第23話 魔法使いの弟子の悲喜

 フルスロットルでアクセルを回すこと、三時間弱。


 頭の中の大まかな地図を頼りに、淳太はひた走った。

 国道から徐々に細い道へと入っていき、舗装された道路が途切れたところでバイクを降りる。


 ほとんど人の手も入っていなさそうな山道を見つけ、その入口の前で深く呼吸した。


(センパイの思考を、読み切れ……!)


 素子と出会ってから別れた日までの、全ての表情・行動・感情を鮮明に思い出す。


 素子がこの場にたどり着いたとして、何を考え、何を選択し、どう行動するのか。

 頭の中で微細にシミュレートする。


 思考の、フル・トレース。


「ぐっ……!」


 目眩を覚え、足元がフラついた。

 目の前の相手の感情や少し先の行動を『読』むのに比して、脳への負担が段違いだ。


 他者の思考を完全に再現することなど、不可能である。

 それでも淳太は、少しでもヒントを見つけるために頭の回転数を下げない。


 小一時間程も、そうしていただろうか。


「『視』えた……か……?」


 薄ぼんやりとしたイメージが頭の中で結ばれて、淳太は小さくそう呟いた。


 いや、ぼんやりとしているのは現実の視界か。

 頭痛が酷く、立っていることさえ辛い。


 それでも淳太は、歩き出した。


 ポタリ。何かが落ちた気配。

 のろのろと視線を下ろす。


 地面に赤い染みが出来ていた。

 その時になって初めて、淳太は己の鼻から血が流れ出していることに気付く。


 グイッと腕で乱暴に拭った後に、覚束ない足取りで山道へと踏み入った。


「センパイ、無事でいてくれよ……」


 妙な胸騒ぎに、不安な気持ちを膨らませながら。



   ◆   ◆   ◆



 果たして、その胸騒ぎは的中したのか否か。


 その場に至って尚、淳太には判別出来なかった。


 まず、素子は無事な姿で発見された。

 パッと見たところ、怪我などもないようだ。


 けれど。


 素子は、小高い崖の縁に立っていた。

 淳太から見えるのは、後ろ姿のみ。


 風にその長い黒髪を靡かせるその後ろ姿が、出会った日の事を彷彿とさせる。

 如何なることがあっても揺らぐことがなさそうだと感じた、凛とした佇まい。


 だが、今の淳太は知っている。

 それが、真実でないことを。


 むしろ、あと少しでも揺れれば崩れ去ってしまう儚さを持っている背中なのだ。


 きっと、今の素子はあの時よりも更に脆い。


 一年の時を費やしても、魔法は実を結ばず。

 何があっても離れない結びつきだと信じた、師弟関係もなくなって。


 最後に縋った、依存先にまで拒否された。


 拒絶した当の本人が何を、という思いはある。

 それでも、今ここで彼女を連れ戻せるのは自分しかいない。


 そんな焦りだけが、淳太の胸を占めていた。

 けれど、何と声をかけて良いものやらわからない。


 彼女の背に、今にも崖の向こうへと飛び降りてしまいそうな危うさを感じたから。

 下手な刺激は、その最後の引き金となりかねない。


 ゆえに淳太は、その後ろ姿を見つめたまま何の行動も取ることも出来なかった。


 と。


 ゆっくり、素子が振り返る。


「えっ……?」


 そんな、掠れた声が淳太の耳に届いた。

 強い風が吹いたから、それが彼女の声を運んだ。


 それから、その風は。

 素子のバランスを、大きく崩した。


 瞬きすらも、しなかったのに。


 素子の身体が、崖の向こうに消えていった。


「なっ……!?」


 一瞬硬直してしまったことを、即座に後悔する。


 後悔に思考を費やしてしまったことを、更に後悔した。

 後に、駆け出す。


(間に合うか……!? いや、考えんな!)


 頭を空っぽに、とにかく全力疾走。


(……違う)


 空いた思考に、別の考えが浮かんできた。


(考えろ!)


 頭の回転数を、急速に上昇させる。


(お前にはそれしかないだろ、荒井淳太!)


 上昇させ続けながら、崖の向こうへと飛び込む。


 瞬時に地形と素子の位置を把握。


 計算、開始。

 高さ、重力加速度、角度、体重、空気抵抗、風向き、etcetcetc。


 あらゆる要素から、最適解を導き出す。


 結論。


(いける!)


 辛うじて傾斜のある崖に足を着けて、駆けることで自由落下の速度を上回る。


「う、おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」


 恐怖を、叫び声で誤魔化す。


 問題はない。

 計算は完璧だ。


 淳太の計算が間違った解を求めたなど、これまでの人生で一度もない。

 それはもう、憎々しい程に。


 今だけは、その憎々しさに感謝する。


「ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……!」


 身体を最適に動かし続ければ、間違いなく淳太は素子の元まで辿り着ける。


 確信を胸に、計算を頭に、身体を動かす。

 関節の一つ一つ、筋繊維の一本一本に至るまでを意識して駆ける。


「ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……!」


 時間の経過を遅く感じる。


 周囲の景色が、少しずつスローモーションになっていく。

 生まれて初めての脳がクロックアップする感覚だが、淳太は戸惑わなかった。


「っ、ざけんな!」


 そんなことより、胸を焦がしそうな程の怒りを抑えるのに精一杯だったから。

 落ちる直前の素子の顔を、ハッキリ見ていたから。


 一度見た以上、淳太は何度だってその光景を鮮明に思い出せる。

 何度も思い出しては、何度も怒りが爆発する。


 記憶の中で。


 そこに浮かんだ、表情が。


「俺に! 諦めんなっつったアンタが!」


 全てを諦めたようなものだったから。


「そんな顔してんじゃねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」


 最後は、空気をビリビリと震わせる程の叫びとなっていた。


 同時に、身体を投げ出す形で跳ぶ。


 その時になってようやく、素子の顔が自分の方に向いていることに気付いた。

 表情を『見』ている余裕はない。


 素子が地面に接触する。

 その直前で、淳太の腕が間に滑り込んだ。


 素子をしっかり抱き留める。


 時間感覚が、戻った。

 同時に、全身を激しい衝撃が襲う。


 問題はない。

 想定通りだ。


 ちゃんと、衝撃を散らすように計算して跳んでいる。

 身体がバラバラになりそうな痛みも、想定内。


 素子を自分の身体で包み込む形で、淳太はゴロゴロと地面を転がった。

 腐葉土が、いくらかダメージを軽減してくれたのは幸いだ。


 数メートル分は転がった後に、ようやく停止する。


「……っ、はぁ」


 淳太は、いつの間にか止まっていた呼吸を再開させた。


 バクバクと打ち鳴らされる自身の心臓の音が、少し耳に五月蝿かった。


「……いや、参ったねこれは」


 そんな淳太の胸元から、声が発せられる。


「まさか、こんなタイミングで来てくれるとは」


 その声色は、場違いな程に落ち着いたものだ。


 淳太は、自らの腕の中に目を向ける。


「やっぱり君は、ヒーローだねぇ。助けて欲しい時に、必ず来てくれる」


 『嬉しさ』と『寂しさ』の混ざった目が、淳太を見上げていた。


「今回、俺は、元凶でも、あった、みたいだ、けどな……」


 整わないままの息と共に、差し当たりそんな軽口を吐き出す。


 直接的な原因は強風だったのかもしれないが、淳太に気を取られなければ素子が崖から落ちるようなこともなかったろう。

 素子の運動能力であれば、本来あそこで踏みとどまることも容易だったはずだ。


「そんなことは……なくも、ないのかな?」


 素直な素子の答えに、苦笑する。


「てか……こんな、とこで、何してたんだよ……」


 それから、そんな問いを投げた。


 回答内容は、ほとんど確信していたけれど。


「魔法の練習」


 素子の回答は、果たして予想通りのものである。


「……の、つもりで私はずっといたのだけれど」


 しかしそんな言葉が続くことまでは、想定していなかった。


「どうにも、違ったらしい」


 尤も、それは素子自身ですらも意外に思っていることであるようだ。


「私も、たった今気付いたんだけどね」


 彼女の表情に、『驚き』が『見』える。


「君が来るか、試して……いや、違う」


 次いで、『迷い』。


「君が来ると、信じて……いや、そんな綺麗な言葉で表していいものじゃない」


 それから、『困惑』が来て。


「あぁ」


 『納得』と。


「あぁまったく、なんと未練がましく浅ましいのだろうね」


 『自嘲』、『嫌悪』、『忌避』。


「私は、君が来てくれることをわかっていて利用したんだ」


 素子の笑みは、大きく歪んでいる。


「私はまだ、君に来てもらえる価値のある人間なんだと確認するために」


 最早、淳太でなくとも彼女が自身に悪感情を抱いていることは歴然だろう。


「あぁ、それでも、それなのに」


 けれどこれは、きっと淳太にしかわからない。


「私は……君には、もうわかっているんだよね?」


 そう、淳太にはわかっている。


「私はそれでも今、とても嬉しく思ってしまっているんだ」


 素子の中に大きな『喜び』があって、それを彼女が『厭悪』していることを。


「来てくれてありがとう、淳太くん」


 淳太の腕の中で、素子は自らの胸に手を当てる。


「だから……もう、私は大丈夫だから」


 まるで、何か大切なものをそこにしまい込むかのように。


「君は、来てくれたから」


 淳太に向けて、微笑む。


「それで、十分さ」


 とても透明な笑みだと、淳太は思った。


「この思い出だけで、私は残りの生を過ごすことが出来る」


 今にも、消えてしまいそうな程に。


「ありがとう、淳太くん。そして、さようなら。今度こそ」


 だから淳太は今一度、素子を強く抱きしめた。


 彼女が、消え去ってしまわないように。


「センパイ!」


 そして、叫んだ。


「俺は……!」


 頭の中は、少しも整理できていない。


「俺は、アンタを背負って導いてやれるほど強くねぇ!」


 とにかく思いついた言葉を、片っ端から舌に載せる。


「うん」


 素子は、表情を変えないままに頷いた。


「アンタと一緒に、一生立ち止まってやれるほどの覚悟もねぇ!」


「うん、わかっているとも」


 全てを悟った賢者のように、微笑んでいる。


 全てを捨てた隠者のように、微笑んでいる。


「だから君は、進みたまえ」


 私を、置いて。


 そんな幻聴が追随した。


「駄目だ!」


 ゆえに淳太は、否定の言葉を叫ぶ。


「だって俺は、一人じゃ進めそうにねぇから……!」


 情けない言葉を、必死に叫ぶ。


「そんなことはない。君なら大丈夫さ」


「大丈夫じゃねぇ!」


 気が付けば、淳太の目からは大量の涙が溢れ出していた。


「センパイの気持ちがわかるだなんてこたぁ、とても言えねぇ……! 俺の『目』なんか、センパイの前じゃてんで役立たずだ……! 俺の方こそが、センパイのことを何にもわかってなかった……!」


 もう、自分が何を言っているのかもよくわからなくなっていた。


「それでも、俺は……!」


 声が震えて、ちゃんと発声出来ているのかも怪しい。


「留まるんじゃなくて……! 置いていくのでもなくて……!」


 みっともないことこの上ないだろうが、今はどうでも良かった。


「センパイと一緒に、進みたいんだよ……!」


 絞り出すように、叫ぶ。


「どこに行けるかなんてわからねぇ……! 迷子になるかもしれねぇ……!」


 ようやく、涙が止まり始めた。


「でも、センパイと一緒なら……!」


 滲んで何も見えなかった視界が、クリアになっていく。


「どこに行こうと、悪くはねぇと思えるような気がするんだ」


 未だ涙の筋を残しながらも、笑みを浮かべることが出来た。


「淳太くん……」


 徐々にハッキリしてきた視界の中で、いつの間にか素子も涙を流していた。


「君は、なぜ……」


 嗚咽混じりの声が、耳に届く。


「なぜ、そこまで言ってくれるんだい……?」


 ずっと隠れていた、生の感情が顔に表れていた。


「私のことなんて、捨て置けばいいじゃないか……」


 それは、彼女が初めて真に見せた感情だったのかもしれない。


「捨て置いてくたまえれよ……」


 ほんの少しの、『期待』と。


「変に希望を、与えないでよ……」


 圧倒的な、『絶望』。


「どうせ君も、私から離れていくんだから……!」


 『読』めるのではなく、『感』じる。

 まるで、彼女と一体化したかのように。


 彼女がこれまで感じてきた苦痛が、頭の中に流れ込んでくるようだった。

 きっとそんなものは、気のせいに過ぎないのだろうけども。


 この程度の苦痛なんて、彼女が抱いているものとは比べ物にならないんだろうけども。


「一生離れない、なんて約束は出来ねぇ……」


 真摯に、言葉を紬ぐ。


「救いたい、なんて傲慢な事を言うつもりもねぇ……」


 真剣に、気持ちを伝える。


「それでも、今、俺は、センパイに……いなくならないで欲しいと思っている。センパイと共にありたいと思っている」


 その気持ちすらも、不変とは言えないかもしれないけれど。


「これは、俺のエゴなんだろう。でも、俺は」


 彼女が望むものとは、違うかもしれないけれど。


「センパイのことが、好きだから」


 それでもそれは、今の淳太が伝えられる精一杯の言葉だった。


「センパイと、一緒にいたい」


 今の淳太が伝えられるのは、それだけだった。


「淳太くん……」


 素子が、淳太の胸に顔を埋める。


「淳太くん……!」


 その手は、その声は、その身体は、震えていた。


「淳太くん!」


 必死に言葉を探すように、同じ言葉を繰り返す。


「私は……」


 顔を上げた。


「私も……」


 涙でくしゃくしゃになった顔に、笑みを浮かべている。


「好きだよ」


 淳太の胸に手を突いて、自身の身体を起こした。


「今度はたぶん、依存でも誤魔化しでもないと思うのだけれど」


 お互いに、真っ赤になった目を合わせる。


「どうだろう?」


 素子が、淳太に向けて小さく首を傾けた。


「……わからねぇ」


 本心から、淳太は答える。


「生憎、その手の『情報』は収集できた試しがなくてね」


 冗談めかした言葉と共に、微苦笑を顔に乗せた。


「そうかい」


 素子が、笑みを深める。


「なら」


 こちらは、少しだけイタズラっぽい笑みだ。


「これから、二人で」


 グイ、と身体を伸ばす。


「経験を、積んでいこうか」


 二人の唇が、軽く触れ合った。


「ね?」


 至近距離で、見つめ合う。


「……あぁ」


 淳太は、今度は普通に笑った。


「……ふふっ」


 素子の笑みが、またその種類を変える。


「君、真っ赤だよ? 可愛いね」


 優しげで、少し嗜虐的な笑い方だ。


「……ほっとけ」


 淳太は、口を「へ」の字に曲げようとした。


 けれど、緩んだ頬はその形を変えようとはしなかった。


 そこに生じた熱も、しばらくは収まることはなさそうだった。

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