三百年の光陰と一千万の魔法陣、そして一画の悔恨。

竹尾 錬二

第1話

 北の果ての廃城には魔王の亡霊が棲む。

 そんな噂が流れるようになったのは、勇者一行と魔王の戦いをお伽噺でしか知らない世代の子供たちが、国の要職に就き始めた頃合いだった。

 魔王軍の尖兵の軍勢に村を脅かされる恐怖も、死霊として蘇らないよう司祭が念入りに祈りを捧げる葬儀も、森へ薬草採りに入る時に誰もが握りしめていた魔除けの護符すら、形骸化して忘れさられていく時代。

 勇者達の苦難も、魔物の脅威も、語るに易く耳に優しい戯画化された物語へと変じていく平穏の世。

 そこで囁かれる、廃城に棲む魔王の亡霊の噂話が、本物である筈がない。

 半年もすれば人々の記憶から消え去るであろう、根も葉もない流言飛語だ。


 なにしろ、北の果ての廃城に棲んでいるのは、今やわたしただ一人なのだから。

 魔王を討ち果たした勇者一行の魔法使い。

 その名も、魔族を滅ぼした大偉業も、世界から忘れ去られて久しい。

 けれども、三百年の時が経とうとも、わたしには忘れられないものが一つだけある。

 魔王に時の呪いを掛けられて封印された私の恋人。勇者一行の剣士。

 物言わぬ彼と、わたしはずっと、魔王の居城だった廃城で暮らしている。


 わたしが魔法を好きだったのは、定められた式の通りに動くからだ。

 魔法学院の幼稚舎の子供でも知っている、発火の魔法を定義する初等式は、

  〈пламя〉 〈/пламя〉

 という、始点と終点と定義する僅か一節。

 これを魔法陣に配置すれば、内に小さな炎が浮かびあがる。

 無論、熟達した魔法使いの描く魔法陣はこんな簡単なものではない。

 発火パターンや、燃焼時間、火炎の色や、燃焼温度。

 あらゆるパラメータを定義し、如何に短い式で正しく動作する魔法陣を描くことが出来るかが、腕の見せ所だ。

 紙一枚の上には、始点の終点の間に無限に想像力を詰め込める、魔法陣という完結した一つの宇宙がある。

 その美しさに憑かれる魔法使いは、社交能力に著しく欠ける人間が多く、かく言うわたしもそんな偏屈な魔法使いの一人だった。

 子どもの頃、初めて彼と会った時の会話は、今でも明瞭に思い出せる。


「それ、楽しい?」


 床に紙を散らして魔法陣を描くことに没頭するわたしに、彼は窓から顔を出して声をかけてくれた。

 ぼさぼさ髪の、まだ12歳ぐらいの少年だったと思う。


「今いい所なの! 邪魔をしないで」


 そんな彼を、わたしは一喝した。

 いままで声をかけてきた学友にもそうしたし、これからもそうするつもりだった。

 当然の帰結として、わたしには友人は誰一人としていなかった。

 だが彼は、


「わかった、邪魔しない。見てるだけならいい?」

「わたしの邪魔をしないのなら、別にいいわよ」


 そんな高飛車な返事に満足をして、彼は背中を丸めて魔法陣にペンを走らせるわたしを、日がくれるまで見つめていた。

 ――あの時の事は、思い出すたびに恥ずかして死にたくなる。

 あの日の彼は、どんな顔でわたしを見つめてくれていたんだろう、と何度思ったことか。

 次の日から、彼が窓からわたしに声をかけてくれるのが日課になった。

 剣士を目指していた彼は、窓の外で素振りや剣の稽古をしていることも多かった。

 自分の好きに決して干渉しない――でも、息遣いが聞こえるぐらいの距離にずっと居てくれる彼の存在に、温かさを感じる日が次第に増えていった。

 

 わたしたちが交際を始めるまでに、三年の歳月がかかった。

 その時節、わたしは若干15歳にしてアカデミーで最高の魔法使いという大層な肩書を頂戴し、望まない社交に悩まされていた。

 社交性に難のあるわたしを、手を引いて導いてくれたのも彼だ。

 彼も王立騎士団の最年少騎士という一角の人物として頭角を現わしていた。

 

「君に置いていかれるわけにはいかないな、って思って」


 そう彼は笑ったが、その頃には彼に依存していたのは、いつだって私だった。

 彼がいなくなってしまう悪夢を見て飛び起きたのは一度や二度ではない。

 そんなわたしたちが魔王討伐、という半ば死刑宣告のような任務を当てがわれたのは、わたしたちの知らない所で起きた貴族家の政治的対立が原因だった。

 わたしのような世間知らずからしても、(自分で言うのは恥ずかしいが)将来有望な若干15歳の実戦経験もない魔法使いと剣士を、生還の見込みがない魔王討伐に差し向けるのは、全くの才能の浪費でしかない。

 要は、これ以上家門の力が増したら迷惑だから、という理由で、低位貴族のわたしたちは厄介払いされることになったのだ。

 パーティーメンバーは、誰もが似たような事情を抱えていた若者たちばかりだった。

 出立の前日、わたしは生きて帰れぬことを覚悟して、はしたなくも彼の寝室に訪れ、今生の名残に抱いて欲しいと迫った。

 彼は、可笑しくて堪らないというように笑って、そっとわたしの髪を撫で、僕たちは英雄になるんだ。誰もから祝福される初夜を迎えよう、と額にキスをしながら言ってくれた。

 君を、絶対に死なせないから。

 ――彼の、その言葉だけは本当だったことが、今でも恨めしい。


 結論から言えば、わたしたちは勝った。

 魔王城を踏破し、万に一つの可能性もなかった不可能を可能にしてみせたのだ。

 仲間たちは次々に命を落とし、最後まで魔王と対峙していたのはわたしと彼の二人だけ。

 魔王はその名に恥じぬ卓越した魔術師であり、屈強無比の肉体を誇る魔物でもあった。

 勝負の天秤は徐々にわたしたちに傾いてきて、死を覚悟していたわたしが未来の希望を想像した一瞬、あの最悪の瞬間が訪れた。

 魔王の放った異形の魔法。

 それは、あまりも複雑な術式で。

 回避や防御を考えるより先に、わたしはその魔法陣に興味を惹かれて、僅かに反応が遅れた。

 刹那、彼がわたしを突き飛ばした。

 一瞬の視線の交錯。彼はわたしが魔王の攻撃範囲から離脱したことを確認し――安堵の笑みを浮かべて、その動きを止めた。

 わたしがどうやって、魔王を倒したのかは、よく記憶にない。

 魔力切れから回復した時には、魔王は既に灰となって崩れ落ちていた。

 ……記憶にはないが、状況からわたしがどうやって勝ったのかを推理することはできる。

 おそらく――あの最後の奇怪な魔法が、魔王の隠し玉だったのだろう。

 放った直後も魔王は防御に回す魔力も残っていなかった筈だ。

 わたしは何の創意も工夫もなく、火力だけを尽くした原始的な魔法で焼き尽くしたのだ。

 これが、当代の魔法の粋と呼ばれた人間のすることかと思えば、可笑しくって涙が出る。

 

「ね、勝ったよ、わたしたち」


 返事はない。

 彼は、安堵の笑みを浮かべたまま、空中に姿を留めている。

 伸ばした手も、翻った赤い外套も、血の滴りかけた銀の剣も――全て、凍り付いたように動かない。

 足元で舞い散る埃さえもそのままだ。

 手を伸ばそうとして、その指先が弾かれた。

 彼は、ガラスのようなものに閉じ込められている――否。

 その現象を、彼を中心とした正八面体の停時空間の発生と結論付けたのは、それから三時間後の事だった。

 時間操作魔法――それは、わたしの知っている魔法体系から、あまりにも

 わたしたち人間の魔法は、どこまで行っても、結局は物質とエネルギーの操作だ。

 魔王の魔法技術は、わたしたちの辿りつけぬ高みにある。

 そして、それを解呪できる術者は、既に灰となってこの世から散り失せている。

 彼を内包する停時空間は、移動も解除もできなかった。彼は、未来永劫、この姿のまま、この場に留まり続けるのだ。

 これが魔王を見事に討伐した褒章だというなら、何て残酷なことだろう。

 ――その日から、魔王の居城だった廃城が、わたしの住居となった。


 何年経とうが、何百年経とうが、彼を解放する。

 それだけがわたしの望みだった。

 幸い、魔王城の書庫には魔法書が山ほど残されていた。

 魔族の言語はわたしには分からない。翻訳をする必要はあるだろう。

 だけど――魔法陣なら、話は別だ。描き方は違えど、世界への干渉の方法は変わらない筈。

 始点と終点を定め、その中に式を圧縮する。それが小さな小宇宙、魔法陣だ。

 必ず解明して見せる。

 わたしに最も足りないリソースは、まずは時間だった。

 たった15年の人生だけど、これまでの半生を魔法陣に傾けてきたわたしには直感で理解できる。

 この魔王の魔法陣は、千年は先の代物だ。

 どんなに長寿でも残り七十年程度のわたし人生では、到底足りない。

 最初の十年は、人間の肉体をアンデッドへと変性させる術式の探求に使用した。

 主に縛られず、自分の意志を持って活動できるロードヴァンパイアへと転生する必要があったのだ。

 人間世界には存在しない魔法だが、勿論許される筈もない禁呪だ。

 だが、この北の外れの廃城なら、教会の浄化を恐れることもない。

 ――望んでアンデッドへと身を堕とせば、その魂は永遠に救済されることなく地獄で焼かれると教会は説く。

 それがなんだ。ここ以上の地獄など、わたしにはない。

 


 勿論――アンデッドとして転生したからには、逃れられない問題もある。

 のだ。

 最初は、人の寝込みに、少しずつ血を分けて貰うぐらいでなんとか凌げるかと思ったが、そんなわけには行かなかった。

 一度人の首筋に牙を突き立てたら、その命を奪うまで血を魔力を吸わなければ正気を保てない。

 本当に、自分が魔物になってしまったのだと心底理解した。

 けれども、彼を元に戻す日まで、わたしは銀の短剣で自害するわけにはいかない。

 強盗や奴隷商――生きるに値しないと思う人間を選んで、血を啜って命を永らえてきた。


 ヴァンパイアになってからの日々は、ただひたすらに魔法陣を描き続けた。

 魔族語は、20年程で完全に理解することができた。

 廃城の中は、今や動くものはネズミ程度。その静寂の中、わたしはただ魔法陣を描いた。

 紙とペンを買い足す必要がある時だけ、魔王城の宝物を持ち出して少しずつ換金をする。

 廃城には、ヴァンパイアの苦手な日光が差し込むことはない。

 眠りの必要ない体で、床に蹲踞つくばって一心不乱に魔法陣を描き続ける。

 魔法陣。

 魔法陣。

 魔法陣。

 

 眠りを取らない体でも、時折またたきのように昔の記憶が蘇る。彼の前で魔法陣を描いていると、幻聴として彼との会話が響いてくるのだ。


『ねえ、どうして夜会になんて出なくちゃならないのよ。研究の続きがあるんだけど』

『君が魔法の研究が好きなことは良く知ってるよ。

 でも、人が生きていくためには、社会の一員としての役目を果たさなくっちゃね』

『貴方の毒にも薬にもならない正論、嫌いよ』

『はは、それは耳が痛い』

『いいわ。帰ったら徹夜で魔法陣の研究をしてやるんだから』

『……僕には魔法は良く分からないが、君の描く魔法陣がとても整っていて綺麗だと思う』

『貴方に魔法陣の何が分かるのよ』

『だから、魔法は良く分からないが、って前置きしたじゃないか。

 願っているよ。君が、魔法陣より大事なものを見つけられる日を』

『そんなもの、探す必要はないわ。もう見つけてるもん。……まだ一つだけだけど』


 ……ああ、わたしは、なんて、愚かだったんだろう。

 そっぽを向いて喋る癖を、直せば良かった。

 笑う彼の顔を真っ直ぐに見れば良かった。

 もっと素直になっていれば良かった。

 愛してるって言えば良かった。


 悔恨に潰されそうになる度に、わたしは止まった時に閉じ込められた彼の姿を見つめて初志を新たにする。

 だが、日に日に幻聴と幻覚は増すばかりだった。

 わたしは、生活の全てを魔法陣の作成に費やしている。

 試行錯誤を続ける毎日の中、一日に生成する魔法陣は百を超えていた。

 魔法使いが新たな効果の魔法陣を試作するには、一人前でも凡そ一月は費やす。

 わたしの魔法陣の生成速度には、並みの魔法使いが千人集っても足元にも及ばないだろう。


『別に、外に出る必要なんてないわ。わたしは、魔法陣を作っている時が一番楽しいんだから』


 そんな己の過去の言葉は、わたしが弱気にひきずられそうになるたび、背後から心臓を刺してくる。

 あれだけ好きだった魔法陣の探求。

 既にわたしは、そこに何の喜びも抱いてはいなかった。

 六芒星も八芒星も、叶うならば金輪際目にしたくないと思うほどに。

 だが、己の才に感謝はしていた。

 凡百の魔法使いなら、例え万年の月日を費やそうとも、彼を助ける糸口さえ見つけることができなかっただろうから。

 今やわたしは目を閉じるだけで、瞼の下で幾重もの六芒星を想起し、どのように魔力が流動するのかを演算することができる。

 始点と終点を定め、その中でいかに式を循環させるのか。

 だが、理論はいつだって現実を裏切る。

 脳裏でどれだけ美しく描けた魔法陣も、必ず実際に描いて魔力を流して検証しなければ実用には足らないのだ。


 眠りが必要のない肉体となったが、どうやら精神の疲弊は免れないようだった。

 魔法陣の作成に行き詰まり、瞼が痺れる程の疲労感に襲われたとき、わたしはいつも彼の前で一時の休息をとる。


『大丈夫? 君、疲れているんじゃないか?』


 軽い微睡みの中で、彼の優しい声を聞く。

 それだけが、わたしの生活の中の唯一の楽しみだった。

 いつものように、彼の前で横座りになって瞼を閉じると、張り詰めた意識はすぐに形を失って解けた。


『ねえ、君』


 彼の声がする。いつもの彼の優しい声が。


『――疲れたら、もう休んでも、いいんだよ』


 彼は、わたしの肩にそっと毛布をかけた。いつも剣を振っていた固い掌の感触。

 毛布の温もりと、お日様の香り。


『ありがとう。君は、もう充分に頑張ってくれた。

 もう、楽になってもいい頃だ。

 君が僕を見つめてくれていたように、僕もここから、ずっと君の姿を見つめていたよ。

 ――これ以上、君が苦しむ姿は見たくないんだ。

 君がずっと、僕のことを思っていてくれたのは本当に嬉しい。

 でも、もう君はこの廃城から出て、自分の人生を生きるべきなんだ。

 ねえ、僕の愛しい――』


 額に、柔らかな口づけを受けて、わたしは目を見開いた。

 肩の毛布も彼の手の温もりも、刹那に消え失せた。

 北の果ての魔王城の主を失った王座には、底冷えする風が吹き抜けるばかり。


「なんて、こと……」


 数十年ぶりに、涙が零れた。


「わたしは、なんて、罪深い夢を――!」


 彼の幻覚が囁いたのは、わたしの諦観だ。わたしの甘えだ。

 わたしは己の妄想の中で、彼の口を借りて己の怠惰を正当化しようとした。

 決して許されない罪だ。わたしのような人間に、そんなことが許されてなるものか。

 仮に――彼が今の妄念と同じ祈りを抱いていたとしても、わたし自身がそれを認めることなどできやしない。

 言うまでもないことだが――わたしは今やロードヴァンパイア、この廃城を出たとしても、外の世界で暮らすことなどできやしない。

 罅割れた鏡に、己の姿が映る。

 少女だった頃の自慢の金髪は見る影もなく漆黒に染まり、散髪の手間が惜しいので床に擦れる程に伸び放題。

 肌は死人のように青白く、犬歯は尖り、瞳は赤く染まっている。

 両親や学友――あるいは、勇者一行の仲間たちでさえ、この姿を目にしてわたしと気づくことはできないだろう。

 ――勿論、以前の知人なんて百年は昔に全て死に絶えているだろうけど。

 当然、わたしは彼にさえ、この姿でわたしだと気づいて貰おうなど願いはしていない。

 人の生き血を吸って穢れた身で、愛してなど、キスしてなんて言うつもりは毛頭ない。

 わたしはただ、止まった彼の時を動かすためだけに生きている。

 ――その瞬間、彼に魔物として斬り殺されたとしても、わたしは本望だ。

 

 わたしは、眠ることを己に禁じた。

 夢の中で、彼の姿と口を借りて己の弱みを正当化するなど、あまりに醜悪が過ぎる。

 それからは昼もなく夜もなく、ただ一心不乱に魔法陣を綴り続けた。

 ペン先が折れ飛んでインクが散った。代わりに、人差し指の爪を剥ぎ取って血で描いた。

 やがて、紙が尽きた。町に紙を買いに行くのも億劫で、廃城の床に直接魔法陣を血で刻んだ。

 魔法陣は始点と終点を繋ぐ式。だが、この研究には、いつまで経っても終点が見えない。焦燥ばかりが積もっていく。

 広い廃城を、四つ足の獣のように、魔法陣を描きながら這い進む日々。


 ロードヴァンパイアへの転生。

 魔族言語の解読と、魔族の魔法理論の習得。ここまでに百年の年月を費やしている。

 更に百年の日々を費やして書庫の魔導書を全て解読しても、そこには時を操る魔法理論は存在しなかった。

 魔族の頂点である魔王が生み出した、遥か高みの頂点の魔法。

 あの瞬間の、歪で奇妙な魔法陣を覚えている。

 きっと、それは解読も再現もできない類のものだ。

 わたしは、あれと同じ魔法陣を描こうとは思わない。

 同じ効果を得られさえすればいいのだ。

 その為には、得た知識を総動員しての一から理論構築が必要だった。


 時折外界に降りる度、町は有様を変えていた。伸びる大樹のように、世界は目まぐるしく変わっていく。

 彼の時が動き出したとしても、もうこの世界には、彼を知る人も、彼の生まれた国すら残っていない。

 違う世界に、彼をたった一人取り残すようなものだ。

 それでも――彼なら。わたしを孤独から救ってくれた彼なら、強かに生き抜いて幸福を掴んでくれることを信じて、わたしは研究を続ける。


 食事をする時間も惜しかった。

 以前のわたしには、無辜の人を襲うような真似は避け、悪人を探して血を吸うだけの分別もあった。

 そんな余裕も次第になくなり、町に降りたわたしは、最初に出会った人間を餌食にするようになった。

 それは、妻子を養うために夜遅くまで働いた一家の父親だったり。

 娼婦に身を窶した憐れな女性だったり。

 迷子になって、お母さん、と泣く子どもだったり。

 その時には、自分が怪物になってしまったと、嘆く感傷すらもわたしにとっては無駄なものだったから。

 ただ、お腹を満たすと廃城に戻って研究を続けた。


 そして、彼の時が止まってから、凡そ三百年の年月が経った頃――。

 わたしの研究は、遂に完成をした。


 理論は完璧だった。魔法陣の動作試験も幾度も重ねた。

 幾星霜の時を超え、わたしは止まった時を動かす魔法に至ったのだ。

 偏執的なほどに安全性を確かめ、わたしは彼を取り巻く停時空間に魔法陣を描き込んだ。

 己の血で、祈りを籠めて。

 長年床に魔法陣を描いた人差し指の先は擦り減り、骨が露出している。

 完成した魔法陣に魔力を通して発動しようとして、わたしは自分の手が震えている事に気が付いた。

 三百年急かされてきた焦燥と緊張の頂点だ。仕方がないだろう。


 わたしは自分を落ち着かせるように胸を押さえ、三百年前に縫い留められたままの彼の姿を見つめる。

 この三百年、どれだけ彼の姿を見つめたか分からない。

 わたしを突き飛ばした瞬間の伸ばされた左手。

 魔王の血に濡れた剣を握り締めた右手。

 翻る赤い外套。

 そして、わたしを見て安堵した、やさしい微笑み。

 彼は、わたしにとって信仰の対象そのものだった。


 魔法陣を発動する段になって、わたしはこれからの人生を一切の展望を抱いていないことに気が付いた。

 彼の凍った時を解いた後どう生きるか少し考えたが、本当に、わたしには何一つ思いつくことができなかった。

 ――それでもいい。わたしは、もう人間ではない。魔法陣の化身だ。

 魔法陣は始点と終点を繋ぐ式。

 この瞬間が、きっとわたしの終点なんだ――そう思うことにした。

 流れる時に回帰した彼は、すぐに眼前のヴァンパイアの姿に気付くことだろう。

 彼の精神は、魔王との戦いの最中で止まっている。

 きっと、新手の魔物と思い、わたしを切り伏せてくれるだろう。

 ――ああ、ならばそれは、わたしにとっては身に余る報いだ。

 教会の司祭が語るように、この魂が地獄で焼かれようとも、わたしの生は最後の一瞬は幸福で閉じることができる。

 これ以上の贅沢が、どこにあるだろうか?


 彼を包み込んで、十重二十重とえはたえの魔法陣が連動をして回転を始める。

 この三百年で、わたしが描いた魔法陣は一千万は下らないだろう。

 それも、これで終わりだ。わたしの生涯の最高傑作。人生最後の魔法陣。

 魔法陣は魔力の燐光を発しながら、ますます回転の速度を増していく。

 わたしは、ヴァンパイアとして蓄えた魔力の全てを注ぎ込んだ。

 魔王の魔法は、純然たる強度が違う。解明できても、解体のためにはかつての魔王に匹敵するほどの魔力が必要だったのだ。

 人間の指先までも血液が通うように、わたしの魔力は魔法陣の隅々まで流れこんでいった。

 瞬き一つせず、その動作の全てを確認して――


 望んだ瞬間は、あっけない程簡単に訪れた。

 彼を包んでいた八面体の停時空間が、クリスタルが割れるように木っ端微塵に砕けて消えた。

 宙に縫い留められていた彼が、重力に従ってすとんと地に足を付ける。

 わたしを突き飛ばした右手が、着地を勢いを殺すように僅かに跳ねる。

 ふわりと広がっていた赤い外套がするりと落ちて。

 彼の軟らかい癖っ毛が、僅かに動いて。

 ――ああ、生きている。背筋が痺れる程の法悦が全身を駆け抜ける。

 そして、わたしと彼の瞳が真っ直ぐに交わった。三百年ぶりだった。

 安堵したような彼の微笑みが、すん、と消えて、端正な顔が陰りを帯びた。

 ……それは、半ば予想していた反応でもある。

 彼がもう一度右手をこちらに伸ばす。切実そうな表情で、口を開き、


「ヴァ――」


 そう一声発した瞬間、彼の腕が恐ろしい速さで老人のように萎びて、朽木が砕けるように形を失っていった。

 わたしは、目を見開いた。

 腕だけではない。戦場を駆け抜いた足も、逞しい胸も、癖っ毛の髪も、あどけなさの残る優しい顔も――

 全てが、一瞬の幻のように朽ち果てて崩れ、身に着けていた衣服が床に散らばり病葉わくらばの如く解れた。

 銀色の剣だけが、音を立てて固い床に転がった。

 痺れるような歓喜が、一瞬にして脊髄を貫く氷の棘へと姿を変えた。


「……なんで?」


 視界が傾ぎ、わたしは自分が床に膝をついていることを気付いた。

 

「ああ……あああ……」


 床に散らばる、彼だったものを手でかき集めようとするが、震える指から零れ、宙に舞っては消えていく。

 涙を流す暇すらなく、どうしようかと考える頭も働かず、わたしは砂場で遊ぶ子供のように彼の亡骸の残骸を指でかき混ぜ続けた。

 ――不意に、その隙間から、己の描いた魔法陣の終端が目に入った。


「これ……終点が、定義されてない……」


 ごく、初歩的なミスだった。魔法学院の幼稚舎の子供が描く初等式でも間違いない、基礎的な誤謬。

 魔法陣は、始点と終点を繋ぐ式。目を瞑っても描ける、一千万回繰り返したプロトコル。

 その終点の一画が、ぽっかりと抜け落ちている。

 止まった時を動かすなら、時の流れの終点を定義しなければいけなかったのだ。

 彼にかけられた時の呪いを解くなら、彼の時を一秒分だけ動かしさえすれば良かった。

 だが、終点を定義されていなかったため、三百年の時間経過が、一瞬にして彼に襲いかかってしまったのだ。

 全て――わたしの、無能の責任だった。


 わたしは、金切り声を上げて泣き叫んだ。

 子どものように叫び、両の拳が潰れるまで床を叩いた。

 わたしは――わたしは、この床を這いずる地虫一匹程度の価値すらない!

 彼の死は、確定してしまった。もう、取り戻すことはできない。

 わたしが、彼を、殺した。塵にして、この世から永遠に消し去ってしまったのだ!


 許しを乞おうにも、祈る神もなく、聞き届けてくれる相手もいない。

 そして誰より、絶対にわたし自身を許せない。


『ヴァ――』


 彼の発した最後の一言の残響が、耳の奥で幾度も響いていた。

 一体、彼は何と言おうとしたのだろうか?

 ――きっと、ヴァンパイア、と言おうとしたのだろう。それが当然の反応だ。

 けれど、彼の最後の一言で、不意に思い出したことがある。

 三百年誰にも呼ばれていないわたしの名前が、ヴァイオレットだったことを。

 幾度も――幾度も、彼が、その名を甘やかに囁いてくれたことを。

 だが、彼が今の変わり果てたわたしの姿を見て、在りし日のヴァイオレットと同一人物だと気づいてくれたなんて、そんな都合いい妄想をすることはわたしには許されない。

 わたしのような愚かな罪人に、そんな報いなど、あるはずがないのだから。



 三百年の月日も一千万の魔法陣も、全ては無為に終わった。ただ一画の終点の定義を書き込むことを想起できなかったばかりに。

 ――それでも、わたしは生き汚く、魔法陣を描く日々を続けている。

 一つだけ、残された可能性を見つけたからだ。

 時を遡る魔法。

 僅かながらに、わたしは時に干渉する魔法に指をかけた。

 時を進める魔法があるのなら、遡る魔法もあると考えるのが道理だろう。

 彼の生前まで、時を巻いて戻すのだ。

 だが、時を巻いて戻すなど、全く節理に反している。

 如何なる理論を使えばそのような奇跡が可能になるのか、正直な所、今のわたしには想像もつかない。

 研究は、頓挫する可能性が高いだろう。

 加えて――わたしにとって、信仰の対象そのものだった彼の肉体が消えてしまったことも大きい。

 彼の姿を見つめながら、日々初志に立ち返ることができたあの頃とはちがうのだ。

 完全に彼が消え失せてしまった虚無を前に、志を保つことができるほど、わたしは強くはなかった。

 今のわたしには、もう、以前のように明晰にものを考えることができない。

 自責の念で思考は千々に乱れ、魔法陣すら上手く描けない日々が続いている。

 不死のヴァンパイアといえど、魂の腐敗からは逃れられないという。

 あれほど明瞭に思い出せた彼の顔も、声も、全ては朧になりつつある。

 どうしようもなく行き詰ったなら、わたしは自らの手で全ての幕を下ろそうと思う。

 わたしの傍らには、三百年分の時間加速を経て、唯一形を保って残った彼の剣が置かれている。


 三百年の時を超えて輝く銀の剣は、己の咎を贖えと、いつもわたしに語り掛けてくる。



 終

 

 

 


 

 

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三百年の光陰と一千万の魔法陣、そして一画の悔恨。 竹尾 錬二 @orange-kinoko

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