この子を守れと魔女は言った

くろつ

1 旺は消え、新宿によい魔女がやってきた

 新宿。

 裏さびれたビルの四階に、看板を出していない小さなタピオカ屋がある。


「すっかり暑さも和らいできたねえ……」


 店長をつとめるイッカはのんびりした声を出した。

 この夏は諸事情あって怒涛の夏だった。だがその喧噪もすっかり落ち着き、客のいない店内でイッカはソファ席にくつろいで窓の外を見ている。

 時刻は夕方で、あたりは薄暗い。


「秋になるとさあ、本格的なお茶が飲みたくなるよねえ……。アールグレイでしょ、シロニバリでいれたミルクティでしょ、シングルオリジンの日本茶もいいし、凍頂烏龍茶が飲みたくなるのもこの季節なんだよねー」


 イッカは客がいないのをいいことに行儀悪く足を組んで、ほっそりした白い足をぶらぶらさせている。


「秋の限定味はなににしようかなあ。四季春しきしゅんかマロンかで今悩んでるんだよねえ。あでもブルーベリーは必須じゃない? あとさあオーちゃん、パンプキンも毎年秋になったらやろうって思ってできてないから、今年こそはやりたいなってー」


 カウンターの中で拭き掃除をしていた少年は、ふと手を止めると形のよい眉をひそめた。


「……種類多すぎだと思うよ」

「ええー」


 イッカは口を尖らせたが、これは少年の言うのが正しかった。

 今年の夏は例外的に客が増えたが、もともとこの店は宣伝もしておらず、きわめて客の少ない店なのだ。経営者はイッカだから少年は基本彼女のやり方に従うのだが、そこまで品数を増やす必要があるとも思われない。


「イッカが一番飲みたいものを作ればいいんじゃないの」

「全部!」

「だから全部は多すぎだって」


 ふたたびのダメ出しに、イッカは細い足をばたつかせた。


「だって全部飲みたいもんー」

「俺はどっちかと言うと食事をしてほしいけどな」


 これをイッカは聞こえないふりをした。


「試作しようよ、オーちゃん。試作。マロンは渋皮和栗のペーストを使って、北海道産の牛乳をベースで。ブルーベリーならヨーグルトと合わせたいなあ」

「……真面目に言ってるんだけど?」


 イッカがこちらを見ようともしないので、はっとするほど整った容貌の少年はエプロン姿のままカウンターから出てくると、その幼さに不似合いな大人びた表情を浮かべた。


「ねえイッカ、食事をちゃんととってよ。でないと体壊すよ」

「壊さないもん」


 イッカはそっけないというよりもまともに取り合っていない返事をする。


「一緒に暮らしてるからわかるよ、イッカは昨日も今日もタピオカドリンクしか飲んでない。そんなのダメでしょ」


 これにイッカは人差し指を顔の前に立てて左右に揺らした。


「わかってないなあ、オーちゃん。キャッサバはね、アフリカでは主食なんだよ? タピオカの原料はキャッサバよ?」

「ここ日本だから」


 いつになく冷ややかに返す少年に、イッカはぐっと詰まった。

 視線をそらし、オーちゃんのくせに生意気だとか、だってお腹すいてないもんとかつぶやくイッカに、少年はつらそうに声を落とす。


「お願い……イッカ、頼むよ……」


 そして、少年にそんな顔をされるとイッカは弱いのだった。

 ピンク色の唇を尖らせ、オーちゃんは心配しすぎだとぶつくさ言ってはいるものの、その勢いはさっきまでと比べて明らかに弱い。


「俺が作ったものなら食べてくれる? だったら作るよ、なんでも」

「いやいやいや」


 これに、イッカはなぜか慌てた。


「じゃあ……じゃあねえ、えっと、そうだ、太々たいたい酒家の香港レモンチキンだったら食べてもいい」

「食べても、いい……」


 少年が声を落としたので、イッカは急いで言い直す。


「食べたい気分だなあっ。どうする、一緒に食べに行く?」

「いや、お客さんが来るかもしれないし、イッカはここにいてよ。俺買ってくる」

「わかった」


 太々たいたい酒家はこのあたりに昔からある中華料理屋だ。店主は湖南の出身なので辛い料理を得意としているが、歌舞伎町の客のニーズに合わせて中華粥や薬膳スープなどもメニューに加えている。


「雨降ってきたよ、オーちゃん、傘」


 窓の外を見てイッカは言ったが、少年は首を横に振った。


「いいよ、すぐそこだし」


 実際中華料理屋はイッカのビルの反対側にある。中道を通れば2分とかからないのだ。


「行ってくるね」


 だが、そう言って出て行った少年はいくら待っても帰ってこなかった。

 あたりが次第に暗くなり、ビルの看板やネオンが輝き出しても、まだ。


 イッカは微動だにせずソファに腰掛けて窓の外を眺めている。

 どのくらい時間がたっただろう。エレベーターのないビルの階段をゆっくりと上がってくる靴音が静かな店内に反響する。

 看板もなければ中も覗けないようになっている、一見の客は例外なくあけるのをためらう黒い扉がひらく気配っがした。


 振り向くと、そこに立っていたのは長身の女性だ。

 イッカは行儀悪くソファにもたれたまま、首だけ動かして言った。


「──あ、魔女が来た」

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