなのだから――


「ほら、ボケッとしないっ!」


 夕星さんの平手打ちが僕の背を強かに打った。

 教わっている最中に上の空だった僕が悪いのだとは思うのだけど、あの……本当に痛いんで加減してもらえませんか?


 ひりひりと痛む腰に手を当てさする。服を捲ったら赤くなっていそうだった。

 と、そこで、鞄の中に入れていたスマホがブー、ブーと着信を知らせてきて、僕は慌ててスマホを取り出した。


「暁?」


「うん、そうみたい。ちょっと話してくるね」


 僕は夕星さんに断りを入れて部室を出る。

 その場で話しても良かったんだけれど、二人には僕のやろうとしていることの詳細をまだ話せてはいないし、なんとはなしにこそこそしてしまう。

 廊下に出て、申し訳程度の距離を取った後、僕は応答ボタンを押した。


「はい、もしもし?」


『やあ、優人くん。愛しの私だ!』


 いや、愛しのって……

 スマホ越しでも相変わらず暁さんは暁さんのままだった。音声通話なのに、あの不敵な笑みがありありと頭に浮かんでくる。


「そういうのはいいので……」


『……つれないなぁ。君はまったく、そういうところは本当に変わらない』


 ……先輩にだけは言われたくないです。


「それで、あの……頼んでいた件ですが……」


『ああ、そっちの方はちゃんと悠月に伝えたよ。期末試験の結果が出る日の放課後に、あの神社で君が話をしたいってね。それはそれは大事な話だから、しっかりおめかしして行くように――とも悠月には言い含めておいたよ。感謝したまえ!』


 おめかし?


「いや、別に着飾ってもらう必要は――」


『なにを言う。眼福だろう? 想像してみたまえ! 我が妹の艶やかな衣装を! バニー服など着させたら、きっと似合うに違いない』


 一瞬、やたらと扇状的な会長の姿が思い浮かんで、僕は慌てて頭を振る。

 っていうか、この季節にそんなの着てたら凍え死ぬわ⁉


『……一応言っておくけど、浮気は駄目だよ?』


「な、なんの話ですかっ⁉」


『ははっ、育てた魚を横から掻っ攫われてはたまらないって話さ』


 本当になんの話だよ⁉


『そうだ。ひとつ君に訊きたいことがあるんだった。いいかな?』


「……なんですか?」


 改まった調子で訊いてくる暁さんに、僕は少し警戒しながら言葉を促す。


『こうして手を貸しているわけだからね。君のやろうとしてることは概ね想像がつくよ。君はあの子を――悠月を救いたいんだろう? 運命に雁字搦めになっているあの子をその軛から解き放ちたいと考えている。そこまでは理解できるさ。ただ――少しだけ腑に落ちない点もある。君、最近は随分と勉強に精を出しているようじゃないか。私の記憶ではあまり勉学は好きではなかったと思うのだけどね。その急激な心境の変化どこから来たものなのかな? ――いや、これだとちと回りくどいか。もっと直球に訊いてしまおう。君は――一体なにをするつもりなんだい?』


 そう問う彼女の声音はさっきまでの軽口が嘘のように重くて、僕は少し言葉に詰まる。

 だけど――答えは既に出ているんだ。

 なんてこともない。ごく当たり前の答えが。


「僕は――僕のしたいことをするだけです」


 そう告げると、彼女はしばらく黙り込んだ。


 誰もいない廊下に僕の声が木霊する。

 一秒、二秒と沈黙が続き、僕は少し不安に駆られたけれど、その直後に揺り戻しがやってきた。


『ははははっ‼ ちょっと君、それじゃ答えになってないじゃないか‼ はははっ‼』


 爆笑である。

 ……うん。自分で言っていて、これは伝わらないのでは? とは思った。

 だって、明らか婉曲すぎるし。やや狙い過ぎた感もある。

 しかし、それにしたってだ。

 そんなに笑わなくてもいいと思うんだけど?

 彼女はひとしきり笑うと、ひとつ喉を鳴らした。


『……でも、そうだね。これ以上は無い答えだ。君は主体を得、望みを得たわけだ。なら、あとは――その答えを見せて貰おうか。ふふっ、楽しみにしているよ』


 通話はそこでプツッと切れる。

 ――楽しみにしているよ、か。

 果たして僕の答えは、彼女のお眼鏡にかなうだろうか?

 少しだけ考えてしまう。


 いやまあ、彼女の評価を気にする必要なんて基本的にはないのだけれど、それでも僕が今の僕になった直接的な原因は明確に彼女にある。その変化が良い変化だったのか、悪い変化だったのかは置いておくとしても、その彼女に認められたい気持ちは少なからずあった。


 そしてだからこそ――こうしてはいられない。


 道はまだ半ばなのだ。

 僕は古典的な作法に則って、頬を両手で叩き気合を入れると、また部室へと戻った。



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