第21話 魔法使いの弟子の支離
それは、ついに迎えることとなった夏休み最終日のことである。
「だー、クソッ!」
「いやー、見事に降られたねぇ」
海に行った帰り道でゲリラ豪雨に遭遇した二人は、より近い位置にあった清川家に退避していた。
「はい、使ってくれたまえ」
「どうも」
素子が家の中から持ってきたタオルを受け取り、淳太は身体を拭う。
「シャワー、浴びるかい?」
「いや、いいよそこまでは」
家の奥を指して尋ねてくる素子には、首を横に振って返した。
「なら、私の部屋に行こう。着替えを用意するよ」
「着替え……?」
淳太は僅かに眉をひそめる。
「あぁ、あれか……」
しかし、すぐに思い当たった。
『合宿』の時に素子が用意していた淳太用の芋ジャージは、リュックに入れたまま素子に返却していたのだった。
「……じゃあ、ちょっとお邪魔するわ」
一瞬躊躇した後、淳太はそう断って家に上がる。
雨がどの程度で止むのかが不明である以上、濡れたままというのは避けられるのであれば避けたいところだった。
連れ立って、素子の部屋に向かう。
「はい、これ」
果たして、素子が部屋の箪笥から引き出してきたのは件の芋ジャージであった。
「……どうも」
やや微妙な表情で、それを受け取る。
「私は、少しシャワーを浴びさせてもらってもいいかな?」
「センパイの家なんだ、好きにしてくれよ」
「では、そうさせてもらうよ。君は、適当に寛いでいてくれたまえ」
それだけ言い残して、素子は部屋を出ていった。
階段を下っていく音を確認した後、淳太は身に付けていたシャツとジーンズを脱ぐ。
降り出した直後から全力疾走したのが功を奏したのか、下着はそこまで濡れていなかった。
若干の安堵を抱き、芋ジャージに袖を通す。
着替えに費やした時間は、一分にも満たない。
手持ち無沙汰になった淳太は、差し当たりその場に腰を降ろした。
窓の外を見上げてみれば、未だ雨は上がる兆しを見せていない。
前回訪れた時と同様、家の中に素子以外の気配はなさそうだった。
落ち着かない心持ちで、部屋の内装を見回したりしながら時間を潰す。
淳太としては、傘でも借りられればこのまま帰っても問題ないのだが。
それを言うタイミングを逸してしまっていた。
流石に、勝手に傘を持っていくわけにもいくまい。
妙な緊張感に包まれつつ、待つことおよそ十五分。
「やぁ、お待たせしてしまったね」
そんな言葉と共に、部屋の扉が開いた。
「別に、構わ……」
何気なく、そちらに視線を向けて。
「ねぇっ!?」
淳太は声を裏返らせた。
扉の向こうから現れた素子が、バスタオルを身体に巻きつけただけの格好だったためである。
「ちょ、何やってんだアンタ!?」
慌てて淳太は身体を反転させて背を向けた。
「なにせ、私の着替えはこの部屋にしかないものでね」
「出て行く時に持ってけよ……!」
「はは、うっかりしていたよ」
背中越しにそんな会話を交わす。
扉を閉める音が、小さく淳太の耳に届いた。
「ねぇ、淳太くん」
次いで、そう呼びかけてくる声。
「もう、夏休みも終わりだね」
丸っきり普段通りの声色だ。
自分だけが意識しているのが少し馬鹿らしくなり、淳太は小さく深呼吸して気持ちを落ち着けた。
「夏休みが終わったら、学校行くのか?」
実際のところ、心に平穏が訪れることは全くなかったが。
返した言葉は、概ね平素通りの響きを伴えていたように思った。
「今のところ、その予定はないかな」
「だったら、夏休みとか関係ねぇだろ」
「はは、然りだね」
少なくとも表面上は、いつもと変わらぬ雑談を交わす。
「ねぇ、淳太くん」
「なんだよ……つーか、早く服着ろよ」
聞こえてくる音から判断するに、素子は部屋に入ってから一歩も動いていないようだった。
服を着ようとする気配も感じられない。
「私たち、付き合わないかい?」
その言葉は実に唐突に、そして何でもないことのように告げられた。
「はいぃ?」
思わず振り向きそうになる。
ギリギリで、どうにか堪えた。
「あれか? また買い物にでも付き合えってか?」
「もちろん、男女の仲になるということだよ」
やや動揺の乗った淳太の声に対して、素子のそれはやはり平素と変わらぬものだ。
「ハッ、何言ってんだよ」
辛うじて、鼻で笑うことに成功する。
「俺らは、そういう関係じゃないだろ」
ならばどういう関係なのかというと、今以てよくわからないものではあるけれど。
「だから、そういう関係になろうと言っているのさ」
素子が歩み寄って来る気配。
「私は、本気だよ?」
後ろから、フワリと良い香りが漂ってきた。
同時に、何かに包まれる。
何か。
確認するまでもない。
素子が、淳太の首に腕を回して抱きしめてきたのだ。
視界に映り込んでくる、肌色。
「ちょっ……!?」
今度は、驚きのあまり顔が振り返ることを避けられなかった。
視界が、素子の顔でいっぱいになった。
それが、更に近付いてくる。
「んっ……」
「んむっ!?」
そして、唇を塞がれた。
柔らかい何かが唇に接触している。
キス。
口付け。
接吻。
頭の中にそんな単語が乱れ飛んだ。
「待……ちょ、待てっ!」
身体を後ろに倒す形で、距離をる。
「なんだ、いきなり!?」
混乱する頭の中から、思ったままの言葉が飛び出した。
「別に、いきなりという程でもないだろう?」
一方の素子は、実に落ち着き払ったた態度だ。
いつもの飄々とした笑みは、微塵も崩れていない。
「知り合って、もう三ヶ月近くも経つんだ。一般的に見て、交際を始めるのに早すぎるということもあるまいよ」
素子の感情が『読』めなかった。
恐らくは、彼女の表情の作り方が変わったわけではない。
淳太の脳が、その大半の機能を麻痺させているのだ。
「そういう、問題じゃ……」
「ねぇ、淳太くん」
三度目の、素子からの呼びかけ。
それと同時に、パサリと素子の身体を包んでいたバスタオルが落ちた。
目を逸らすべきだという判断が、咄嗟には浮かばない。
結果、真正面からそれを見つめることになる。
美しい。
素直に、そう思った。
細身ではあるが、痩せぎすというわけではない。
程よく筋肉の乗った、健康的な肢体だ。
仄かに日に焼けた肌には、染みの一つもない。
かつて水着によって隠れていた部分も、今は何の遮蔽物もなく顕になっている。
目を離すことが、出来なかった。
「私の心も身体も、何もかも全部あげるからさ」
再び、素子の顔が接近してくる。
「ずっと、私と一緒にいてよ」
淳太は更に身体を後ろに倒した。
背が床に着いた。
「私を、一人にしないで」
そこに、素子が伸し掛かってくる。
「愛してるんだ、淳太くん」
その、言葉に。
靄がかかっているかのようにボヤケていた淳太の思考が、一瞬でクリアになった。
再び重なり合う直前で、両者の唇の間に手を滑り込ませる。
「……私のこと、そういう対象としては見れないかい?」
至近距離で見つめ合った。
「……そうじゃない」
事実である。
「けど、センパイのそれは」
実際、淳大はかつてない程の昂りを己の中に感じている。
「愛じゃない」
それから。
「……依存、だ」
張り裂けそうな程の、胸の痛みも。
それを認識した時、初めて気付いた。
(あぁ、そうか……)
とても、遅まきながら。
(俺は、センパイのことを……)
そんな、自分の感情に。
もう少し早く自覚していれば、素子の奥底にあるものにもっと前の段階で気付けたのかもしれない。
けれど、全ては遅きに失していた。
「……依存?」
キョトンした表情で、素子は目を瞬かせる。
「あぁ……なるほど、確かにそうみたいだね」
しかし、すぐに得心顔となった。
「どうやら私は、君に依存しているらしい。それはもうどっぷりと」
その笑みが、蕩けるような艶めかしいものに変化する。
「けれど、それがどうしたっていうんだい?」
まるで、聖者を惑わす淫魔のような表情。
「別に、いいじゃないか」
素子が身体を密着させてくる。
「私には淳太くんが必要なんだ」
嗚呼。
「君が傍にいてくれるなら、なんだってするよ?」
それは、なんと甘美な誘惑だろう。
以前であれば、何の抵抗もなく受け入れていたかもしれない。
淳太もずっと、寄りかかることの出来る存在を心の何処かで求めていたから。
自分を必要としてくれる存在を、渇望していたのだから。
「……聞いてくれ、センパイ」
けれど淳太は、素子の肩をそっと押すことで距離を空けた。
「最近、少しずつだけど母さんと話すようになったんだ」
関係ないように思えるかもしれない話題。
しかし、素子はじっと淳太を見つめたままに聞いている。
「母さんは俺を嫌ったわけでも、俺から興味を無くしたわけでもなくて……ただ、どう接すればいいのかわからなかったんだと思う。たぶん、俺と同じように」
もっと上手く話せればいいのにと、淳太はもどかしい思いを抱えていた。
こんな時に限って、頭は上手く働かない。
「そういうことが、わかってきた」
足りない頭で、拙い言葉を紬ぐ。
「センパイの、おかげだ」
感謝の気持ちだけは、精一杯込めて。
「ありがとう」
素子は、フッと僅かに笑みを深めた。
「私は、軽く挨拶しただけだよ? 何も大したことなどしちゃあいない」
なるほど、それはそうなのだろう。
けれど。
「そんなもんが、俺たちにとっちゃ大したことだったのさ」
淳太は、心からそう思っている。
「だから俺は、センパイに感謝している。どうにかセンパイの力になりたいと思っている。命は捨てられねーが、賭けるくらいはしたっていい」
それもまた、本心からの言葉だ。
「けど……こういうのは」
淳太は、口元を歪めた。
「違うと、思う」
悔しさが、自然とその形を作った。
「ここで俺が受け入れても……たぶん、救われねぇ。俺も、センパイも」
理想を、言うならば。
この場は受け入れるのが、一番丸く収まる方法なのかもしれない。
それから改めて、二人の道を探せばいい。
淳太が、主導となって。
けれど淳太は、そう出来る自信がない。
否。
自分には出来ないという確信が、あった。
最も身近な人間とさえ、十七年経って尚、適切な距離が見えていない。
最近少しだけ光明が差したのだって、外部からの投石があったからこそだ。
ここで受け入れれば、淳太は間違いなく素子との距離を見誤る。
素子に寄りかかることになる。
お互い、相手に依存し合うに違いない。
一時的には、幸せな時を過ごせるのかもしれない。
しかしそれは、共にゆっくり沈んで溺れていくだけの道だ。
自身の気持ちを自覚した今、その選択肢を選ぶことは出来なかった。
想い人を、溺れさせるわけにはいかなかった。
たとえその結果、想い人を拒絶することになろうとも。
「そう……かい」
素子は、酷く狼狽したような表情を浮かべた。
淳太には、その感情が『読』めた。
淳太の脳が回転数を取り戻したというよりも、彼女の見せる感情が大き過ぎたたためだろう。
一見しただけでは、淳太の言葉にショックを受けたようにも見えるかもしれない。
けれど、そうではない。
素子の衝撃は、淳太の拒絶に端を発したものではない。
「私が、君にそんな表情をさせてしまっているんだね」
己の言葉こそが淳太の苦悩を発生させているのだと、気付いたからのものだった。
「ごめんね」
素子が身を引いて、淳太から離れる。
再びバスタオルを身体に巻き、背を向けた。
「少し距離を置こうか、私たち」
背中越しに、そんな声が届く。
声色は、普段通りに聞こえるものではあった。
「……あぁ」
けれど淳太はその表情を『見』る覚悟が持てず、短く返して立ち上がる。
「ジャージ、借りてく」
そのまま、返事を待つこともなく部屋の扉を開けた。
「それは君のために用意したものだ。返す必要はないよ」
最後に、そんな言葉だけを耳に残して。
淳太は素子の部屋を後にする。
階段を下りて、玄関の扉をくぐった。
雨足は、未だその激しさを少しも減じてはいない。
けれど淳太は傘を差すこともなく、訪れた時とは対照的なノロノロとした足取りで。
清川家から、離れていった。
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