鈍色の誓い

甲池 幸

愚かな僕は、この日、おまえの愛を酸素と名付けた

「ほら、おそろい」

 そう言って笑う顔が、本当に、馬鹿みたいに優しくて、いつも通りで。毎日見ている笑顔だったから。

 だからこの日、僕は決定的に、彼の手を放せなくなってしまった。


 ぐ、っと指先に力を込めると小さな音がして、同時に耳たぶが一瞬熱くなる。痛みはそれほど強くない。鏡の中の自分を見れば、左耳に銀色のピアスがひとつ増えていた。きらりと光る金属片は左右でもう九つ目だ。左の耳たぶに三つ、軟骨に一つ。右の耳たぶに二つ、軟骨に三つ。

 きらきら、ぎらぎら。

 洗面台上の蛍光灯を反射して、銀色のファーストピアスは安っぽく光る。こんなにたくさん開けてしまってから、その光が存外似合わないことに気がついて、千草ちぐさは小さく苦笑する。小説やドラマで見た『やさぐれた中学生』をなぞってみたものの、どうにも上手くいった実感が湧かない。

「学校、復帰するまでに安定しなかったらどうしようかな」

 わざとらしく鏡に向かってつぶやいてみる。映っている少年の顔は酷い物だった。目の下には青白いクマが浮かび、頬は白くこけている。薄茶色の髪はぼさぼさで艶もない。まるで不健康な病人だ。

 本当は、元気の有り余っているただの中学生なのに。

「はは、立派な被害者面だね?」

 指先でなぞる虚像の輪郭は冷たくて硬い。綺麗に整えられて白い花の中に寝そべる姉上と同じ温度だ、と思ったところで温い指先に吐き気が湧いた。せり上がってくるそれに抗うすきもなく、千草は前のめりになってえづく。さっき食べたカレーライスが胃液と一緒に零れ落ちるのを見て、親友の笑顔が頭の中で陰りを帯びた。

(あぁ、はやく、片付けなきゃ)

 せっかく作ってくれたものを無駄にしたことが彼に知られれば、きっと傷つけるから。だから、はやく、動かなきゃ。

 そう、頭では分かっているのに、体は上手く動かない。何度か激しい波をこえて、ようやく吐き気が収まった千草は、瞼を閉じてその場に座り込んだ。十一月に入って急に下がった気温のせいで冷たい床は、弱った千草から遠慮なく体温を奪っていく。乱れた呼吸と一緒に充満した吐瀉物の匂いが体を逆流する。

「ぅ……っ、うぅ」

 肌に爪を立てながら、千草は嗚咽を噛み殺した。早くしなきゃと思うほど、立ち上がる気力が失せていく。動かなきゃと思っているのに、震える体はちっとも言う事を聞かない。

(ほんとは、うごきたくないんだろ)

 責めるような、声がする。

(カレーの味だって、分からなかったくせに)

 頭の中から響く声は、いっそう深く、肌に爪を喰い込ませる。

(美味しいよって、嘘吐いて、だまして。ほんとうは、この場に辰が来ればいいって思ってるくせに)

 心臓の奥から叫ぶ声は、かすれた嗚咽を引きつった呼吸に変える。

(それで、ぼろぼろに傷ついちゃえって、思ってるくせに)

 痛くて。

 苦しくて。

 息が、できなくて。

(おまえがそんなだから、姉上は、

「ちぐさ」

 少し冷たい、けれど死者に比べれば遥かに温かな手が両耳をそっとふさぐ。くぐもった空気の音の向こうから、静かな声に名前を呼ばれる。

「千草」

 声に導かれるように視線をあげると、夜空と目が合った。静かで、澄んだ、星を宿した夜色の瞳がじっとこちらを覗き込んでいる。響いていた声は、耳をふさぐ彼の手から聞こえる彼の心音にかき消されて、いつの間にか消えていた。胃液を拭いてもいない汚れた唇で、おそらく、人生でいちばん呼んできた名前を、もう一度呟く。

「しん」

「……うん。おれだよ」

 星空みたいな目を丸く細めて、しんが笑う。両耳から伝わってくる体温がいつもより暖かく感じられるから、それでようやく、千草は自分の体が冷え切っている事に気がついた。絡まった思考が、絡まったまま、それでも一旦止まる。

「夕飯、ちょっと重かった?」

 千草の耳から辰の両手がゆっくりと離れていく。触れていた場所が外気に晒されて、さっきはなんともなかった寒さに両耳が震えた。温もりの名残りは、いつだって冷たい。

「ごめん……せっかく、作ってくれたのに、むだにして」

 千草はしゃがみ込んだ辰から目を逸らすように俯いた。「えー? どうしよっかな」焦らすような声は、小さく笑いを含んでいるから、すぐにポーズだと分かる。優しい親友の優しい嘘が、柔らかくて、苦い。

「千草、ほら、顔あげてよ」

 誘う声がちっとも怒っていないから、千草の両目にじわりと水滴が滲んだ。瞬きに合わせて、一筋、涙が頬を伝って落ちる。鮮明になった視界の真ん中で、辰が笑う。

「もう一回、いって」

 本当は、少しも怒っていないくせに。

 ただ、許されたい千草のためだけに、彼は下手糞な嘘を吐く。

「そしたら、それでぜんぶ、ゆるしてあげる。――だから、もっかい、言って?」

 続いたまるい声に手を引かれるようにして、千草はぼろぼろと泣きながら口を開いた。

「ごめん。……ごめんなさい……っ」

 僕だけが、生きて帰ってきて。

 僕の方が、まだ生きていて。

 声に出せない懺悔が心の中に深く落ちる。どれだけ謝っても、どれだけ嘆いても、肌に刻まれた罪は、決して消えない。

「……ん。いーよ」

 目をふせて笑った辰は、それ以上は何も言わなかった。ただ食事を無駄にしたことを許してくれただけなのに、その顔があんまり優しいから、生きていることまで許されたような気持ちになる。

(姉上を踏み台にして生き残った僕が、許されるわけ、ないのにな)

 肩にかけていた布巾で、辰は優しく千草の唇を拭う。濡れた布巾が直接触れていたせいで、彼の肩はトレーナーの色が変わっている。あれじゃあ、辰の体の方が冷えてしまうのに、それを少しも気にした様子がない。千草の泣き声には耳聡く気がつくくせに、自分のことには、いつだって鈍感だ。

 まるで、傷だらけの体で『君が無事でよかった』と笑う、物語の中のヒーローみたい。

「ほい、水。桶あるから、ぐじゅぐじゅぺーしていいよ。口、気持ち悪いだろ?」

 肩が濡れていることを上手く指摘できないまま、千草は辰に差し出されたグラスを受け取った。温い水で口内の苦みを洗い流して、また滲み始めた涙を拭う気力もないまま、ぽつりと言葉を落とす。

「辰が、姉上の弟だったらよかったのに」

 辰だったら、きっと、もっと上手に『弟』ができたのに。

 辰だったら、きっと、あの場で彼女を救えたはずなのに。

(姉上の弟が、僕じゃなければ。きっと、姉上は)

 死に際に泣きながら謝るような人生を、送らずに済んだのに。

 ごめんね、と謝る声が、まるで鼓動のようにずっと聞こえている。消えた温もりの後に残されたのは、鎖骨の上に咲く真っ赤なゼラニウム一輪だ。その、冷たい痕を服越しにぎゅっと握りしめる。

 異能を譲渡できるのは、死の間際の一度きり。

 譲渡できる相手は、世界でいちばん、愛しい誰か、ひとりだけ。

 力を託された相手の肌には、思いのこもった花が咲く。

 花の咲く場所や、咲く花の種類はまちまちで、規則性がない。けれど、そんなのはどうだっていいことだ。だって、自分は愛されていたと、確かな証明を贈られた時にはもう、その、愛してくれた誰かは、冷たい骨になって、小さな骨壺の中に納まっているのだ。どれだけ信じたくなくても、目を逸らしていたくても、肌に咲く花が、静かにその人の死を主張し続ける。

 千草は持ち上げた、姉の骨の硬さを思い出す。震える手では、上手く箸が扱えなくて、銀色の台に落ちた骨の音が体の奥に染みついている。

 あんなに、やさしい人だったのに。

 あんなに、やわらかく笑う人だったのに。

 あんなに、美しいひとだったのに。

 真っ白な骨に、千草は彼女の面影を見いだせない。

 仏壇の前に置かれた骨壺をどれだけ眺めても、祈っても、彼女はもう二度と、千草に言葉をくれない。

「っ、う、ぁっ……」

 千草は体を丸めて泣きじゃくる。自分の鼓動が憎かった。温もりのある肌が気持ち悪かった。吐く息の温さに吐き気が蘇る。嫌だ、嫌だ、と駄々をこねて肌を掻きむしれば、その手を辰が捕らえる。振り払えない強さで両手を辰の背中に回されて、ぎゅっと抱きしめられた。

「今聞こえてる心臓の音は、俺のだから」

 囁くような、声がする。

「あったかいのも、俺のが移ったせいだから」

 やわい声が、生きていいよと唆す。

「息を吐くのも、吸うのも、ぜんぶ、俺のせいにしていいよ」

 大丈夫だよ、と頭を撫でられて、千草は辰にしがみ付いた。零れた嗚咽は留まるところを知らず、静かな夜に響き渡る。未だ、吐瀉物の匂いに満ちた狭い部屋の中で、千草は大声をあげて泣きながら、それでもずっと、この手を放す理由を探していた。

 彼だけは、地獄に引きずり込んでしまわぬように。

 彼だけでも、どうにか守り抜けるように。

 これを最後にしようと、硬く、決意を固めて。



「なっ……! はあ?! なんっ……えぇ?」

 泣きじゃくった夜から三日後、どうにか空元気を取り繕う方法だけは思い出した千草は、当主だった姉が死んだ影響で生まれた家のゴタゴタに忙殺されていた。悲しみに浸る余裕もなく。痛みにあえぐ暇もなく。今日もつい先ほどまで、分家の長たちとながぁい『会議』という名の皮肉と嫌味の応酬を繰り広げていて、それがようやく、一旦お開きになったところだった。そこに「ただいまぁ」と呑気な声をあげて、辰が帰宅した──の、だが。

 その、両耳が問題だった。

 疲れ果てて机の上ですっかり溶けていた千草が一瞬で輪郭を取り戻し、土間に駆け寄って悲鳴をあげるくらいの大問題だった。

 すっかり玄関と化した勝手口から土間にあがり、横着して紐をほどかず靴を脱ごうとする辰の両耳で。

 短く切られた細い黒髪から覗く両耳で。

 きらきら、ぎらぎら。安っぽい銀色が光っている。左耳の耳たぶに二つ、軟骨に三つ。右耳の耳たぶの三つ、軟骨に一つ。昨日まで傷一つない綺麗な耳だったのに、今では立派に、九つも穴が開いてしまっている。

「へへ。似合うだろ」

 得意げに緩まる辰の頬をガッと掴んで、千草はじっと両耳を観察する。血が出ている様子はない。膿んでいるようにも見えないけれど、たぶん開けたばかりだからだろう。これから、ぐずぐずに膿んで傷になる可能性は大いにある。

「なんで、こんなこと……」

 眉根をぎゅっと寄せて顔を顰めた千草に、辰は「んー」と短く唸った。「なんで、って言われてもなー」いつものように言語化をサボって、そんなことを宣う辰の頬をぐにぐにと揉む。

「とりあえず、僕がどうにか、綺麗に治る方法を調べるから、ぜったい、ぜぇっったい、不用意に触るなよ」

 ぐーっと両頬を伸ばして、辰に強く釘を刺す。

「えー? 取る気ないけど、俺」

「えー? じゃないよ。馬鹿なの? 辰は明日も普通に学校あるし、そもそも髪が短いんだから穴だけになっても隠せないでしょ」

 家のゴタゴタが片付くまで、とりあえずざっくり三ヶ月ほど自主的に休学している千草とは違って、辰は明日も明後日も普通に学校がある。そして、辰と千草の通う中学は私立校といえど、ピアスが許されるほど校則は緩くない。そうでなくても、年が明けた一月には高校受験がある。いくら内部進学で審査が甘いとは言え、さすがにピアスは不味いだろう。

「別に、先生なんて怒らせとけばいいじゃん」

「不良みたいなこと言わないの」

 辰の頬から手を放して、千草は深くため息を吐く。どうしたものかな、と視線を上に向けて思考を巡らせる千草の顔に辰の視線が突き刺さる。じーっと見つめてくるのは、何かを乞う時の辰の癖だ。

(先生が、この目を見るだけで辰の言いたい事くみ取っちゃうから、辰は言語化サボる癖がついちゃったんだよ、まったく)

 この家に住む、辰の保護者を相手に頭の中で悪態をついて、千草は(僕は絶対に甘やかさないから)と心に誓って、視線をさげた。まるい夜空が、千草の視線を受け止めて、満足気に細くなる。

「うん、やっぱ、完璧」

 得意げに口角を上げる辰に、千草は眉を寄せたまま首を傾げた。

「完璧?」

 辰は頷いて、やっぱり靴ひもを解かずに、踵を使ってスニーカーを脱いだ。それから頭にはてなを浮かべる千草の手を緩く引いて、部屋に残された姿見の前に立つ。千草の姉が、出かける前に必ず、頭の先からつま先まで身だしなみをチェックしていた鏡だ。片付けるの忘れてたな、と、細く息を落とす千草の肩が辰のほうに引き寄せられる。

「なに?」

 至近距離で笑う夜空を見返せば、視線の動きで鏡を見るように促された。いったいなんなんだ、と虚像に目を移した、瞬間。

「――ほら、おそろい」

 囁くように笑う、声がした。

 辰の耳と、千草の耳。四つの耳で、ちょうど左右が対になるように、銀色のピアスが揺れている。

 千草はその光景に、思わず息を飲んだ。

 だって、ただの、『やさぐれた中学生』の真似事だったのに。

「千草はさぁ、髪の色が薄いから、たぶん、赤とか緑とか、濃い色が似合うだろ? で、俺は白とかシルバーとか。そういうので、また色違いのお揃いにしよう」

 寂しさと苦しみの逃がし方が分からなくて、逃がしていいとも思えなくて、喘ぐように痛みに手を伸ばしただけだったのに。

「ファーストピアス取っていいのって三か月後くらいだろ? だからさ、その頃に、二人でカッコいいやつ、見つけに行こうぜ」

 辰はいとも簡単に、死なないための痛みを、生きる理由で塗り替えてみせた。そんな大層なことをやってのけたヒーローの顔が、あんまりいつも通りに優しい笑顔だから。

 この優しさが、別に特別でもなんでもなくて、ただ普通に、単純な事実として。ずっと昔から今も、変わらずに、ヒーローみたいな少年から注がれていた愛だと、理解してしまうから。そんな事に、気がついてしまうから。

(……あぁ。これは、無理だ)

 背中に当てられた辰の手が、そこから伝わる体温が、もうとっくに自分の背骨だったと知ってしまう。

(僕はもう、辰を、僕の人生から――切り離せない)

 この愛を、失えない。

 失えば、きっともう、息が出来なくなる。

「うん。約束しよう、辰」

 小指をそっと差し出しながら、千草は深く息を吸い込んだ。きっと今、体内を廻っているのは酸素じゃなくて、注がれた愛だ。

「ん。三か月後、絶対な」

(だから、今度こそ。辰だけは、絶対に。僕が、ぜったいに守ってみせる)

 笑う辰に頷きを返しながら、千草は鏡の中の鈍い銀色に向かって、深く誓いを立てた。

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