改変

数田朗

改変

 光森透吾という偉大な小説家について、世間は何も知らない。それどころか、多くのひとが彼を小説家として認識していないだろう。

 それも無理はない、彼は小説家として本を一冊も出版していないのだから。彼は残酷な賞レースを勝ち抜くことができず、デビューすることができなかった。

 しかし、それは彼に才能がないという意味ではない。

 俺は彼に才能がないとは微塵も思わない。

 高校生の頃から透吾の小説を(少なくとも彼が見せてくれたものに関しては)全て読んだ。彼の小説は本当に唯一無二だった。既存の誰のものにも似ていなかった。彼は彼だけの世界を追求し、彼だけの世界を作り出し、彼だけの世界を育てていた。それはほとんどの小説家にできていないことだと俺は思う。

 ありきたりな物語、どこかで見た展開、誰かに寄り添う物語。

 彼はそれを忌み嫌っていた。

 正しいことは自分の中にあって、自分の中にしかないのだと思っていた。だから彼は妥協せずにそれを追求し続けて――そして、彼は一度も勝利できずにこの世を去ることになった。

「ごめんな」

 彼は病室で俺に言った。彼の痩せ細った手には太い点滴の管が刺さっていた。もうここしか刺せないっていうんだ、と苦笑いをして手の甲を撫でた。ここ刺すのすげぇ痛くてさ、ほんと、死んだ方がましってくらい。そんな冗談を言って、そのあと真剣な表情で彼は続けた。

「俺は本当は満足するべきなんだと思う。お前という理解者がいること、俺の小説を本当に素晴らしいと思ってくれる存在が一人でもいることに、俺は満足するべきなんだと思う」

 俺は彼が何を言おうとしているのかわかった。

 予想通り透吾は言った。

「でもごめん」

 透吾がこちらを見る。目の下には不健康そうな皺が刻まれている。

「俺はたくさんの人に俺の小説を読んでほしい、俺の小説に打ちのめされてほしい、俺の小説を理解してほしい。俺にはそれができるって思ってた――」

 一拍置いて、

「俺はお前一人じゃダメなんだよ」

 彼は念を押すように、もう一度言った。

 ――ごめんな。

 彼の葬式に友人の一人として呼ばれた俺は、遺影の中で微笑む彼を見て一つの決断をした。それは透吾が病気になってから、ずっと俺の中で温められていた計画だった。

 透吾は両親に、パソコンを俺に譲るよう遺言を残していた。

 透吾の頭の中にあったのは、きっとカフカとその友人の話だったのだろう。死後に自分の小説を売り込んでくれる友人。美しい逸話だ。

 そう、だから俺はその美しき友人にならなくてはいけない。そして透吾をカフカにしなければならない。透吾がそのために俺にパソコンを遺したのだから。

 俺は自宅にパソコンを持ち帰り起動した。書きかけのファイル、プロットなど、見たこともないもの含め全ての作品データがそこに残っていた。

 俺はそれを読み返し思った――やっぱり、これは素晴らしい。

 俺は透吾の小説の素晴らしさを知っている。

 それはきっと、透吾よりも。

 透吾の小説がなぜ新人賞の候補に残らなかったか、俺ははっきりとわかっている。

 それは文体だ。透吾の文体はあまりに奇妙だった。はっきり言えば、とても読みにくい。けれど透吾はその文体に拘っていた。そこにこそ自分の文学的価値があるのだと信じていた。

 俺はその文体を全く評価していなかった。そこが足を引っ張っているのは明確だった。

 透吾の小説には他にもっと輝く魅力があった。登場人物のいきいきとした生活、人生、そして登場人物同士の複雑で美しい関係性、時折現れる『透吾の世界』、それは何よりも素晴らしい、他の作家には書けないものだ。

 俺は透吾に読ませてもらった最初の作品を開く。

 タイトルは『卒業の諧調』。

 ――透吾、知ってるだろうけど、カフカは友人に作品を破棄してくれって頼んだんだよ。それでも友人は言うことを聞かなかった。

 だから透吾、俺もお前の言うことは聞かないよ。

 ――許してくれ。

 お前を生き返らせるには、これしか手段がないんだ。

 俺はテキストファイルの頭に数行空白を開ける。その空白に、真下に表示されている文章を書き写していく――俺の文体で。

 透吾の紡いだ文章をどんどん書き換えていく。読みやすく簡易な文体へと。

 バックスペースを押しながら、俺は透吾を切り刻んでいる気分になる。泣きそうになりながら透吾の愛した文体を殺していく。

 自分に言い聞かせる。これは必要な作業で、こうしなければ彼を生かすことができないんだ。

 ファイルをそのまま上書き保存する。バックアップもコピーも取らない。それは俺なりの決意だった。失敗できない、後戻りもできない。ファイルはどんどん上書きされて、元の文はなくなってしまう。

 だから俺は、ここに透吾を残さなければならない。――完全なかたちで。

 それでも俺はまだ自分が正しいことをしているのかわからなかった。

 透吾の作品が透吾の文体でダメになってしまったように、俺の文体が正しいという保証はない。俺は人並み以上に本を読むし、(透吾に出会う前は)小説を書いたりもしていたけれど、俺の文章が透吾の理想通りに世界に届くのかわからなかった。

 俺はそれでも作業をひたすら続けた。透吾の文章を消し続け、書き直していく。透吾の世界を維持しながら、透吾の小説を整えていく。世間に受け入れられるように。世間が見向きしてくれるように。

 その作業を続けているうちに、俺はこの作業が何に似ているのかわかった。

 翻訳。

 そうだ、これは翻訳に違いなかった。

 俺は透吾独自の言葉で書かれた小説を、世間に通じる言葉に変える。それは外国語で書かれた小説を日本語に翻訳するのと、なんら変わるところはない。

 俺は、透吾専門の翻訳家になるんだ。

 俺は何もしなくていい。

 俺は、ただ透吾の世界を出力するだけで良い。そこには俺の思想も、意思も、工夫も要らない。

 俺は味付けをしなくて良い。そこにはもう素晴らしい材料が揃っているのだから。俺はそれをそのまま出せば良い。

 俺にはその資格がある。

 あると信じるんだ。


          *


「透吾さん、やりましたよ」

 ファミレスで担当編集者の島田さんが言う。

「受賞しました」

 ――俺が『光森透吾』のペンネームで応募した最初の作品『桜の森』は、あっけなく新人賞を受賞した。本当に、あっけなかった。俺は受賞の電話を受け、他人事のようにそれを聞いた――いや、それは本当に他人事だったのだ。

 その後も出す作品が、しっかりと読者へと届いている感触があった。刊行ペースが早いのも功を奏したのだろう。何しろ作品はもうできているのだから、早いに決まっている。

 他の出版社からも仕事が舞い込んだが、すべて断った。担当の島田さんに事実をありのままに話し、他の人には話さないことに決めた。あの賞を取るまで、だ。

 最期に会った日、こぼすように透吾が受賞を願ったあの賞。

 俺たちは、それを手にした。手にしたと、いま島田さんが言った。俺はこれから会見場に向かって、金屏風の前で受賞の言葉を述べるんだ。そして俺は全てを話す。俺はただの翻訳家で、光森透吾という偉大な作家がいたということを。

 タクシーで会場に向かう。受賞作の掲載された雑誌を車内で見つめた。

 受賞したのは、『改変』という作品だった。

 この作品は、初めてタイトルを変えなかった。

 死んだ友人を蘇生した主人公が、その友人が元のままの存在なのか悩むという作品だ。

 俺は急に、湧き上がるように不安になった。

 透吾が俺に語りかけている気がした。

 ――お前がやってるのは翻訳じゃない。

 ――改変だ。

 それどころか……。

 爆発するみたいに俺の中で不安が膨れ上がって、叫びたかった。暗いタクシーの車内で思いきり感情をぶちまけたかった。

 違う、俺は何も手にいれるつもりなんてない。手をいれるつもりもない。

 これは全部お前のもので、俺の手柄だなんて思ってない。

 俺はお前の才能を信じてるんだ。信じてるからこうしたんだ。

 なあ、間違ってないだろう? だってほら、こうしてうまくいっているじゃないか。とても、うまくいっている。だから、なあ、間違ってないよな?

 なあ透吾、答えてくれよ。答えてくれよ!

 だけど透吾は死んでいてもうこの世界にいないのだから、答えてくれるわけがない。

 口元を抑えた俺を、島田さんが心配そうに見つめている。耐えきれず涙が溢れ出して――俺は、透吾が死んで初めて泣いた自分に気がついた。


「このたび『改変』で受賞しました、光森透吾です。今回、受賞にあたって、大事なお話をしなくてはいけません。『光森透吾』というのは、私の友人の名前です。彼は三年前に病死しました。私は彼から託された作品を書き直して賞に応募しました。今まで書いた作品はすべて、彼の作品を私が書き直したものです。それでも、私は何も手を加えないようにと気をつけて作業を行なっています。私がやっているのは、ただの交通整理です。ですから、私はまったく作者ではないんです。私は自分を翻訳家のようなものだと思っています。ですのでこの賞は、やはり彼に与えられるべき賞です。

 おそらくこれから、このことに関してたくさんの意見をいただくと思います。

 私は自分が正しいことをしている、透吾のためにしていると信じていましたが、もしかするとそうではないのかもしれない、ということを、ここに来るタクシーの中で初めて気がつきました。

 僕がするべきだったのは、僕が本当に彼を信じていたのなら、彼の作品を少しも直すべきではなかったのかもしれない、そうも思います。

 僕はそれを透吾に聞きたいです。

 ……今回の作品、『改変』の最後で、主人公は友人が果たして元のままなのかと恐れ、悩みます。そしてそれは、絶対に確認することができない。

 人の心は結局覗くことができない、その、すごく当たり前なことを、透吾はずっと書いていたように思います。僕が読む限り、ですが。だから透吾は、きっと僕のこの悩みを理解してくれると思います。

 でも本当に悲しいのは、この受賞で透吾が何を言うか、どんな顔をするか、もう確認できないことです。彼が生きていれば、それができたんですけどね。

 パソコンに残っている透吾の作品はあと五つです。それらの翻訳作業が終わったら、作家『光森透吾』は本当に死にます。最後までお付き合いいただければ、本当に嬉しいです。今回はありがとうございました」

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