第2話

「君、ちょっといいかな」


  スーツを着たサラリーマン風の男に呼び止められた。渡された名刺には「丸谷芸能事務所」と書かれている。


「いい顔をしている。体格もいい。モデルをやってみないか」


 俺が「興味ないです」と名刺を返そうとしたら、男は「気が向いたら連絡して欲しい」とそのまま立ち去った。

 名刺はそのままカバンに突っ込み、バイト先へ向かった。


てつちゃん、いつも悪いわね」


 腰が曲がり始めた充代さんに代わって、店の倉庫に積まれた雑誌の束を店頭へと運び出す。老夫婦二人がひっそりとやっている本屋で、今日は一ヶ月に一度の店が賑わう日だ。月刊誌の発売日に合わせてやってくる客のために、大きな陳列棚を店の前に置く。


「徹君はこういうものは読まないだろう。最近は君の気に入る本を入れられなくて申し訳ないね」

 

店主の昭夫さんが白いひげをしごきながら、横で作業を見守っている。


「そんなことないです」

 

 ベニヤ板で作られた古い陳列棚は、日に焼けて所々ささくれができる。客が怪我をしないように、小さなとげは紙やすりでこすり、中程度のものは接着剤で貼り付ける。最近は補修がきかなくなってきたので、昭夫さんに許可をもらって近いうちに表面に塗装をしたほうがいい。

 

 雑誌を括るひもを切り、表紙が見えるように陳列棚に積んで準備が整ったところで、客がやって来た。


「あ、いたいた、徹くーん!」


 あっという間に小学生に囲まれてしまった。日焼けした顔にサッカーボールを持つガキ、髪を後ろで結びゲーム機を手にする奴、みんな膝下までのズボンをはき、細っちいすねが見えている。やつらは、学校であったことや親に言われてむかつくことを口々に話してくる。俺は「そうか」「それでどうした」「お前、そんなこと言ったのか」などと相づちを打ちながら、陳列棚に並べたマンガ雑誌を渡してやり、金を受け取る。


「これこれ、このバンドマンの話、楽しみなんだよね」


 雑誌を受け取った子どもたちは、真っ先にお楽しみのページを開く。半年前から始まったバンドマン対決の連載は、子どもたちに人気だ。主人公は俺より八歳も年下の中学生。俺がギターケースを背負ってバイト先に来たのを目撃した小学生たちは、俺をマンガに登場する人物に見立てて好き勝手なことを言う。


「徹くんはさ、あれだよ、この間出てきたウルフ斉藤。バキューンってでっかい音出して、音でみんなをなぎ倒す奴」

「おー、あれな。おれは、怪力ギタゴンに似てると思う。この腕の筋肉、かっこよくね?」


 一人が俺の右腕をぺしぺしと叩いた。

 充代さんと昭夫さんは、にこにこしながら賑やかな店先を眺める。次々とやってくる小学生客をひとしきり相手にして雑誌を渡し、日も傾き始めた頃には、陳列棚の上に何も残っていなかった。


「徹ちゃんのおかげで、この辺の子どもたちはうちで買ってくれるのよ」


 充代さんは俺の顔を見上げるように、曲がった腰を伸ばした。


「徹君、これは今月のバイト代。いつも少しで悪いね」


 昭夫さんから受け取った封筒を押し頂いて店を出る。



 二年前、急な雨に降られて駆け込んだ軒先が、二人の営むこの店だった。あの時は駅からスタジオへ向かう途中で、手に入れたばかりのベースギターのケースですら濡らしたくなかった。

 雨宿りだけでは気が引けるので、何か買おうと店内に入った。薄暗い蛍光灯に照らされて本のタイトルが並んでいる。金がないから、本はいつも図書館で調達する。買うなら一生手元に置くものにしようと、店内の通路を見て回った。吟味を重ねて選んだ三木清の『人生論ノート』を会計に差し出すと、老紳士風の店主が「ほう」と目を細めた。


「お客さん、こういう本を読まれるのか」

「大学の講義で勧められたので」


 横に目をやると、本の束が床に山積みにされている。こちらは流行のベストセラーだ。


「お買いになるなら出しますよ。年取って、高いところに並べられんのですわ」


 ちょうど雨は小降りになりかけていて、あと少しでやみそうだ。大切なベースを守ってもらったお礼もかねて空いた棚に本を並べたのが、この店でバイトを始めるきっかけになった。



 雑誌発売日の仕事を終えた足でスタジオに向かう。楽人がくとあきらが先にいて、すでに準備も終えていた。この二人は俺のバンド仲間だ。


「徹、遅い! 待ちくたびれたで」


 ボーカル兼ギタリストの楽人はイライラとマイクの周りを歩き回り小言を言った。ドラムの彬は、スティックケースの中を並べ替えながら俺の準備を待っている。


「ほないくで。今日は路上ライブでやる曲順で」


 三人で始めたバンドはオリジナルが増え、来週やる駅前での路上ライブも十回目になる。曲の原型を作るのはいつも楽人。あいつの発想は思いもつかないところから飛んでくる。ただし、あいつだけではバンドの曲にはならない。アイデアに骨組みを与えるのは俺で、細部を整えるのは彬だ。三人それぞれの役割がぴたりとはまるとき、音楽は生きて動き出す。


「曲順だけどさ、おれやっぱ、一曲目はガツンと入った方がいいと思う」


 彬はそう言って、『走り抜け』のイントロを叩いた。シンバルから入るこの曲には、疾走感がある。


「それは散々話し合ったやろ。一発目は季節感のある曲のほうが受けがええって」


 口をとがらせたまま彬がこちらを見た。


「リーダー、お前が決めてくれ」


 路上ライブをやる駅の情景を思い浮かべた。あそこは最寄りに大きな高校がある。運動部のうちのいくつかは全国大会まで行くほどだし、吹奏楽部や合唱部や書道部の成績が学校の壁に貼り出されているのも見たこともある。ライブを始めるのは、部活帰りの高校生たちがちょうど駅に向かう時間だ。俺たちの高校時代の気持ちを歌い上げた曲なら、帰宅の足を止めて聴いてくれるだろう。


「『背中合わせの夏』にする」


 よっしゃ、と楽人が手を叩き、彬は「まぁいいけどさ」としぶしぶうなずいた。

 俺たちは来年の大学卒業を控え、就活をしなかった。音楽で食っていく。三人でそう決めて、ライブ活動を続けている。

 


「今日はおれらの路上ライブ十回記念ですー」


 今日はよろしくー、と突き上げた楽人の腕を合図に、『背中合わせの夏』を始めた。俺ら三人は、生まれた場所も通った学校も全然違うが、それぞれの思い出を持ち寄ると、共通のシーンがいくつかあった。学校帰りにバカを言い合いながら見た景色をつなぎ合わせた曲を、楽人が汗を振り飛ばしながら歌う。威勢良く鳴く蝉の声に負けないよう彬がドラムを叩き、黙々とベースを刻む俺の額からも汗が流れ落ちる。


 狙い通り、立ち止まって聴いてくれる高校生たちが呼び水となり、ちらほらと大人の姿も混じり始めた。


「あ、徹くんだ!」


 甲高い声がして、いつも雑誌を買いに来る小学生男子が母親の手を引いて近寄ってきた。俺はそいつに目で合図を送る。


 こうやって音楽をやっていると、生きている、と実感出来る。人は、絶え間なく何かを感じ何かを考えるいきものだ。出ては消えていくあぶくのようなものを、全て言葉に置き換えることはできない。俺たちはあぶくを少しでもすくい取って音にのせたい。音にのせれば、頭から出ていったあれやこれやを、聴いてくれる人と分け合い確かめ合える。


 大学で学ぶ哲学は、人の生き方を全て言葉で語ろうとする学問だ。人の営みを隅から隅まで言葉に置き換える試みに心惹かれるが、それだけでは何かが足りない。頭でっかちの俺のバランスを取ってくれるのが音楽だ。俺らが作る音楽は、嬉しいとき、悲しいとき、孤独を感じるとき、いろいろな場面の心のひだを歌うものでありたい。


 人垣が少しずつ膨らみ、最後の曲になる頃には、分厚い人の壁が出来ていた。


「最後までありがとー!」


 楽人が叫び、三人でピタリと音を止めた。沸き起こる拍手に手応えを感じる。

 一人の女子高生が泣いている。顔中ぐしょぐしょのその子の元に、一人の男子学生が駆け寄った。あの二人は俺たちのどの曲に共鳴してくれたのだろう。

 俺らは今、この空間を心のエネルギーが高まる場所に変えた。俺らの音を共通言語にして、ここにいる人たちとほんのひととき同じ世界を生きた。


 Tシャツから汗をしたたらせる楽人に「お疲れさん」と声をかけ、機材を片付けて一杯やりに行く。居酒屋の入口で、俺らと入れ替わりに出て行く中年の男がいた。かなり酔っていて、足下がおぼつかない。危ないなと思った瞬間、男は段差を踏み外した。とっさにその体を支えたら、俺のカバンが下に落ちて中身がぶちまけられた。男はそのままフラフラと店を出て行った。楽人と彬が「ざけんな」と言いながら荷物を拾ってくれる。突然、楽人の手が止まった。


「徹、これなんやねん」


 楽人が手にしていたのは、名刺だった。


「芸能事務所って書いてあるで」

「あぁ、この前、歩いてたら呼び止められた」

「え、お前、スカウトされたん?」

「知らない。興味ない」


 俺はそのまま散らばった荷物を片付けたが、彬と楽人は顔を見合わせている。


「ちょっと、徹。その話、聞かせろ。もしかしたらおれらのデビューのきっかけになるかもしれない」

 

 飲みながら、モデルの誘いだから断ったと伝えると、楽人がため息をついた。


「徹、お前ほんまに頭固いな。モデルでも何でも顔売ったついでに、音楽やってます、言うておれらの曲を聴いてもらう発想はないんか」

「ない。やりたいのは音楽だけだ」


 彬が自分のもしゃもしゃの髪をかき回した後、俺の頭をはたいた。


「無駄に整ったお前の顔にむかつく。これから競争の厳しい業界に飛びこむんだぞ。生かせるものは何でも使うんじゃねぇのかよ」


 楽人が勝手に名刺を奪い取り電話をかけ始めた。


「あ、もしもし、この間名刺をもらった者です。一度会ってもらえますか」


 

 楽人が俺になりすまして約束を取り付けた日、二人に引っ張られて事務所まで来た。ビルの8階のオフィスで、楽人がまわりをキョロキョロと眺める。


「ちゃんとしたオフィスやんけ」

 彬が声をひそめる。

「調べたら、ここ、結構有名な事務所らしいぜ」


 受付に現れたのは、声をかけてきたサラリーマンだった。中西さんというその人は、俺以外の二人が並んでいるのに驚いたようだが、会議室のようなところに三人まとめて連れて行った。楽人が夢を語るのを中西さんは黙って聞いた。


「わかった。うちはモデルか俳優を中心に抱える事務所でね。ミュージシャンは業務外なんだ。私の友人がそちらの業界にいるから、君たちを推薦してもいい」


 隣で楽人と彬が飛び上がった。俺もチャンスをつかめたかもしれないと、気持ちが浮き立つ。

 会議室の外で電話をしていた中西さんが戻ってきた。


「この日なら、君たちの音楽をきいてみてもいい、と言う人がいるんだが。忙しい人でね。ここを外すとしばらく海外出張らしいから、チャンスは一回だけだ」


 示された日時に唇をかんだ。

 先日、いつものように昭夫さんの店でバイトをした帰りに言われた。


「徹君、長い間通ってくれて感謝している。私たちも無理が出来ない体になってね。世の中では本屋もはやらないし、そろそろ店を閉じようと思うんだ」


 古びた雰囲気の店に入る客は確かに少なく、月刊誌発売日には小学生で賑わうものの、それ以外の日に俺の店番はいらなかった。それでも昭夫さんは本の目利きで、店にはいい本が並んでいる。昭夫さんが良しとする本を新刊、既刊を問わず仕入れ、俺が棚に並べる。その仕事を二年続けた。高い棚からの本の出し入れはいつの間にか俺の役割になり、地味なこの店でのバイトは生活の一部になった。


「来月の月刊誌を売ったらその日を最後にして、ここを離れようと思う」


 隣で充代さんが寂しそうに笑った。


「徹ちゃんにはほんと、感謝してるのよ。私たち子どもがいないでしょ。勝手に息子、あ、それじゃ年が合わないわね。孫みたいに思ってたのよ」


 その日、店の奥で座る二人とバイト最後の日を約束したのが、中西さんに示された日と重なったのだ。


「そんなん、何を優先するか、悩む余地もないやろ」


 楽人はあっけらかんと言った。彬も楽人と同じ考えのようだが、無理強いはしなかった。彬は以前、大事な舞台をすっぽかして俺たちに迷惑をかけたことがあるからだろう。


 三人でどの曲を聴いてもらうか打ち合わせ、その日に向けて練習を重ねながらも、気は晴れなかった。昭夫さんには事情を話せば許してもらえるのはわかっている。それどころか、俺のバンド活動を応援してくれていたから、背中を押してもらえるもしれない。充代さんも孫のようにかわいがってくれた俺を笑って送り出してくれるだろう。


 しかし、世話になった二人の最後の日に立ちあいたかった。俺を慕って来てくれる小学生たちにも、挨拶をする機会がない。頭では自分の将来に関わるチャンスとわかっていても、心は反対に向かう。哲学を学んではいても、人の心は何て厄介で不可解なものなんだろうと改めて思った。



 中西さんから指定された日、重い足取りで用意されたスタジオに入ると、彬と楽人はすでに来ていた。


「よう。もしかしたら徹はすっぽかすかも、ちゅうて彬と心配しとってん」


 いつもお気楽な楽人が、珍しくほっとした表情を見せる。彬は俺の背中を叩いた。


「来たからにはビシッとやれよ」


 聴いてもらうのは三曲の約束だった。一曲目、ライブハウスで人気のある曲をやる。乗りのいい曲で、聴きに来てくれた人全員がいつもその場で飛ぶ。弾き終えてチューニングをし直すときにふっと、バンドマンの連載マンガを楽しみにしている男子の言葉がよみがえった。


「やっぱ徹くんは主人公に似てるよ。あの主人公って絶対にぼくの期待を裏切らないもん。ぼくは徹くんからこのマンガを買うのが楽しみなんだ」


 今から急いで店に行けば、あいつらに会える。俺は頭を下げた。


「すみません。どうしても行きたいところがあります。時間を取ってもらったのにすみません」


 楽人と彬が慌てて俺を止める中、スタジオを飛び出し昭夫さんの店に急いだ。


 店では、昭夫さんと充代さんが二人で陳列棚を運び出しているところだった。腰の曲がった充代さんがよろけそうになったところをとっさに支えた。


「やります」


 二人は呆気にとられてこちらを見た。


「徹君、今日は大事な日なんだろう。こんな所にいちゃだめだ」

「そうよ、徹ちゃん、私たちは大丈夫なんだから。早く戻りなさいよ」


 俺は陳列棚を持ち上げ、ベニヤ板の点検を始めた。


「俺に本当に実力があるなら、またチャンスはあります。でも世話になったこの店の最後の日は今日しかありません」


 しゃがんでベニヤ板のささくれを削る俺の背中に、充代さんの涙声が聞こえた。


「徹ちゃんがデビューしたら、絶対チケット買って聴きに行くからね。こんなおばあさんがいても笑わないでよ」


 いつものようにやってきた小学生たちは、今日で店が閉店するからといつまでも帰ろうとしない。古い店の前に人だかりができた。奴らは店の前で買ったばかりのマンガをめくり、俺がバンドマンの話の誰に似てるか、これから話はどうなるか、を口々にしゃべる。あまりのうるささに、「お前ら、ちょっと静かにしろ」と諌めているところへ、いきなりテレビの取材が入ってきた。昭夫さんが「そういえば言ってなかったね」と説明してくれた。


『消えゆく街の本屋』というテーマでニュース番組の特集コーナーが組まれ、昭夫さんの店が中継場所に選ばれたらしいのだ。


「徹君はもう来ないと思っていたから、伝えていなかったんだよ。悪かったね」


 小学生男子に囲まれた俺の姿をカメラが追う。撮るのは昭夫さんと充代さんだろうとカメラマンに伝えたら、すぐに言い返された。


「いえいえ、あなたは絵になる被写体ですから、ストーリーに加えさせてもらいます」


 店の営業時間を終えシャッターを下ろした後、昭夫さんと充代さんに頭を下げた。


「働かせてもらってありがとうございました」

「いやいや、こちらこそ。徹君のような若者のおかげで、ここまでやってこれたよ」


 帰ったら楽人と彬に謝るつもりでいたら、向こうから電話がかかってきた。


「おれらな、取りあえず一曲、ミュージックビデオ作ってもらえるて」


 中西さんたちに怒られた話を聞くつもりでいたから、流れがよくわからなかった。


「なんでだ? 約束破って俺はあの場から消えたじゃないか」

「それが、徹の写ったニュース番組、バズっててさ。あのイケメン誰?って話題になってるらしいぞ。ったく顔のいい奴は得だな」


 ミュージックビデオなら、俺の顔が売りになる、という算段らしい。

 うますぎる話に警戒心が生まれる。だが、と考え直した。


 これは昭夫さんの店がくれたチャンスだ。チャンスの女神をつかみ取って、ミュージシャンとしてやっていく足がかりにすればいい。


 俺は改めて昭夫さんの店の方角に頭を下げた。

「ありがとうございました」

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