第19話 魔法使いの弟子の示唆

 走ること、しばし。


 追手がないことを確認した後、二人は足を止めた。


「いやはや。君といると、なかなかに新鮮な体験が出来るね」


 額の汗を拭って、素子が笑う。


「経験しないに越したことはないけどな……」


 息を整えながら、淳太も軽口を返した。


「センパイ、今度からあんまこの辺一人で歩くなよ?」


 念のため、釘を差しておく。


 大田が素子にまで手を出すかと言われれば懐疑的ではあったものの、やらないと断言出来るほどに淳太は彼のことを知ってはいなかった。


「用事がある場合は、君がボディガードに付いてくれるということでいいのかな?」


「俺も、しばらくこの辺りには寄り付きたくないけどな……」


 割と本心からの言葉である。


「さて、この後はどうする? ウチに寄っていくかい?」


「うーん……」


 素子の問いに、淳太は頭を悩ませた。


 まだ、日暮れも訪れていない時刻。

 母親は在宅だろう。


 やはり素子の家に上がり込むのは気が引けるが、さりとて他に時間を潰す当てもない。


 そんな風に考えながら、差し当たり二人の家へと続く共通の道を歩いてた時。


「あっ……」


 淳太は、身体を硬直させた。


 視界の先に、見知った……とてもよく見知った、けれど長らく見ていなかった顔があったから。


 荒井あらい直美なおみ


 淳太の母だ。


「母、さん……」


 喉が、無意識にそんな音を発した。

 カラカラになっているのは、今しがたまで走っていたせいだけではない。


「あぁ」


 無感情な目が、淳太に向いた。


 無表情なのは、淳太に対してだけなのか普段からそうなのか。

 少なくとも淳太は、もう長らくそれしか母の表情を知らない。


 そして、無言のままにその顔が逸らされた。


 まるで、丸っきりの他人がたまたま目に付いただけだったかのように。


 何の興味も示さずに。


(心を、静めろ……殺せ)


 淳太は視線を前に固定したまま、無表情を貫いて強くそう念じた。


 これ以上、傷を負わないように。


 視界の端で、母が通り過ぎていく。


「どうもこんにちは、お母様」


 けれど、そんな声が彼女を呼び止めた。


 声の主など、一人しかいない。


「淳太くんとお付き合いさせていただいております、清川素子と申します」


 更に続いた言葉に、淳太はギョッとした表情を向けた。


 返ってくる素子の笑みは、どこかイタズラっぽいものだ。


 傍から見れば、内緒にしていた関係を突如カミングアウトされた彼氏と、してやったりの彼女……といったところか。


 しかし実際のところ、素子の表情から『読』めるのは「少し試させてくれたまえ」とでも言いたげな真摯な感情だった。


「そう」


 直美は、一見変わらずの無表情。

 しかし、ほんの少しの驚きが『読』めた。


「もう、長いの?」


 素子と正対し、尋ねる。


「付き合い始めてから、二ヶ月程です」


 動揺の色もなく素子は答えた。

 「付き合う」の意味が男女のそれを指すのでなければ、事実を述べた言葉ではある。


「そう」


 母が淳太へと視線を向ける。


 いつ以来だろうその目を正面から見て、淳太の鼓動が速まった。


 やはり、彼女は一見無表情。

 けれど、「彼女は、知っている・・・・・の?」と『読』める。


 言葉に詰まって、淳太は何も言えなかった。


 ……と。


 ふいに、手が暖かいものに包まれた。


 素子に手を握られたのだと、少し遅れて気付く。


 いつの間にか冷え切っていた手が、体温を取り戻していく。


「……全部、話してある」


 一呼吸挟んで、淳太はそう答えた。


 答えることが、出来た。


「そう」


 やはり短く答えて、直美は視線を素子の方に戻す。


「淳太を、お願いね」


 淳太の心臓が再び、そして先程とは比べ物にならない程に跳ねた。


「じゃあ、私はもう行くから」


 そう言って、立ち去っていく。


 ただ、それだけ。


 たった、それだけのやり取りがあっただけだ。


 けれど、淳太は堪らなく泣きそうになっていた。


 お願い、と。


 母は、『本気』でそう願っていたのだ。


 本当に無関心だったなら、そんな風には『読』めない。


「ねぇ、淳太くん」


 一人だったら、泣いてしまっていたかもしれない。


 ほんの少しだけ残った矜持が、素子の前で涙を流すことを留まらせた。


 尤も、その直前の表情を見せておいて矜持も何もあったものではないだろうが。


「私は別段、お説教をしたいわけでも理想論を掲げたいわけでもないんだけどね」


 そんな風に前置きして、素子は話し始めた。


「全ての人が分かり合えるだなんて、馬鹿な話さ。どうしたって理解出来ないことも、理解されないことだってある。親子の絆は絶対だ、なんて言うつもりもない」


 出来れば淳太としては視線を外して貰いたいところではあるが、素子は淳太の顔をじっと見つめたままである。


 淳太の内心に気付いていない……のではなく、あえてなのだと『読』める。

 ほんの少しだけ、嗜虐的な思いも『読』めた。


「けれど、まぁ」


 そんな素子の笑みが、優しげなものに変わる。


「君たちの絆は、まだ切れてはいないじゃないか」


 そこに混ざる『悲しみ』が、どういう理由によるものなのか。


 淳太には、わからなかった。


「なら……本当に君が望むのなら、諦めるのは勿体ないんじゃないのかな」


 ただ、その言葉の意味はわかる。


「諦めちゃ、いけないよ」


「……あぁ」


 だから、小さく。


「あぁ」


 けれど、力強く頷いた。


「ありがとう、センパイ」


 出来るだけ真摯に、その言葉を送る。


「君にお礼を言われるのは、そういえばこれが初めてかな?」


 素子の笑みが、冗談めかしたものに変化した。


「久しく忘れていたけれど、存外悪くないものだね。人から感謝されるというのも」


 素子としては、「そんな大げさなことじゃない」と言わんとしての軽口なのだろう。


「どうにも、現金な話で申し訳ねぇが」


 けれど、淳太にとっては大げさでもなんでもないことだった。


「センパイ……アンタに会えて、良かった」


 だから、心からそう言った。


 それは、今この場で初めて言葉にした気持ちであるが。


「ふふ。私は君に出会った時から、ずっとそう思っているよ」


 実のところ自分もそうなのかもしれないと、今更ながらに思い至る。


 出会った当初から、淳太は素子の存在に救われていたのだ。


 これ以上の感謝の言葉は、なんだか気恥ずかしくて言えなかったけれど。


 とても良い気分だった。


 なんとなく、今後の全てが上手くいくのではないかという全能感に包まれる。



   ◆   ◆   ◆



 もちろん。


 それは、何の根拠もないもので。


 果たしてそれが間違いであったことは、程なく判明するのだけれど。

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