Platonic(プラトニック)

ヒニヨル

『Platonic』

 彼に会うのは、私の生まれ月である六月がぴったりだと思った。梅雨時の今にも雨が降り出しそうな曇天は、普段は誰にも見せない心の景色と同じ。


 私は、何かについて深く悩んでいる訳では無い。家族との関係も良好だ。

 でも、無性に漠然とした孤独のようなものを感じてしまう。


 彼は、この得体の知れない不安と悲しみを、言葉でうまく言い表すことが出来なくても感じ取ってくれる唯一の存在だ。


 二度と会わないと決めてから十年。彼と私は心の距離が近すぎたから、結婚を契機に接触を控えていた。


 再び連絡をするようになったのは、ここ最近の事。日常のふとした隙間に、彼を思い出す。

 頑なに誘いを断ってきたのに。彼に会ってみようと思った。

 

 ※


 朝八時。家族は皆出かけてしまって、私が一人になる時間。昨夜四回目の洗濯をしたというのに、今朝洗濯カゴを見るとまた溢れそうになっていた。


 先日彼から電話があった。単身赴任先から、家庭の事情と仕事のため、一時的に地元に帰る予定がある、と。


 化粧を手早く済ませて時計を見た。八時四十分。まずい。待ち合わせ場所は、家から一番近い最寄駅では無く、隣の駅にしている。

 今朝、彼から「九時に迎えに行くつもりで準備している」と連絡があった。

 これから洗濯物を干して——最寄駅に向かって、電車に乗る。間に合わない。

 私は「遅れそうだ」と、メッセージを送信した。


 大急ぎで用事を終わらせて家を出る。最寄駅に到着した頃に「仕事しとるからええよ」と返信があった。私は待たせて申し訳無いなと思いつつも、彼だから、まあいっかと開き直った。


 隣の駅に到着すると、スマホを押し当てて足早に改札を出た。ところで、私はとてつもなく方向音痴だ。「東口に車を停めている」と言われて、案内板を見ながら出たはずが間違えてしまったらしい。私は電話を掛けた。


「もしもし。近くに着いたよ」

「バスターミナルは見える?」

 彼が私に尋ねる。

「無いよ、私反対側にいるみたい。そっちに向かうね」

 

 歩き回っていると汗ばんできた。

 先週の天気予報では、今週は雨だと言っていた。でも今朝のニュースを見ると、晴れマークばかり。見上げた空には雨の気配が全く無い。

 日差しに背中を焼かれながら歩いていると、彼の車を見つけた。身体に少し緊張が走る——会うのは十年ぶりだから。


 近づくと、車の窓が開いていたので「久しぶり、乗っても良い?」と外から声を掛けた。「どうぞ」と高めの男性の声が返ってくる。私は助手席に乗り込んだ。


「兄貴、遅刻してごめん」

 彼の姿を見て、すぐに目を逸らした。

 しっかり見なかったけれど、あまり変わっていないように感じる。今も鍛えているのか相変わらずガタイは良いし、明るくハッキリよく通る声も健在だ。安堵する感覚と、照れくさい感情が混ざり合った気持ちになる。


「ほんまや。こっちも遅刻しかけて高速飛ばしてきたっちゅうのに」

 懐かしい、揶揄からかうような口調だ。

「それにしてもこの車、暑くない?」

 シートベルトを締めながら聞くと、彼は困った様子で言った。

「久しぶりに自分の車に乗ったら、エアコンが効かんのよ。後で修理に出してくるわ」

「暑いのに熱風しか出ないって」

 私は思わず笑ってしまった。


 私は彼の事を“兄貴”と呼んでいる。そう呼んでいるけれど、実の兄弟では無い。初めて会った時、男らしくて頼り甲斐があったから、何となくその場のノリで「兄貴って呼んでもいい?」と慕ってからずっとそうだ。

 彼は私のことを、下の名前をとって「◯◯ちゃん」と呼ぶ。五歳年下である私の事は、妹分のように感じているらしい。


「さて、どこに行く?」

「兄貴は朝何か食べた?」

「遅刻しそうになったから、俺は何も食ってないちゅうねん。そやのに誰かさんは遅刻してくるし」

 私が笑いながら「ごめん。めっちゃ根に持ってるやん」と言うと、「何遍なんべんでも言うたるわ」と彼はおどけた。

 

「まあそれは冗談で。俺も仕事しとったし、ええんやけど。とりあえず行こか。……ところで、もっと顔、ふっくらしてなかった?」

 彼の視線を感じて、恥ずかしさから外の景色を見つめた。

「あの後、新生活で五キロ以上痩せたんだ」

「苦労したのね」

 彼は優しくそう言ったが、私は「みんなしてる、当たり前の事だけどね」と呟いた。


「あれから十年か。俺も老けたで。見てみ、ここの白髪」

 彼は運転しながら、頭の側面に生えた髪を撫でた。そこまで目立ちはしないが、黒髪に白髪が少し混ざっている。

「仕事してるとストレス感じるよね。私は今は家事と育児くらいだから、そういうストレスは無いけど」

 いくらか世間話をした後、彼は言った。

「とりあえずマックでも行くか。中に入って話そうや。緊張してる時は、とりあえず世間話や」

 普段通りにしているつもりだったけど、目は少し泳いでいたし、外ばかり見ていた——昔からそうだ、彼は何でもすぐに察してしまう。私が緊張している事もお見通しのようだった。


 車を停めて、私たちは店内に入った。

 私の朝食は、家族が残した小さなパン半分と、野菜ジュースだった。いつもなら足りない量だけど、頭の中で色んな事を巡らせていてお腹が空いていない。

「飲み物だけでもええよ。この間、スムージー飲んだけど美味しかったで」

 私の顔色を見て、察したのか彼はそう言った。

「じゃあ私は、桃のスムージーにする」

「家族で来ぉへんの? 好きなモン頼んだらええんやで」

 彼が私の顔を見つめているのを感じる。

「好きなモンか。いつもゆっくり食べられないから、家族のをちょっとずつ摘んでる。自分のってあまり頼まないかも」


 店内は、平日の午前中だったせいか、パソコンを開いたお爺さんしか居なかった。

 注文を済ませた後、私たちは隅のテーブル席に座った。


「食事してる時、旦那は子供の面倒を見てくれへんのか?」

 対面して座るのは気が引けて、私は彼の斜め前にいた。昔ほどでは無いけれど、武道をしていたせいか彼には目力がある。じっと見つめられると獲物になったような心地がして動けなくなる。


「見てくれるよ。子供の面倒は見てくれる方じゃ無いかな。……うーん、見てくれるけど、スマホを見ながらだから、あまり当てにならないかも」

 彼の視線に、私の言動はコロコロと変わっていく。取り繕った所で、すぐに身ぐるみを剥がされるのだ。

「俺は嫁さんに『俺が見ておくし、ゆっくり食べて』って言うけどな。育児は夫婦でするもんやろ」

 私は何か言おうとしたが、返せる言葉が見つからなくて諦めた。


 注文した食事が運ばれてきて、私たちは食べながら家族の話や近況、老後に向けた投資の話をした。とりわけ私たち夫婦が先のことを全く考えていなかったので、彼はその場で我が家の年収を概算して、銀行で借りられる金額や、私の住んでいる地域のオススメのマンションをピックアップした。


「俺ファイナンシャルプランナーの資格も持ってるからな。とりあえず、君たち夫婦がこれから考えなあかん問題点を今メッセージで送っておいたから、旦那と一回相談してみ」

 彼が得意げな顔をしたのと同時に、私のスマホの着信音が鳴った。

「その話をそっくりそのまま、私の旦那に話して欲しいわ」

 私はすっかり意気消沈している。

「自分、あからさまにテンション下がってるやん。俺が旦那に直接言うてもええけど、コイツ誰やねんてなるやろ」

 彼は朝マックのマフィンにかぶりついた。頬張りながら、私を面白そうに見ている。

「私ってさ、ほんまに考えなあかん事は面倒くさくて考えへんけど。どうでもいい事は色々と考えてしまうんよね」

「そやな。ほんま、そういうトコあるよね」

 彼は心底楽しそうに微笑んだ。


 桃スムージーの液体が無くなって、コップの底に四角いコロコロが残っている。

「これって桃なの?」

 彼に尋ねると、「そやな」と返ってきた。

 私は蓋を外して、スプーン状になっているストローの先で四角い桃を掬う。ちらりと彼を見やると私を見ていた。私は掬った桃を彼の口元に持っていく。黙ったまま彼は桃を食べた。私はまた桃を掬うと、今度は自分の口に入れた。


 食べ終えた私たちは、店を出て車に乗り込んだ。車内は先程よりも暑くなっている。

「ちょうど昼時やし、ランチには良い時間やな」

 車を駐車場から出しながら、彼は続けて言った。

「このままどこか食べに行く? それともホテルに行く?」


 私が再会を控えていた要因の一つ。それは彼が、心を許した女性に肌の温もりを求める事だった。私と会わなくなってから、彼は益々、寂しさを女性で満たすようになっていた。


 私はお腹が空いていなかった。けれど選択肢は一つしかない。

「ランチに行こう。今日は絶対しないって決めてきたから」

「ほな、ランチやな」

 正面を向いたまま、特に気にしていないそぶりで彼は言った。


 私たちは来た道を戻り、パスタのお店に入った。お昼時だけど、平日のせいかここも混み合ってはいなかった。子供を連れた主婦達が楽しそうに会話をしている。

「ここならゆっくり話せそうやろ。どこに座る?」

 私がぼんやり窓際を見つめていたので、彼は「そこにしよか」と言った。

 

 仕事の電話が掛かってきたので、彼は席を離れた。私はランチのメニュー表に目を通した。

 緊張はいくらか解けてきたけれど——ナチュラルに会話を繰り出してくる彼が、一体どんなつもりで私に接しているのか気になっている。

 彼はとても頭がまわるので、私が思案したところで太刀打ちできた試しが無い。まあ、いっか。私はすぐに深く考える事を諦めた。


「頼むモン決めたんか?」

 仕事の電話を済ませた彼が戻ってきた。

「まだだよ」

「何系がいいとかあるやろ」

「トマト系かなぁ」

 私がそう答えると、彼はトマトベースのパスタの名前を挙げていく。私は少し考えると言った。

「よし決めた。カルボナーラにするわ!」

「自分、そういうトコあるよな」

 彼が呆れた顔で笑う。

「でもこの和風パスタも、食べた事無いヤツやし、気になってるねん」

 私がメニューを指差すと、彼は言った。

「どっちも頼めばいいよ。食べ比べて好きな方にし。残った方は俺がもらうから」


 注文し終えた後、私はふと彼に尋ねた。

「兄貴ってさ、毎日彼女と楽しんでる訳でしょ。家には電話してる? うちの旦那も単身赴任だけど、毎日朝と夜に電話が掛かってくるよ」

 するとおもむろに、彼は通話履歴を私に見せた。

「一番上は嫁だよ。毎日連絡してる。夫婦としては終わってるけど、家族としては大切やからな」

 さっきまでとは違う、真面目な顔で彼は続ける。

「普段は仕事で家におらんけど、こっちにおる時は家事だって何だってしてるで。今回も忙しくなかったら、魚買ってきて捌いたりしよと思ってたし——」

 その後の彼は、私と旦那の話をはじめて、少しお説教くさくなった。


 足を伸ばすと、つま先が彼の足に当たった。

「水虫移りそうやな、俺は違うけど」

「私も水虫と違うし」

 心外! と思った私は、テーブルの下でわざと彼の足を踏んだ。それを彼はすぐに返して、私の両足を押さえつける。一体私たちは何をしているんだろう。子供みたいだ。すごく楽しい気分だった。


 食事を終えて、駐車場を歩きながら私は言った。

「出産するとね、体型って変わる。お腹がポニョンだよ」

 隣を歩いていた彼が「触ってもいい?」と聞いてくる。私は頷いた。彼が私のお腹にそっと手を置く。

「確かに、ちょっとトレーニングした方がいいね」

「胸もね、授乳するとしぼむんだ」

 彼は私の顔色をうかがうそぶりをみせた。今度は何も聞かず、私の胸を触って「俺は柔らかいのが好きだけど」と言った。


 車に乗り込むと、私は独り言のように話した。

「時々、抱きしめて欲しくなる時がある。優しくして欲しいって感じる。こういう事を言うと性欲が強いとか勘違いされるんだけど、週に一回じゃ足りない」

「それに誰でもいい訳や無いんよね。俺は、毎日しないと気が済まない」

 私がため息をつくと、彼は言った。

「十三時まで残り一時間だけど。ホテルに行く?」

「行かない」

「ほな駅に向かおうか」

 彼は特に気にしない様子で、スマホで目的地までの経路を開いた。


 車内は、熱風からやや涼しくなったかのように感じる空調の音だけがしていた。あっという間に時が過ぎ去って、私は少し寂しさを感じている。

「兄貴、手を握ってもいい?」

「ええよ」

 私は彼の手の甲を、そっと握った。すると彼は、私の指と指のあいだに自分の指を差し入れてきて、優しく強い力で握り返した。


「泣きそうな顔してるで?」


 彼に言われるまで気が付かなかった。私は私の気持ちが分からない。彼は運転しながら、私に言葉をいくつも掛けてくれた。それから自分についてこう話した。


「俺かて、ひとりの人をずっと愛するもんやと思ってたし。今でもそうしたいと思ってる。何も事情を知らん癖に、不倫ってだけであれこれ言うてくる奴は大嫌いや。俺は何も間違った事はしてない。やらなあかん事もちゃんとしてる。だから仕事仲間に彼女がいる事も隠してない」


 十年前もそうだった。お互いが抱えていた孤独に気がついて、距離が縮まった。彼はセックスをしたがるけれど、本当の所は、満たされずにすり減っていくばかりの心を慰めて欲しいのだ。今の私にはその気持ちがよく分かる。


「何でも話せるから、私にとって、やっぱり兄貴は親友だな。私は兄貴に彼女がいても、全く嫉妬する気持ちが湧かないし」

「俺はめちゃくちゃ嫉妬するけどな。俺の女に手を出しやがって、て思ってるけどな」

 本気なのか冗談なのか、苛立った様子で彼は言ったが、私は外の景色を眺めながら笑った。


 駅前に到着すると、私は彼を見つめた。

「私に何もしてこなかったね」

 以前の彼はもっと積極的だった。

「雰囲気に酔わせてするのは簡単だけど——」

 それだと私が後で悲しんだり苦しんだりするから、しなかったと彼は言った。

「俺なりの愛情表現だよ」

「……兄貴、ハグしてもいい?」

 平日のお昼時。人通りの多い場所だから、彼は外の様子をしばらく見て、人が途切れたタイミングで「おいで」と手を広げた。数秒だけ、ギュッとしてもらう。


「ありがとう」

 私がそう言うと、彼は「時間があればホテルへ行くのに」と残念そうにした。


「また会おう」

 私の背中に彼の手が触れる。私は、次回なんてあるのだろうかと思った。彼に会うことは良いことでは無い。

 扉を開けて車から降りると、最後に彼の目を見つめて言った。

「じゃあね」

 時刻は十三時半を過ぎていた。早く帰らないと——。



 家族が寝静まった真夜中に、私は目を覚ました。彼との逢瀬を思い出している。

 大人は簡単に涙を流さない。

 でも、優しさや温もりに触れた時、張り詰めていた緊張の糸が切れる。私の心はずっと、雨を降らせる事ができない雲に覆われたままだった。


 その日、私の心の雲は雨を降らせた。目から溢れ出して、それはしばらく止まらなかった。





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