解離 -Kairi- イグアス

 イグアスは砂漠にたたずんでいた。

 トロムの白魔法師に、ここまで飛ばされたのだ。

 辺りを見回すと、そこはアレナ水殿の中庭だった。


 後宮に面している中庭は、イシュタルが花を植えて慈しんだ場所。

 アレナの記憶が大量に脳裏を駆け巡る。一度に処理できずに、脳が悲鳴を上げた。頭の中を殴られているように頭痛がする。左目から流れる血液も止まらない。


 イグアスの身の内の狂気が暴れ出した。それを止めようと、本来の人格が足掻いている。但し、その事はイグアス自身の預かり知らぬ事だった。


「忌々しい。あの性悪女のせいでイシュタルは死んだのだ。アルベールめ、見込みのある奴だと思っていたのに、性悪女に騙されて。みんな彼奴等が悪い。悪いんだーーー」


 イグアスは手当たり次第、剣を振り上げ神殿の跡地を壊していく。狂気の人格が表面に出てきたのだ。


 イシュタルに毒を飲むように脅したのも、アレナ水殿を崩壊に導いたのも、白龍族を消し去ったのも、みんなこの男だ。


 激情を抑えられない男は、白い瓦礫に赤い血が飛び散るのも厭わずに暴れ続ける。


 その昔のことだ。

 イグアスの神としての最初の役目は人々の懺悔を聞き、慈愛を与えることだった。

 幼いイグアスは懺悔室に入る。そこに入ると、耐えきれないくらいの苦痛を味う事となる。


 人間の負の感情が恐ろしく心が苦しい。だが、神だから耐えねばならない。どんなにむごい話でも、加害者に慈愛の言葉を与えた。神を頼り悔いているのだから、救うのがイグアスの役目。


 懺悔の時間が終わった後は、ひどい罪悪感に襲われた。これでは被害者は救われない。


 全身の血液が逆流するような怒りを感じることもあった。

 先程、話を聞いた男は、一体何度同じ事を繰り返すのだ。罪のない人間を何度踏みにじれば気が済むのだ。どうして、自分だけ救われようと何度も懺悔に来るのだ。


 吐き気がするほど気持ちが悪い。目の前が真っ暗になり目眩もする。

 そんな時、アスダルに秘伝の薬を渡された。

 薬を飲むとよく眠れたし、気分がスッキリとする。いつの間にかイグアスは薬なしでは生きられなくなっていた。


 イグアスの基本人格は殻に籠もり泡沫の眠りにつく。ここは心地良い。


 もう一人のイグアスは、辛い記憶を引き受けてくれ、眠っているうちに嫌なことを片付けてくれた。


 凶暴な人格が表に出ている時、イグアスは何かを壊さずにはいられなかった。


 砂埃が立ち込め、轟音を立てて中庭が崩壊する。イグアスの左目は光を失い、傷口は醜く引き攣れて、渇き固まった。凶暴なこの男は痛みを感じない。


 ようやくイグアスの衝動が収まった時には、後宮の中庭は跡形もなく瓦礫となった。面影すらも残っていない。

 イグアスの右目は血走り、怒りのあまり荒れる息遣い。


 そこに、迷い込むように一羽の白い蝶が舞い降りてきた。イグアスに怒りを収めてほしいと懇願するように、ゆったりと羽を動かしイグアスの周りを舞う。


 それは、アレナのオアシスだけに生息していた白いアゲハ蝶だった。


 アレナが崩壊してからの三年間、各地を転々とした蝶達の、最後の生き残り。


 一羽ではもう命を繋ぐことはできない。

 蝶は最期の時を迎えるために、故郷の中庭に飛んできたのだ。


 これは、グレースの慈悲。イグアスが神として存在できる最後のチャンスだった。

 イグアスは蝶に気付き、しばし、茫然と眺めている。

 基本の人格がおぼろげながら、表層に上ってきたのだ。


 グレースが精霊の力を借りて、イグアスを慕うものを探した結果、この蝶が見つかったのだ。蝶は故郷に戻れてうれしそうに羽根を広げる。

 グレースは、この最後の蝶に力を与え、イグアスの左目を癒せるようにした。


 イグアスは怒りのあまり気が付いていないが、カイの武具『星黒翔せいこくしょうの太刀』は、碧星鉄鉱へきせいてっこうを鍛えた刀だ。

 同族への断罪用の刃で傷付けられた傷は、己の力では治癒できない。


 思い出してほしい。慈愛の神であった事を。

 蝶は歌うようにイグアスの左目の周りを舞った。


 イグアスは痛みが引くのを感じる。そして蝶を鷲掴みにした。

 狂暴な人格がまた表面に現れてしまう。


「治療できるのなら、ささとしろ」


 ただでさえ、弱っていたのだ。

 強い衝撃に耐え切れずボロボロになり、蝶は動かなくなった。


 白龍イグアスはもう神ではない。弱く無垢なものをしいすのは神ではない。自然のことわりはイグアスを見限った。

 蝶は最期に何を夢見たのだろうか?

 守護神に守られ、同族たちが舞い踊る、かつての美しい中庭を夢見たのだろうか。

 ぷつり、イグアスの耳に糸の切れた音がした。


「うわぁぁぁぁぁぁ、あの黒騎士が、黒騎士が、黒騎士が、」


 イグアスは頭を抱えて転げまわった後、放心したように静かになる。


 そうだ、トロムはイシュタルが友と呼んだが居る。性悪女と聖騎士は憎いが、精霊に罪は無い。

 黒騎士は取るに足らない妄言を吐いているだけだ。


 狂暴な人格は、残酷な記憶を抱えてイグアスの内面深く沈む。


 イグアスには自分から姉が離れていく事が耐えられない。国を崩壊させたのが己であるのも受け止めきれなかった。

 だから、都合の悪い記憶は、狂暴な人格と共に鍵をかける。


 イグアスは、笑いが込み上げてくるのを感じた。

 イグアスは記憶を塗り替える。そうしないと生きてはいけない。

 イグアスは道化のように笑う。すべてに蓋をしてしまえばいいのだ。

 イグアスはもう神ではない。違う、姉と同じ、偉大な存在になるのだ。

 すっと姉と一緒にいる。一緒に居る。一緒に居る。


「く、くく、はは、ははははは。あは、あはは、あははは……」


 なぜ悲しみが込み上げる。姉が居ないからだ。

 なぜ、苦しい。姉が選んでくれないから。

 なぜ、涙が出る。姉を騙した連中がいるからだ。

 そうしてイグアスは、人間を憎しみの対象に置き換える。そして、妄想の中の自分は清らかな存在になった。


「トロムは、イシュタルの友の精霊に免じて慈悲を与えなければ。私は白龍神なのだから」


 矛盾が矛盾を呼ぶ。嘘でもつきとおせば真実になるのだろうか?

 少なくとも、蓋をした真実はどんなに醜くとも、イグアスの世界は清らかだった。イシュタルが幸せに微笑む世界だった。



 続く

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