2 香港レモンチキンを一緒に食べよう

「あ、魔女が来た」


 イッカが言うと、女はちょっと口を尖らせた。


「やめてよその呼び方。人聞き悪い」

「だって涼子ちゃん、そう呼ばれてるじゃない」

「そうだけど。表社会でその呼び方知ってるの、イッカちゃんくらいなんだからね?」


 彼女の声は高すぎず低すぎず、耳に心地よい。

 涼子と呼ばれたその女性は、年は二十代半ばほどで、すらりとした長身で細身のパンツスーツがよく似合っていた。バレリーナかと思うような背筋の伸びた上半身には、かっちりとしたジャケットを羽織っている。グレーに近い青色の地に、影絵のように大柄な花と蔦が織り込まれたジャケットだ。足元は、まだ暑い日が続くというのに黒のサイドゴアブーツ。

 季節先取りのおしゃれな人に見えるようでいて、そうではないのをイッカは知っている。


「どうせそのジャケットは防弾だし、靴の先にも鉄板入ってるんだよねー?」


 うん! というのが涼子の返事だった。

 彼女を見て、傭兵だとわかるものはまずいないだろう。

 顔に傷もついていないし、筋骨隆々でもない。ただ注意深く観察すると、両手の爪は短く切りそろえられていて、おしゃれな大人の女性ならしているであろうネイルも一切施されていないことがわかる。


「日本に帰ってきてたんだね、知らなかった」


 これに涼子はあいまいに微笑む。

 こう見えて彼女は、国籍も性別も様々な傭兵たちを束ねるリーダーなのだ。

 魔女。裏社会ではそう呼ばれている。見た目はか弱そうな美女なのに、おそろしく強いだけでなく、不可能を可能にする魔女なのだと。これはイッカが彼女のつなぎ役を始めてから知ったことだ。

 涼子は店内を見渡し、カウンターの中をのぞき込んでから言った。


「今日、あの子はいないの?」


 おうのことだった。

 この店を手に入れてくれた涼子は旺の存在を知っている。旺が人ならぬ存在だということを薄々知ったうえで、そっとしておいてくれているのだ。


「……いない」

「そっか。久しぶりにおいしいタピオカ飲めると思って来たのになあ」

「なによ、あたしが仕事しないみたいな」

「しないでしょ?」


 涼子の言い方に悪気はまったく含まれていない。


「あたしだって作れるんだからね」

「知ってるよ。でもイッカちゃんが働いてしまうとあの子の仕事がなくなるよね。イッカちゃんに尽くすのが、あの子の『すべきこと』かと思ってたんだけど、違う?」


 違わなかった。

 涼子に詳しいことを話した覚えはないけれど、それでも大事なところはきちんと押さえてくれている。

 これが傭兵チームのリーダーだってことか、とイッカは内心で妙に納得した。


「けどまあ、せっかく来たんだし一杯くらい飲んでってよ。なににする?」

「なにがおすすめ?」


 四季春しきしゅん、マロン、ブルーベリーにパンプキン。この秋の限定にしようと思っている候補をあげると、涼子は胸の前で両手を組み合わせて即答した。


「全部!」

「だよねえ!」


 二人の息がきれいにそろう。


「どれかひとつなんて選べないよね? もーオーちゃんはそのあたり全然女心がわかってないんだからー」

「全部作って全部味見しない?」

「涼子、いいこと言う!」


 イッカはソファからぴょんと立ち上がると、手早くエプロンをつけていそいそとカウンターの中に入った。


 ◇◇◇


 いろどり鮮やかな飲み物は作るのも楽しい。

 ああでもないこうでもないと女二人で言い合いながら、四種類のタピオカドリンクを作っては笑い、味見して、おいしいと言ってはまた笑う。


「ねえ涼子最近台湾行った?」

「行ったといえば行ったけど、観光名所とかはまわってないよ」

「最近あっちはなにが流行ってるの」

「飲み物じゃないけど、フルーツ大福が流行ってる」

「ふうん」

「あと飲むチーズケーキ」

「おいしそうっ」

「あれイッカちゃんは好きだと思うな。……で、もう一回聞くけど。あの子がいないの、珍しいね?」


 今まではしゃいでいたのが嘘のようにイッカは口をつぐんだ。

 ドリンクを作っては食べ、作っては食べて、かれこれ涼子が来てから一時間は経過している。こんなに長い間おうがイッカのそばにいないのがなにかしらの異常事態だと涼子は気づいてくれているのだ。


「どこかにおつかい?」

「中華料理屋に……ちょっと」

「そうか」


 かつて同級生だった彼女は、落ち着いた笑顔を浮かべている。


「助けはいる?」

「ううん、大丈夫」

「イッカちゃん、あたしはね、職業柄、大丈夫って言われてもあんまり真に受けないことにしてるの。大切な友達だったらなおさらだよ。だからもう一回聞くね。できることなにかある?」

「ううん……ほんとに大丈夫なの。誰かに助けてもらえるようなことでもないし。……でも、一緒に中華料理屋に行ってくれたら嬉しいかも」


 おっけーい、というのが涼子の返事だった。

 雨が強くなってきたので、傘をさして外に出た。

 傘を差した二人が並んで歩くには中道は少々細いので、大通り沿いにブロックを半周する。営業中であるしるしに、中華料理屋の入り口には色とりどりのランタンがともされている。


「こんにちはあ」


 イッカは入り口を開けると中にいる女主人に声をかけた。


「うちの子来ました?」

「来てないよ」


 イッカはたびたびおうと一緒にこの店を訪れているため、女主人は二人の顔を見知っている。

 そっか、やっぱり来てないんだ。とイッカが表情を暗くするのを見て、涼子が言った。


「ねえ、なに注文するつもりだったの」

「香港レモンチキン……」

「おいしそうじゃない。ねえ、それ私たちで食べていかない?」

「うん……」

「おなかがすくと頭も働かないし。ねっ、そうしよう」


 傘を閉じて水滴を払うと、涼子はイッカを促して中へ入った。

 店内はほどよくすいていたので、一番奥の宅へ座る。まずは飲み物と香港レモンチキンを注文してしまうと、涼子は改めてメニューをひらいた。


「あとはどうする、イッカちゃんなに食べる?」

「うーん……」


 イッカは迷うような複雑な声を出した。

 涼子につられて開いたメニューは開いているだけで目線は定まっていない。


「どした?」

「涼子ちゃんだから言うけどさ」

「うん」


 適当に頼んじゃっていい? 空芯菜くうしんさいの塩炒めとー、あとやっぱり辛いのも食べたいよね。イッカちゃん辛いのいけたよね、じゃあえびの麻辣炒めも。あとこれとこれと。

 涼子はさっさと数品注文してしまってから、冷たいジャスミン茶を一口飲んだ。


「……あたし、お腹すいたの、涼子ちゃん」


 だから今注文したでしょ、とは、涼子は言わなかった。なにそれ普通に食べればいいじゃない、とも。

 イッカがなにかしら意味のあることを言おうとしているのを空気で察して、沈黙で先を促す。


「あたし、あの子と離れると、お腹がすく」

「……そうなんだ」


 ほんとうにそれだけ? と、内心で涼子は思っている。

 あの子のそばにいると、イッカちゃんはお腹がすかないだけじゃないんじゃない? 眠くもならないし、多分年もとらないんだよね?


(──それって、もしかして)

「はいっ、お待ちどうー」


 涼子がそこまで考えた時、最初に注文した香港レモンチキンが運ばれてきた。

 大皿に盛られた揚げたてのから揚げに、甘酸っぱいレモンソースがたっぷりかかっているのを見て、涼子はもちろん、何度も食べているはずのイッカも思わず目が釘付けになった。

 皿に盛られてもじゅわじゅわ音を立てているからあげの上に、つやつやした透明なソースがかかっている。レモンの輪切りがまぶされているのも目に嬉しい。

 二人とも無言で箸と取り皿を引き寄せ、ひとくち食べるなり、「んーーーーーっ」と身もだえる。


「やばい美味しい……」

「美味しいよね」


 はふはふ、カリカリと食べることに二人はしばらく専念していたが、ひとしきり料理を堪能し、そろそろ食べ終えるかという頃になってイッカが切り出した。


「もしかして涼子ちゃんはさ、あたしに会いに歌舞伎町に来た?」


 涼子は何杯めかのジャスミン茶をくーっと飲み干してから答える。


「だって、たまには会いたいじゃない。イッカちゃんに元気がないとあたしが困るしさ」


 関東広しといえども、涼子に直接つなぎをとれる窓口はイッカのタピオカ屋ひとつしかない。

 涼子はグラスを置くと黒目がちの瞳でイッカをじっと見つめる。


「それに、指のお見舞いもまだだったし」

「お見舞金はいただいたよ。かなり多額の」


 それには答えず、涼子は続けた。


「ねえ、せっかくだし宇田川組に行こうか」

「──なんで」

「ここから近いし」

「だからなんで」


 宇田川組というのは夏が来る前、涼子の傭兵チームに仕事を頼んだこの界隈の暴力団だ。イッカは手順にのっとってつなぎをつけたが、涼子はそれを断った。それを恨みに思った宇田川組はイッカを拉致して見せしめに指を折ったのだ。それを知った旺はもちろん激怒してイッカを傷つけた人間を抹殺したのだが。

 あの件で怒ってる人がここにもいった、とイッカは思った。


「行かないよ。なんでわざわざ」

「んー……ご挨拶に?」


 そんな怖い挨拶があるか、とイッカは軽く涼子をにらんだ。


「嘘をつくんじゃありません」

「えーなに、ひどーい」

「えーじゃない。あたしたち二人で顔を出したら、それどんな恫喝って話になるでしょうっ」


 涼子は知らんふりで、からになったジャスミン茶のグラスをもてあそんでいる。


「それにあたしの指の件なら、あんたは既に、すっごくいやあな手を打ってあるはず」

「うふふー」


 涼子はあでやかな笑顔を見せたが、イッカは騙されなかった。


「ほらね、否定しないし」


 そろそろ出ようかと二人は言い合って椅子から立ち上がる。


「イッカちゃんはお財布出さなくていいからね」


 男前な彼氏みたいなことを涼子は言う。

 涼子のつなぎ役を始めてからというもの、こうして一緒にご飯を食べる時はいつもこうだ。


「ありがと、ごちそうさま」

「いいえー」


 レジで支払いをしながら涼子は言う。


「久しぶりに来て思ったけどさ、歌舞伎町も変わったよね。なんか、小ぎれいになった」

「昔を懐かしむようになったら老化現象なんだって。なにかで言ってたよ」

「んがっ、な、懐かしんでないもん。褒めたんだもん」

「どんな街も、どんな場所も変わるもんだよ。でもさ」


 入り口の傘立てから傘を忘れずに取り出しながらイッカは言う。


「人が集まるところにはさ、居心地のいい暗がりとか、きれいなだけじゃない場所が絶対に必要なんだよね。そもそも人間はきれいな部分だけでできてないから」

「うん」

「だから、人目につきにくい場所に移っただけで、絶対にあるんだよ。汚いものも、理不尽なものも、悲しいことも」

「そうだね」


 外に出ると雨はやんでいた。二人は細い中道を戻る。


「あの子、オーちゃんだっけ」

「うん」

「どこにいるかわかってるの?」


 ううん、とイッカは首を横に振る。


「どこにいるかはわからないけど」

「……けど?」

「どうしていなくなったか、原因は、たぶんわかる」


 イッカは唇を引き結んだ。

 きっとまた、見つけたんだ。

 理不尽に傷つけられているなにかを。

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