3 愛でもなく恋でもなく約束によって

 ビルの階段を上がっている時から、イッカは気が付いていた。

 空気が重くよどんでいる。


 涼子は気づいているのかいないのか、黙って階段を上がっているけれど、イッカにはわかる。空気は重いだけでなく、すえたような生臭さがある。


(オーちゃんが、帰ってるんだ。あの姿で)


 おうの姿を人に見せるわけにはいかない。たとえそれが涼子であってもだ。


「──涼子ちゃん、ちょっとお願いがある」


 四階の踊り場で、イッカは涼子を制止した。


「なあに」

「あたしが呼ぶまで、ここで待っててくれないかな」

「──いいよ」


 涼子はやはり鋭い。なにも理由を聞かずに快諾してくれた。

 イッカは後ろ手で黒色のドアを閉めると、明かりのついていない店内に向かって言った。


「──おう


 そこにいるのはわかっている。声にその気持ちを込めて呼ぶと、店の隅で黒いものがうごめいた。


「はい、ぬし


 店内に入った時から気がついていた。すえた匂いにまじって、濃厚な血の匂いがする。


「答えなさい。何人食べたの?」

「……一人だよ」

「なにがあったの」


 大きな翼を持つ生き物はその体を小さく丸めたまま、ぽつりぽつりと説明した。

 中華料理屋に行く途中、すれ違った男から痛いほどの暴力と理不尽の気配がしたこと。気が付いたら男のあとを追っていたこと。男は繁華街から少し外れたマンションで女性を監禁していたこと。女性は鎖でつながれて服を着ることも許されず、ひどく痩せて衰弱していたこと。その体には新旧取り混ぜて痣や傷跡がびっしりついていたこと。


「助けてって言われたの?」

「言われないよ」


 かすれた声でおうは言う。


「言われてないけど……我慢できなかった……」

「こっちに来て、体を見せて」


 イッカが呼ぶと黒い生き物は体を引きずってこちらに来た。

 窓から差し込むネオンの光でその輪郭があらわになる。

 爬虫類のような、鳥類のような、その二つが混ざったような奇妙な造形だった。その体表面は粘ついて光っている。


「もっとよく見せて」


 イッカが言うと、その生き物はおずおずと頭を下げた。長い首と大きなあごは恐竜のようだ。


「どこに増えた? ここ?」


 イッカはその獰猛な容貌を意にも介さず、両手で口先をつかんで左右に動かしたりしておうの皮膚を検分している。

 おうはというと、されるがままだ。


「自発的に助けたなら絶対汚れたところ増えてるでしょ。どこよ?」


 イッカはおうの首元にそれを見つけた。

 つま先立ちになり、その部分に顔を近づけて大きな声を出す。


「ああっこれだあっ、やだ、けっこうわかりやすいところに!」

「……ごめん」

「ここ、あたしと知り合ってからきれいになった場所だったのに、むかつくー!」

「ごめんなさい……」

「供物もなしで助けるからだよ!」


 確かにその通りなのだった。


 供物を捧げろ、代償を捧げろ。

 味のよき、匂いよき、牙ざわりよき供物。


 かつて旺がきれいな体だったとき、人々はそう歌いながら対価を払い、救いを求めたものだった。

 今思えば、あれは蜜月だった。


(今、そんなことをしてくれる人間は誰もいない……)

「──おう


 イッカの声で旺ははっとした。


「おいで」


 両腕を広げられて、おうは素直にそこに鼻面をすりよせた。

 イッカの唇が鼻先に触れてくる。

 一瞬で室内に充満していたなまぐさい空気はかき消え、黒く光る化け物はかわいらしい少年の姿になった。

 壁面のスイッチに手をやって、イッカが店内の明かりをつける。それから扉をあけて、外で待っていた涼子を招き入れた。


「お久しぶりー、オーちゃん」


 涼子はさすがの腹の据わり方というか、何事もなかったような顔で片手をあげて入ってくる。

 おうはというと、イッカの胸元に頭を半分うずめるようにしてぎゅっとしがみついたまま、目だけで涼子に挨拶した。それからちょっと鼻をひくつかせる。


「食べ物の匂いがする……」

「そうだよ、わかる?」


 涼子が答えるのに、少年はこくりとうなずいた。


「よかった、涼子さんがイッカに食べさせてくれたの……?」

「おおげさな。一緒にご飯食べただけだよ」


 どこまでわかっているのかいないのか、涼子は気軽に返す。


「さーてーと」


 一瞬和やかな空気が流れたのを元に引っ張り戻すように、イッカはぱんと手を打ち合わせた。


「これから、オーちゃんにお説教をします!」

「えっ……」


 少年がぱちぱちとまばたきをする。涼子がいるのに? 今ここで? と顔に書いてあった。


「あの、イッカ……あとでじゃだめ……?」

「悪いことしたらすぐに叱らないとねっ」


 犬のしつけじゃないんだから。聞いていた涼子はそう思ったが、少年は反論できなかったようで下を向いてしょんぼりした。


「だいたいオーちゃんは長く生きてるくせにねえ、おバカさんすぎ」

「ごめんなさい、でもイッカ、我慢できなかったんだ」

「いつもいつもいつもそうだよね。頭で考えるより先に、体が動いちゃうんだ」

「……うっ」

「そういう時はね、こうすればいいんだよー」


 イッカは少年の肩を両手でつかんで自分の体から引き離すと、かがみこんで目を合わせた。

 真顔になり、ぐっと声を低くして言う。


「害になるものは見るな」

「えっ……」

「意識を向けるな、視界に入れるな、自分の人生に関わらせるな。自分が苦しい時に他人のことを考える必要なんてない」

「イッカ……」

「よそ見してるから余計に汚れることになるんだよ。あたしのことだけ見て、あたしのことだけ考えてなさい」


 言われた少年はぽかんとしてイッカを見ている。

 一瞬置いて、涼子の爆笑が店内に響いた。


「イッカちゃんのそういうところ、久しぶりに聞いた!」

「そうー?」

「もう大好き! いろんなしがらみをすっ飛ばして、本質に切り込んでくるところ。私忘れてないよ、初対面で、登校中だった私を見て、司令官がいるってぼそっとつぶやいたんだよね」

「そんなこともあったねえ」


 イッカはのんびりと返す。


「げって思ったよね。なんでわかるのって思ったけど、あれってなに? 超能力?」

「まさかあ」


 なんとなくそう思うだけだよとイッカは言った。その口調に気負いはない。


「……そう言えば、俺も言われた」


 思い出したように少年も言う。


「初めて会った時に、つらくない? って聞かれたんだ。あれびっくりした」


 害になるものは見るな。あたしのことだけ見てなさい。

 おうは胸の中で言われた言葉を繰り返した。

 心の内に温かいものが満ちてくる。

 それはやさしい言葉だった。イッカは自分が盾になると言っているのだ。


「──なんとなく、ねえ」


 涼子がつぶやいた。少年がふと見ると、彼女はおうをじっと見つめていた。


「それだけはっきり本質が見えてしまうのって、本人はしんどいこともあったと思うんだけど、でもそういう愚痴は一度も聞いたことないな。ある?」

「……ない」

「ねえ、君ならわかるでしょう。イッカちゃんはね、一定の重荷やつらさを抱えてる人にとっては救いなんだよ。オアシスみたいに」


 そうかもしれないと少年は思った。

 イッカのそばにいると、楽に息ができる。安心してそばにいられる。そういう人間は少なかった。


「なにも言わなくてもわかってくれる、全部言わなくても見抜いてくれるのって嬉しいよね」

「そうだね……」


 だから、と涼子は目に力を込めて少年を見つめた。


「だからある意味、変な奴も引き寄せちゃうんだよ。オーちゃん、言ってる意味わかる?」


 多分わかる、と少年はうなずいた。


「傷ついてつらい思いをしている人が、必ずしも善人とは限らないから」


 涼子の言葉には重みがあった。

 傭兵という職業柄、理不尽なものを数多く見てきただろう彼女の言葉は旺の胸にも深く届いた。


 今夜助けた若い女性のことを思い出す。

 やめてえ近寄らないで化け物、と言われた言葉が今でも耳に残っている。

 感謝が欲しかったわけではないが、傷ついている人を善意で助けたからといって、わかってもらえるとは限らないのだ。


「オアシスにはいろんな人が集まるものだからね。学生時代の三年間は、私がイッカちゃんを守った。今はあなたが守るのよ」


 イッカを守る。それはもちろんだ。

 彼女と主従を結ぶ際の契約でもあるし、今となっては少年自身がそれをしたい。


「でも……」


 どこまで話していいものか迷いながら、少年は言葉を選びながら口にした。


「でも、イッカは俺といると全然食事をしないんだよ」


 そんなことないー、とイッカが口をはさんだが、少年はかまわず続けた。


「俺がそばにいるのは、イッカのためにならないんだ。タピオカドリンクは飲んでくれるけど、それしか摂らない。俺としては、ちゃんと食べて欲しいのに……」

「なるほどねえ……」


 少年の言葉を聞いていて涼子は思った。

 やっぱり、イッカちゃんがいつまでも肌がつやつやで、何年たっても高校を卒業したくらいから年を取っていないように見えるのって、そういうことなんだ。もしかしてとは思ってたけど、やっぱり。


(人ならぬ存在……)


 あくまでも予想ではあるものの、そんな言葉が脳裏に浮かぶ。

 常識で考えればあり得ない話ではあるが、そう考えるとつじつまは合った。


(この少年が人ならぬものであり、その彼のそばにずっといるイッカちゃんもまた……だんだん同じ存在になるんだとしたら)


 そこまで考えた時。

 少年の瞳がじっとこちらを見つめていることに、涼子はぎくりとする。


(気づかれた)


 野生の本能でそう思った。

 気づいたことに、気づかれたと。


「──そうだよ」


 涼子がなにも言っていないのに、少年は言った。


「その通り、あたりだよ」


 その言い方は幼い容姿に似合わない、老成を感じさせるものだった。

 涼子はしばらく考えてから口をひらく。


「ねえ、オーちゃんはイッカちゃんに食事をしてもらいたいのよね?」

「そうだよ」

「それって、栄養をとってほしいと考えていいのよね?」

「……うん、そうだね」


 けげんな顔で少年が答えるのに、涼子は人差し指を顔の前にぴっと立てた。


「タピオカドリンクの中に、プロテインとか青汁とか突っ込んで飲ませたら?」


 少年が目を見開いて「あっ」と言うのと、イッカがいやな顔をするのが同時だった。


「ホエイプロテインなら結構ばれないと思うよ」

「……そっか」


 これに、イッカは冗談じゃないというように割って入った。


「そっかじゃないよオーちゃん!」

「粉末サプリも今はけっこうあるし。北米とかだと割と普通にそのへんに売ってるよ」

「そっか、じゃあ涼子さんが今度行ったときにでも買ってきてもらえば……」

「全然オッケー」


 待って待ってちょっとー! とイッカは大声を出した。


「そんな不味そうなの絶対飲まないからね! オーちゃんも真に受けなくていいの! こんなレーション食って行軍してるような女の言うことは!」


 イッカちゃんはこう言うけど、最近のサプリは味も変わってきてるから。と話す涼子に少年は真剣にうなずきながら聞いている。


「だから、守ってあげてねイッカちゃんのこと。これからも」

「ねえタピオカにプロテインとか嫌だからね絶対!」


 本気でいやがるイッカの声をおうはきれいに無視した。


「わかった、できる限りそうする」

「やだからねってば!」


 新宿の夜は、そこそこ平和に更けてゆくのだった。

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この子を守れと魔女は言った くろつ @kurotsu000

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