後編 見出した幸福

「ただいま。どうしたの、話したいことがあるって……」


 夫が帰宅した。

 息子が塾へ行っているうちに話をしよう。

 居間へ移動してソファには座らず、カーペットの上に正座した。

 夫もカーペットにあぐらをかいた。


「顔、真っ青だよ。大丈夫?」


 一週間前、店長さんからアドバイスを貰い、夫と話し合おうとした。しかし、自分の浅はかな行動が夫や息子を裏切る行為だったという罪悪感にさいなまれ、中々夫と向かい合うことができなかったのだ。

 心配そうに私の顔を覗き込む夫の姿に、もう涙を止められなかった。


 驚く夫に、私は泣きじゃくりながらすべてを打ち明けた。

 母親でいることで自分自身の価値を見失ってしまったこと。

 あなたに愛されていないことが死ぬほど苦しいこと。

 幸福という価値観が分からなくなってしまったこと。

 そして、誰かに愛されたくて、浮気しようとしたこと。

 パート先の店長さんに諭されたこと。

 離婚されるのも覚悟の上。私が馬鹿なのだ。

 私は正座したまま、土下座して夫に謝った。


「二度としません。許してください、許してください……」


 夫がいくら優しくても激怒するだろう。そう思っていた。

 でも、夫の口から出たのは――


「頭を上げてくれ。謝るのは僕の方だ。恵美がそんなに追い詰められていたことに気づかず、僕は夫失格だ……本当にごめん……」


 ――謝罪の言葉だった。


「いつも笑顔で家を守ってくれている恵美に、僕は甘えていたのかもしれない」

「違う。甘えていたのは私。慎也しんやさんは愚痴ひとつこぼさずに、毎日頑張って働いてくれている。それにおんぶに抱っこされて、慎也さんの気持ちに寄り添わなかったのは私です」


 私に優しい笑顔を向けてくれた夫。


「恵美が自分自身の時間を持てるように、一緒に考えよう」


 私は夫の赦しの言葉に頷いた。


「それと、これだけははっきりさせておきたい」


 真剣な表情の夫。


「僕は恵美を愛している。これはその場しのぎとかではなく、本当にキミを愛している」


 私は夫の言葉に驚く。


「息子も大きくなったから、夜に中々愛情を示せなくなったし、それと……僕もご覧の通りキモい中年オヤジだ。僕なんかが相手じゃ気持ち悪いと――」

「あなたに抱かれたい!」


 夫の言葉に被せるように私は叫んだ。


「店長さんから諭されて分かったの。私はただセックスがしたいわけじゃないって。私はあなたじゃなきゃ嫌なの! 私はあなたに愛されたい!」


 そんな私を優しく抱き締めてくれた夫。


「辛い思いさせてごめん……本当に本当にごめん……」

「愛してる……私も慎也さんを愛してる……大好きです……」


 私も夫の背中に手を回した。

 愛するひとと抱き締め合い、お互いの体温を交換する。まるで天国のような心地良さ。柔らかな気持ちに包まれ、心が暖かくなっていく。


 幸福。


 砕け散っていた私の幸福の価値観が、心の中で復元されていく。

 夫の愛を感じて家族の大切さ、そして家族が愛情を注ぐべきものであることを再認識出来たのだ。家事や家を守ることは、決して作業なんかではない。


 私は夫にデリケートなことも聞いてみた。自分の性欲はどうしていたのかと。男性はそういうことが必要だと理解している。だから、きっと風俗とかを利用しているのだろう。でも、今回私は怒るつもりはなかった。

 違っていた。夫は顔を真っ赤にしながら、入浴中に自分で慰めていたことを告白してくれた。私を想いながらしていたと。みじめな気持ちと情けなさでいっぱいだったと。

 夫もまた心が破裂していたのだ。


「気持ち悪いよな……ごめん……」


 涙ぐむ夫を私は強く抱き締めた。


 すれ違い。お互いに愛し合っているのに、それが理解できていなかった。『夫婦なんだから以心伝心』なんていうのは、単なる幻想だった。もちろん、そういう夫婦もいるだろう。でも、自分の気持ちを言葉に乗せて会話をすること以上に、お互いを分かり合えることはないと思う。性生活についてもタブーにしないことにした。お互いに性欲があるのは当たり前だし、愛したい・愛されたいと思うのは自然のことだ。年をとっても愛し合えたら最高だねと笑い合った。

 居間で抱き締め合う夫と私。


「仲が良いのは結構だけど、息子が帰ってきたらやめろよな」


 慌てて身体を離す私たち。

 塾から帰ってきた息子がニヤニヤしながら立っていた。


「弟か妹が出来ても、変な勘ぐりしないからさ」


 そんなセリフを残して自分の部屋に入っていった息子。

 この翌日から帰宅前には必ず連絡が入るようになる。

 この家で一番大人なのは、もうすぐ大学受験の息子だった。


 働き者の夫。

 受験勉強に励む息子。

 そんなふたりを支えるのが私だ。家事のひとつひとつにも意味がある。


「いつもありがとうね」

「弁当うまかった!」

「今日のおかず、ちょっと味が濃い目かな」

「オレはこれくらいがちょうどいいけど」

「ゴミ捨て、やっておくよ」

「模試の順位上がった!」


 ふたりからの言葉が私の心を満たしていく。

 そして――


「恵美、愛してるよ」


 ――私は愛されている。


 私は世界一幸せな妻、そして母親だ。

 さぁ、今日も家事とパートを頑張るゾ!



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以心澱心 下東 良雄 @Helianthus

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